「───リュウ殿。リュウ殿、聞こえますか?」
「…ん?」
(この声はオオヒトか?いつもよりえらく優しい声だな)
ぼんやりと目が見えてきた。
(木目?)
「それは天井の羽目板です。木の模様です」
「…すごいなオオヒト。なんでそんなに俺が思ったことわかるんだよ」
「貴方はとても分かりやすい人ですからね。頭はどうです。痛みますか?吐き気やめまいはしませんか?」
「それも聞かなくてもわかってるんだろ。何ともねえよ。むしろ気持ちいいくらいだ」
「それならよかったです。ここは控室で、貴方の体は寝かされています」
(て、ことは…俺は負けたのか)
いきなりリュウの顔に、冷たく絞られた手拭いが広げて乗せられた。
「ぶっ!冷てえ!おい、濡れた手拭いなんか顔にかけたら、息ができないじゃねえか」
「顔全体が腫れ上がってますからね。冷やさないと」
「そんな手拭いはいらねえ!…くそ、手が上がらねえ。顔も動かせねえ…せめて鼻と口んところはどけてくれよ」
「もうお亡くなりになっているのですから、息などしなくても大丈夫ですよ」
「…え?なんだって?」
「貴方はサコウのひざ蹴りをこめかみに受けて、命を落としたんですよ」
「嘘だろ?」
「サコウがハイキックを出すと先を読んで、自分から頭下げたりするから見事に急所に当たりました。今まで野性のカンだけで動いて勝ってきたのに、頭で考えて動こうなんて似合わないことをするからこの有様です。でも一撃ですぐ亡くなられたので、苦しまずに済んで良かったですよ」
「冗談じゃねえ!」
リュウは手足を動かそうとするが、まったく力が入らない。
「もともと1試合だけ出て、すぐ負けて帰ろうとかおっしゃってましたでしょう。でも3試合まで頑張ったんですからよろしいじゃないですか。試合報酬も3試合で拾伍萬圓もらえますしね」
「いや、死んでるのに金もらったってどうしようも…じゃねえ!俺死んでねえって。オオヒト、それよりもこの手拭い!息ができねえ」
「あ。貴方が試合前に召し上がった屋台のぢゃんぼ餅とちんこ団子、それにあくまきのお代ですけど、屋台価格ですからお高いですよ。一品につき伍萬圓ですので三品で拾伍萬圓でした」
「は?あれ、金払えってのか?お前、そんなこと何も言わなかったじゃねえか!それにひとつ伍萬圓だと?ぼったくりすぎだろ」
「ちょうど試合報酬で払えますね。借金したままあの世に行かなくてよかったです」
「ちんこ団子はおネエばあちゃんの差し入れだって、お前が言ったぞ!差し入れなのに金払えって?…く、苦しい。息が…」
「まだ顔の腫れがひきませんね。きばいやんせの常連の方々も『男前だった兄ちゃんがおてもやんになった』と嘆いておられましたから、せめて死に顔は冷やして整えて差し上げようと思ったんですが…仕方がありません。もう一枚濡れた手拭いを重ねますね」
「こら、オオヒト!人の話を聞け。俺を殺すな!もう死んでるけど殺すな。頼む、手拭いをどけ…」
冷たい水をたっぷり含んだ新たな手拭いが「べちゃ」とリュウの顔に容赦なく重ねられた。
「どけぇ─────!!!」
怒鳴り声とともに、飛び上がるようにリュウは立ちあがった!
倒れたリュウに覆いかぶさるようにしてカウントを取っていた主審は、リュウに吹っ飛ばされてひっくり返った。
サコウも思わず「ひいっ!」と叫んで後ずさった。その顔は恐怖におののいている。
「へ?」
二人の姿を見て、リュウも驚いた。
そこは控室ではなく、試合場の床の上だった。
観客も驚きすぎて声が出ないらしく、場内は静まり返っていた。
(オオヒトは?)
振り返ると白い布が結び付けられた西の柱のもとに、介添え人としてオオヒトは居た。いつも通りの澄まし顔だ。濡れた手拭いは持っていない。
(俺は…そうか、失神してたのか)
気を取り直した主審が「ふ、ふたたび、始め!」と叫んだ時、場内には割れんばかりの歓声がやっと起こった。
───少し時を戻そう。
リュウがサコウの左ひざをこめかみに受けて力なく崩れ落ちた瞬間、主審はその異常さに即ノックアウトを宣告するか迷った。
セコンドからのタオル投入意思も確認しようとオオヒト少年の顔を見ると、般若のような顔でにらみ返された。
オオヒトは美貌であるだけに憤怒の表情には凄味があり、主審の全身にぞっと鳥肌が立った。
さらには頭の中に『続けよ!』という謎の声も響いたので主審はあわてて、
(とりあえずカウントを)
倒れたリュウに向かって「いーち!」と数え始めた。
その時、本部席では常連たちが激しく動揺していた。
「ヤッさん!兄ちゃんが死んだぞ!」
「いや、まだ死んでないだろ、でもすぐ死ぬかも」
「早くタオル投げてやらないと!」
ヤッさんは闘技戦委員長なのでこうした場合、試合を止める権限を持っていたのである。
「よし!投げるぞ」
振りかぶってタオルを投げようとしたその時、ヤッさんの右腕が動かなくなった。
第二試合で成仏を祈るように合掌していた常連が、投げようとしたタオルをひっつかんで止めたのだ。
「ヤッさん!そのタオルは投げちゃだめだ!見てみろ」
「なにっ?」
改めて白いタオルを広げてみると、
“大きなお葬式”
という、葬儀会社のキャッチコピーが入っている粗品タオルだった。
(こ、これはいかん!縁起でもない!)
