ヒゼンの温泉宿「江戸屋」の朝食は、元旦らしくおせち料理に鯛の塩焼き、雑煮も用意されていた。
喉の痛みが和らいだマリエも一緒に膳を囲み、
「あけましておめでとうございます」
と三人揃って新年の挨拶をしてから箸を取った。
「ヒゼンの雑煮はゴボウがささがきになって入ってるんだな。この青菜は…?ちょっと変わってるな」
「かつお菜やろ。ハカタ雑煮では定番やね。僕が住んでたカンサイではすまし汁や無うて白味噌仕立ても多いけど、リュウんとこはどやった?」
「俺のとこも鰹出汁のすまし汁で、青菜はほうれん草か三つ葉だ。里芋は定番で、ゆで玉子のかまぼこも入ってた」
「ゆで玉子のかまぼこ…ですか?」
不思議そうな顔をするマリエに、リュウは得意気に答えた。
「おぅ、食紅でピンクに染めたゆで玉子を3個並べて、魚のすり身で巻いて作るんだ。それを切ると黄身のとこが日の丸みたいにめでてえ形になる。大きくて丸いからダイマルって言われてたな。マリエんとこはどんな雑煮だった?」
「焼きあごと昆布の出汁に、削り鰹も使ったすまし汁ですね。具はかつお菜もですけど、ブリの切り身が入ってるのが珍しいってよく言われます」
「ブリが入ってんのか。そりゃウマそうだな!」
「雑煮だけでも各地いろいろあっておもろいなあ。イナバ藩やマツエ藩では小豆汁に餅入れるぜんざいみたいな雑煮もあるんやて」
「それいいな!俺、ぜんざい食いたくなってきた!」
「マリエさん。リュウはな、甘いもん大好きやねん。むっちゃ食いしん坊やねんで」
シュウが笑顔でそう言うと、マリエは箸を置いてリュウに皿を差し出した。
「じゃあ、この黒豆と栗きんとん、食べてもらえますか?私まだそんなに食べられなくて。お箸つけてませんので良かったら…」
「いいのか?ありがてえ!甘いものだけじゃなく俺は何でも食うから、マリエの食べかけでも全部もらうぜ!安心して食べ残してくれ」
目をきらきらさせて皿を受け取るリュウの顔を見て、マリエは思わず「くふっ」と笑った。
(笑った)
リュウの胸がまた高鳴った。
(マリエが笑った!…なんて可愛いんだ…)
またもマリエの顔に見惚れるリュウだったが、
(リュウ、口からよだれこぼしそうになってるで)
とシュウから心話で突っ込まれ、(いけねえ!)とあわてて浴衣の袖で口を拭いた。
その仕草にまたマリエが「うふふっ」と笑ったので、リュウも嬉しそうに「へへへ…」と笑い返した。
食事を終えて少し休憩した後、シュウは「マリエさんの体調大丈夫そうやったら、診療所の先生の意見と今後のことを少し話したいねんけど、ええかな?」とマリエとリュウに言った。
「はい。お気遣いありがとうございます。私はもう大丈夫ですのでお願いします」
リュウもマリエの顔とシュウの顔を見てからうなずいた。
「昨日はえらい目に合うて、ほんまに大変やったね。これは先生からの『もしそうするなら』いう話やけど…警察に被害届を出す時のために診断書作ってもろた。着てた服とかも全部証拠品として僕が預かってるから、もし届け出すのなら言うてくれるか」
リュウはまたもシュウの気遣いに驚くと共に、マリエが襲われた時のことを思い出して怖がらないか気になり、マリエの顔を見つめた。
しかし意外にも、マリエは冷静に答えた。
「──被害届を出すとしたら、いつまでに出さなければいけませんか」
「提出期限は定められてないけど、傷害罪の時効は事件の日から起算して10年間や。でも犯人の捜査や傷害の立証をすること考えたら、できたら早く届け出した方がええとは思う。もちろん怖いことや嫌なことを思い出したない、早よ忘れたい言うのも至極当然の気持ちやから、そないしてもええねんで」
「わかりました。ちょっと考えてみます…」
「うん。ほんで、マリエさんはチクゼンの実家に帰る予定やったんやんな。僕ら明日までは時間取れるから、これから帰るんやったら送って行ったげるで」
「……」
黙り込むマリエが心配になって、リュウが声を掛けた。
「おふくろさんが亡くなったって聞いたんだろ。親族がどう言おうと早く帰った方がいいんじゃないか。もし本当なら葬式とかもあるし…」
「それが…母が亡くなったのは、もう二年近くも前だったそうなんです」
「え?!」
「それ、どういうことだ?」
シュウもリュウも驚いた。
マリエが言うには、会社を経営していた父が急死した。母もその心労がもとで倒れ寝たきりになった。仔細あってマリエがヒゼンに行った後は、母の妹である叔母が一緒に住んで介護をしていた。
ところが親しかった人がマリエの勤務先に偶然やって来て、
「お母さんが亡くなったのに帰れないほど仕事が忙しかったんだろうけど、三回忌には来た方がいいよ」
と言われ、初めて母の死を知った。
確認のために実家に連絡するも「誤報だから帰るな」と言われたのは、マリエからの仕送りを目当てに叔母が母の死を伏せているのではないか…ということだった。
(金目当てかよ!なんてひでえ叔母なんだ!)
