今は「ヒノモト」と呼ばれているこの国。
百年近く前に内乱が起こり、それによる政治の大混乱を経て地方分権が強化され、武士の時代の名称にもあった「藩」ごとに統領を置き、各自の方針で統治を行うことになった。
先進的な藩もあれば保守的な藩もあり、サツマはどちらかといえば保守的といえる。いわゆる古き良き時代の文化、風習を重んじる傾向がある。
だが七十年ほど前に、店主が【悪法】と表現した「方言禁止令」がヒノモト全土に施行されたため、暗号と言われたほどの難解さを持った薩摩弁は普段ほとんど使われることがなくなった。
なお、ここで藩名を漢字の薩摩ではなくサツマと表現しているのも、八十年ほど前に呼称に関する法律が施行されたことに関係しているのだが、これについては後に触れることとする。
話を戻して、リュウはサツマではない他の藩から船に乗ってやって来た。
自藩を出て他藩に入るには一定条件があるが、リュウはいわゆる「密航」をしてきたらしい。
わけあり者らしからぬ無防備な寝顔に、朝の光が差しこみつつあった。
ガラガラと扉を開ける音がする。
店主が朝の支度をしているのだ、と思いながらリュウは目覚めた。
「おやじさん、早いな。おはよ…わっ!」
リュウの顔を間近で覗き込んでいたのは、しわ深い見知らぬ老婆だった。
「おはん誰な?ゆっべ飲んだくっち、こっで寝っしもたか?」
(だ、だいな?誰だ、ってことか?)
「ばあさんこそ誰だ?」
「ばあさんっち何じゃ!おネエちゃんっち言っ!」
老婆はカッと目を見開き、腹に響くような怒声を放った。
「はぁ?!」
老婆の話す言葉自体も含め、わけがわからないリュウは飛び起きて叫んだ。
「お、おやじさん!どこだ?」
ちょうど二階から店主が降りてきた。
「起きたかリュウさん。お、こりゃおネエちゃん、おはようさん」
(おネエちゃん?じゃあこのばあさんは、おやじさんの姉貴なのか?ずいぶん年が離れてるな)
リュウの怪訝な顔つきに負けじとばかりに、老婆も胡散臭そうな顔で店主に言った。
「きばい屋よ、こん『ちんこびっ』は何もんじゃ?」
意味は分からないが、どうせまた小さいと言われたんだろうと、リュウはむっとした。
(ばあさんの方が俺よりちっさいじゃねえか)
店主はそんなリュウの顔つきに笑いかけながら、老婆に向かって紹介した。
「このリュウさんはうちの新しい用心棒さ。前の見掛け倒しな坊主頭と違って、本当に強いんだ。それに店の手伝いもよくやってくれる、いい男なんだよ」
店主の説明にも老婆はなお疑り深いような顔をしている。
リュウも負けじとにらみ返すので、老婆と若者のにらめっこが続いた。
なかなか面白い光景だったので店主もしばらく眺めていたが、どちらも折れそうにないので間を取り持つことにした。
「リュウさん、この人はな、うちで使う野菜を毎朝届けてくれるネネさん。この辺じゃみんなおネエちゃんって呼んでる。おお、今日もいい野菜をありがとうな。こっちでよく見せてくれ」
(それでおネエちゃんか)
よく見れば老婆が背負う籠いっぱいに、採れたての野菜が入っている。
その野菜を店主に渡しながら、出来具合の説明を始めていた。
それはそうと、なぜ「おネエちゃん」は店主が戸を開ける前からこの店に入ってきているのか。
それを問うと、店主も老婆もキョトンとした顔をした。
「サツマではどこの家も店も鍵なんかかけないよ」
「いっでん誰でん入っ来いが当たい前やっど」
そういえば昨夜、店主は最後の客を送り出した後に扉を閉めはしたが、鍵をかけた素振りはなかったことに、リュウは今気づいた。
(何てぇ大らかなとこだ)
なかば呆れながら、さらに疑問が湧いた。
なぜ「おネエちゃん」は堂々と方言を使っているのか。
「方言禁止令」で罰せられたりすることはないのだろうか。
「他の藩ではどうなのか知らないが、サツマじゃ神社仏閣関係者は方言を使ってもいいんだよ。宗教観に基づく伝統継承尊重のためってことでな。古い神様や遠い祖先の皆さんを祀り弔うのには、故郷の古い言葉も必要だろ?」
(たしかに)リュウはうなずいた。
「このおネエちゃんはな、農家さんでもあるんだが、本職はヤゴロウどん神社の巫女さんなのさ。実はかなり偉い人なんで、おネエちゃんじゃなくて『おネさぁ』って呼ばれるべきなんだが」
「おネエちゃんっち言っ!」
「ほらな。こうして怒られるんだよ」
店主は笑いながらおネエちゃんの正体について話してくれた。