「そっちにも白いタオルあっただろ?」
あせったヤッさんが常連たちに言うと
「こっちのもだめだ!」
とタオルを広げて見せた。その端に書かれてあるのは、
“殺し屋見参”
サツマの人間なら誰もが知る、害虫駆除業者のキャッチコピーであった。
「わああ!殺される」
「どっちの文字もまずいだろ!」
「でも、早くタオル投げないと兄ちゃんが」
「ええい、こんな時に誰もタオルの文字なんか気にするか!」
ヤッさんが再び葬儀会社粗品タオルを投げようとした、その時。
「そんな手拭いはいらねえ!」
リュウの声が響いた。
「えっ???」
その場にいたおそらく全員が驚きの声を上げた。
主審のカウントは「五」まで進んでいたが、リュウは倒れて目を閉じた状態でいきなり叫んだのだ。
「兄ちゃん、生きてるのか?」
「リュウさん!」
主審も戸惑いながら「ろ、ろ─く!」と数えると
「嘘だろ?」
と、またリュウが叫んだ。同時に体を起こしつつあった。
(…何なんだ、こいつは)
サコウはそんなリュウの姿を凝視しながら、わけのわからない恐怖に襲われて全身をガタガタ震わせている。
主審にも震えがうつり、「…な、な、なな…!」と弱弱しく数えた。
「冗談じゃねえ!」
一段と大きな声を出したリュウは手足を動かして、眼は閉じたままながらも立ち上がろうとしていた。
主審もサコウも、まるで動き出す死体を見るような気持ちで、震えながらリュウを見つめた。
「は…はっ…はち…」と思わず小声でカウントした主審は、リュウの動きが止まったのを見て、息を吸い込んでから大きく叫んだ。
「…きゅーう!」
の声と同時に、
「どけぇ─────!!!」
リュウが咆哮し、飛び上がるように立った。その開かれた眼は失神していたのが噓のように生気に満ちあふれていた。
「あっ?!兄ちゃん、顔が男前に戻ってる!」
「ほんとだ!おてもやんじゃなくなったぞ」
「あんなに赤く腫れてたのに」
ほんの少しの間に、リュウの顔は元の端正さを取り戻していた。
(うつ伏せに倒れて床に顔を圧迫されてたからか?いやそれにしても腫れが引くのが早すぎるだろ)
ヤッさんはどうにも理解できなかったが、とにかくリュウが復活したので細かいことはさておき、応援に専念することにした。
主審の試合再開合図とともにリュウはサコウに突進し、ローキックから顔面への掌底の連打を繰り出してきた。裏拳からのあごへの掌底ショックが残るサコウは、腕のガードを上げると共に必要以上に顔を背けようとしてしまい、胴が空いた。そこへ下腹をえぐるようなリュウの前蹴りを喰らってしまった。
続いて左右ミドル、左のハイキック、さらに後ろ廻し蹴りと、リュウの蹴撃は止まるところを知らない。当たろうが当たるまいがどうでもいいとばかりに、とにかくすごい勢いで押してくる。
失神していたことが信じられないようなパワーとスピードで攻め続けてくるリュウが、サコウには不気味だった。
さらにリュウがジャンプしてのハイキックをサコウの右側頭部に打ってきた。衝撃でふらつき片膝をついたが、その時サコウのなかに恐怖に勝る怒りが沸き上がった。何としても今回こそはヤゴロウどんを倒して、自分とキックボクシングの強さを証明したいという思いが再びよみがえった。
(ここまで来て終わってたまるか!)
サコウも片膝をついた体勢から、飛び上がりながらのひざ蹴りをリュウのあごに向けて放つ。身体を引きながら回転させて紙一重でかわしたリュウはそのままバックブローを打ってきた。
瞬時に下がったサコウが(いまだ!)とハイキックを出すべく足を上げた。
しかしリュウに蹴られ続けたダメージで思ったように上がらず、ミドルとハイの中間くらいの高さになった。それでも背の低いリュウ相手には十分な高さである。
サコウの黄金の斧はリュウの身体を切り倒すべく、渾身の力を込めて振り下ろされた!
(第十三話へ続く)
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