リュウは許せない思いで拳を震わせた。
「帰りたいとは思うんですが、母の事を黙っていた叔母に会うと思うと…苦しくてたまらなくて…昨夜もずっと考えてたんですけど」
父親の事を思い出す時のリュウと同様に、マリエも過呼吸の症状が現れ始めた。
「叔母の立場になってみれば…実の姉妹とはいえ、寝たきりで口もきけない人の世話をずっとして…叔母も大変だったと思います……本来は娘の私が母の世話をするべきだったのに……でも」
マリエの瞳から涙があふれ出た。
「ヒゼンに来てから月に一度は、病床の母の画像と日々の様子を叔母から送ってもらっていましたけど…それはきっと、亡くなる前に撮られていた画像だったと思います…騙されていたのが…やっぱり許せなくて…」
「そりゃ当然だ!」
リュウは思わず叫んだ。
「マリエは怒っていいんだよ!ひとりで行くのが苦しいなら、俺が一緒に行って代わりに文句言ってやるよ!騙されてた間に送った給料も返せって言ってやる!」
「リュウ、ちょっと落ち着き。どうしてええんか今答え出されへんから、マリエさんは苦しいねんて」
「あ…!すまねえ。つい…」
シュウはマリエにお茶を入れてやり、少し間を取ってから言葉をかけた。
「ほな、家帰るんもちょっと後にしよか。危篤いうんやったら急がなあかんけど、もう亡ぅならはったんならお母さんもマリエさんの気持ちを優先しぃて思てくれはるやろ。ひとりで帰るんが辛かったら、その時は僕らも一緒に行ったげるから」
「…はい。すみません…ありがとうございます」
「──なあマリエ。住み込みの仕事はもう辞めて来たんだろ。なら、しばらく俺たちと一緒に働かないか?」
「え?」
「リュウ?」
シュウがびっくりして声を掛けるが、リュウはお構いなしに言った。
「ジンマがすごく忙しそうだから、人を雇えばいいと思ってさ。マリエなら応対も丁寧だし、お客さんもきっと喜ぶ。住むとこも寮に寝泊まりすりゃいいし。そんで気持ちが落ち着いたら、その時は俺たちが家まで送ってやるさ!」
(リュウ!いきなり話進めすぎやで。ジンマさんに何も言うてへんのにマリエさん雇うとか、勝手にリュウが決めたらあかんて)
シュウは心話でリュウを諭したが、
(そこはシュウ、なんとか頼むよ!ジンマに上手く話して、マリエを住み込みで雇ってもらえるよう頼んでくれねえか。だってマリエをこのままひとりでほっとけないだろ?)
と、哀願のまなざしですがられた。
(いや、せやから。マリエさんが虎拳で働きたいて思うかどうかもわかれへんやろ、て)
(あ!そうか。じゃ、今からマリエに聞いてみようぜ!)
二人は心話で会話しているが、マリエには二人が黙りこくっているようにしか見えなかった。
「…大変ありがたいお話ですが、あの、お二人はどんなお仕事をされてるんですか?」
戸惑いながら問うたマリエに、
「プロレスラーとそのマネージャーだ」
とリュウが答えたが、マリエはシュウの方を見て「プロレスラーと…」そしてリュウを見て「その、マネージャー…」とつぶやいた。
「違う違う!俺だ!シュウじゃなく俺がプロレスラーなんだ」
ムキになって言うリュウに、シュウもつい笑いながら言った。
「はい、僕が『プロレスラーじゃないほう』マネージャーのシュウです。僕はでっかいけどウドの大木やねん。せやけどリュウはむっちゃくちゃ強いんですよ」
(どうせ背が低いからプロレスラーに見えなかったんだろな…)
リュウがちょっと落ち込みかけたが、マリエはこう言った。
「ええ、わかります。診療所から車に抱きかかえて運んで頂いた時に、すごく逞しい身体なので驚きました。胸の厚さと腕の筋肉から強さが伝わって来て…なんだか守られているように思えて安心できました」
(えっ…!)