「巫女さんなのか?…なんか巫女さんって若い女の印象が強いんだけどな」
リュウはまたも虎の尾を踏んだ。
「あたいは今も若けぞ!」
目をむく老婆をまぁまぁ、と店主はなだめた。
「神社の祭りや年末年始だけ働く学生巫女のほうが多いからな。おネエちゃんは正真正銘の巫女さんだ。少女の頃から不思議な力を持っててな。今度の祭りでも神主以上に重要な役割を務めるんだよ」
「不思議な力、ねえ」
巫女というよりは妖のような老婆の顔を見ながらリュウは思った。
(不思議じゃなくて不気味な力なら持ってそうだな。このおネエばあちゃんは)
さすがに今度は口には出さなかったが。
老婆が持ってきた野菜を厨房へと運ぶと、強い青臭さやほのかな甘さが香り立った。
どの野菜の葉もピンとしていて元気いっぱいだ。
しわ深い老婆が作った、張りのあるつやつやした野菜の実を、リュウは我知らず優しくなでつけていた。
ここで「方言禁止令」について少し説明しておこう。
度重なる感染症の大流行や、自然災害被害に対する政府の対応に強い不満を持った国民が、あちこちで内乱を起した。
やがて藩制度が復活し、地方独自の治政が進むにつれて、ヒノモト中央政府の力をしのぐほどの力を持つ藩が目立ってくるようになった。
これを恐れた中央政府は、独立心を高める地域言語、特に暗号的要素が強い藩の方言を全国的に禁止にした。他の藩にわかりづらい言語で内乱の企みをされては困るからだ。
この法が施行されたのが約七十年ほど前のことである。
共通語をヒノモト全土で必ず使用するという法で縛ることで、方言で深く共感しあい、太くつながる藩民の結束力をも削ごうとした。
“ 文化を奪うにはまず言語を奪うこと ”
大昔、植民地政策の際もそうしたように、現地の民を支配者側に従順な人間に育てようとしたのだ。
しかしながらサツマの民は実際のところ「中央がどうだろうと藩に従う」といった具合で、中央政府が作った法で縛られることはあまり気にしていなかった。
ただし、何かあった時には藩として責任を問われるので、表向きは国法を守って共通語しか使わない風にしてやり過ごしていたのだ。
だが表向きとはいえ、何十年も共通語を使っていると、生まれた時から共通語にしか接しない者も増えた。ただでさえ難解なサツマの方言はどんどん忘れられていった。
老婆の使う言葉も元々の方言からはだいぶ変化しているようだが、それを正せるほど方言に精通している人も今はほとんどいない。
そもそも妖のような老婆巫女である「おネエちゃん」に反論するような、命知らずな人間はそういないだろう。
掃除や朝食を終えたのち、店主はリュウを連れて車で買い出しに出た。
老婆の野菜のように、食材を店まで届けてくれるものも多いが「仕入れる量が少ないものはわざわざ来てもらうのが悪いからな。わしは作ってくれる人のとこへ直接買いに行くんだ」と言う。
「そうすりゃ深い付き合いもできるし、新しい食材なんかもいち早く教えてくれたり、自分の料理の世界も広がる。お客さんとの話の種も増えるってもんだ。食べに来てくれるお客さんはもちろんだが、商売に関わる人たちみんなとの縁を大事にしないと、うまい料理は作れないとわしは思うんだよ」
そう言って車を走らせ、珍しい果実や自家生産のはちみつなどを買いに回った。
どの生産者も店主が買いに来てくれるのを笑顔で迎え、新参者のリュウにも「きばい屋のおやじさんの力になってくれ。頼んだよ」と親し気に声をかけてくれた。
「おやじさん、これで仕入れはもう終わりかい?」
食材を荷台に載せ終わったリュウが言うと、
「ああ。仕入れは終わりだが、もうひとつ寄るとこがあるんだ」
そう言って町の中心にある山へ向かった。
案内看板には「城山」と書かれている。
「城山って、昨日お客の一人が言ってた洞窟のあるところなのか?」
「そうだ。ほれ、あそこに柵があって、その向こうに横穴が見えるだろう。あの洞窟にセゴどんが立てこもってたんだ。だが、今日はセゴどんの話じゃなくて、別のものを見せたいんだ。ついてきな」
高台で車を停め、木が生い茂った公園の中を歩いて行くと、大きく視界が開ける展望台に着いた。
「おおおっ!」
見下ろす市街地の向こうに海を隔てて、横長のどっしりとした大きな山があり、右の方の山頂から大きな白い煙が上がっていた。
(でっけえ!これが桜島か…)
(第四話へ続く)
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