“守られているようで安心した”とマリエに言われ、リュウはいきなり上機嫌になった。
「いや…俺なんか大したことねえよ。他のレスラーの方が皆でっかいし」
「ヒゼンのプロレス団体なんですか」
「ヒゴだ。虎拳プロレスって団体だ。昨日は唐津城でイベントがあってそれに出てたんだ」
「せやから、もしマリエさんがうちで働いてくれるいう場合は、ヒゼンでも実家のあるチクゼンでもなくヒゴに来てもらうことになるけど、どない思う?」
結局シュウはリュウのために、マリエのスカウト交渉を始めていた。
「あの、働くって…私が女子プロレスラーになるということなんでしょうか」
(!?)
「違う違う!!マリエにプロレスラーみたいな危ない仕事させるわけねえだろ!そうじゃなくてTシャツとかグッズの売り子とか、チケット売ったりしてもらうとか、そういう仕事だ」
「事務仕事とか出来はるかな?代表の人の秘書みたいなことも、もしお願いできたら助かるんやけど」
「父の会社が忙しい時に、事務の手伝いをしたり取引先の対応などもしていました。…医療費や診断書もですが、宿代や身の回りの物まで全部立て替えて頂いてるので、私もできればすぐ働いてお金を作りたいんです」
「いや、その費用は気にせんとって。災難の時に周りに居る人間が助けるのは当たり前のことや」
「お心遣いありがとうございます。…もしお二人の仕事で私がお役に立てるのなら、ありがたく思います」
「よし!じゃあ決まりだな。シュウ、早速ジンマに電話してくれ!」
「帰省されてるとこへ元旦早々すんません…」
シュウはいったん席を外して大恐縮しながらサツマに居るジンマに連絡し、事情を説明しマリエを雇ってもらえないかと相談した。
突然のことにジンマは驚いたが、前向きに話を聞いてくれた。
「シュウさんから見て、そのマリエさんて人はどう?人間性とか仕事に向いてそうかとか、シュウさんの直感で構わないから」
「礼儀正しいし生真面目ですね。十代半ばで親のために他藩で住み込みで働くて中々でけへんことやし、年齢以上にしっかりしてはると思います」
「よしわかった!シュウさんがそう言うなら大丈夫だ。正直俺もオーバーワークだったけど、虎拳の連中はみんな肉体労働専門だしね。任せられるとしたら虎之助ぐらいなんだけど、あいつは今復帰に向けて一生懸命身体を作り直してるから。しっかりした人に手伝ってもらえるなら助かるよ!」
「ありがとうございます!…あと、ちょっと言いづらいんですけど…リュウがマリエさんのことえらい気に入ってて…その…」
ジンマは電話の向こうで笑い出した。
「話聞いた時からピンときてた!リュウさんがマリエさんと一緒にいたいから雇えって言いだしたんだろ?こう言っちゃあ何だけど、ファンの人やスポンサーと恋愛してこじれるより、社内恋愛の方が何かと面倒がないよ。ま、節度さえ守ってくれたらその点は問題なしだ」
「ありがとうございます!ほんま助かります。リュウにはそのへんよう言い聞かせますんで」
「シンヤたちがマリエさんに手出さないように、スポンサーの紹介で雇ったって言っておくよ。『手出したらクビだし虎拳も潰れるぞ!』って脅しとけばあいつらもビビるだろう。んじゃよろしくね!」
「もう腫れは引いたな。切り傷の方はどうだ?痛むか?」
顔の湿布をはがしてやりながら、リュウはマリエに具合を尋ねた。
「いえ。かさぶたもできてるし、もう大丈夫です」
(こんなに可愛くてきれいな顔に傷つけやがって…あの男、見つけたら顔ボッコボコにしてやる!)
マリエの顔を見ているうちに、またリュウはその瞳に引き込まれていた。
「…?どうかしましたか?」
「いや…マリエの瞳って、なんか海の底みたいだなって…黒目が大きくてきれいだ」
「リュウさんの瞳こそきれいですよ。すごく茶色がかってて、凛々しいですし」
「さん付けなんかしなくてリュウでいい。皆そう呼んでるし。マリエは…俺に呼び捨てにされるのは嫌か?」
「いいえ。ヒゼンに来てからマリエって呼ばれることがなかったので、むしろ嬉しいです」
リュウは顔を輝かせた。
「じゃ、マリエって呼ぶぞ。なあ、おやつ食べたくないか?車に松露饅頭と小城羊羹があるぜ。マリエはどっちが好きだ?」
マリエは「ぷっ」と噴き出した。
「さっき朝ご飯食べたばっかりなのに。リュウさ…リュウは本当に甘い物が大好きなんですね」
くすくすと笑いながら言うマリエの顔を見ながら、リュウは「ああ、好きだ。大好きだ!」と言って笑った。
(マリエが好きだ…大好きだ!)
襖を少し開けたその隙間から、笑い合うマリエとリュウをそっと見守りながらシュウは微笑んでいた。
だが医師の言葉が頭に浮かび、シュウの表情が曇った。
“ちょっと気になることがあります”
その続きには、マリエに恋するリュウには言えない内容が含まれていたのだ。
(第七十五話へ続く)
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