「へえ。牛タンのシチューって、作るのにそんなに手間がかかるもんなのか」
ほとんど空になった深皿を両手で抱えて見つめながら、リュウは言った。
大晦日のイベントが終わった後、二人は唐津城近くで遅めの昼食を取っていた。牛タンのシチューが美味しいと評判の「こまどり」というレストランである。
「せや。まず牛の生の舌を鍋で茹でて皮むくんやけど、この煮込んでる時の臭いがきつうてな。下処理も血抜き、筋取り、筋取ったら血管も取ったりとか、かなり手ぇかかるで。ルーかて焦がさんように作るんは気ぃ抜かれへんし、シチューとして仕上げるまでの煮込みもじっくりゆっくり時間かけなあかん」
シュウはそう言いながら、自分のパン皿をリュウに差し出した。1個は食べたがもう1個パンが残っている。
「このパンちぎって残ったシチュー付けて食べ。パンでお皿拭くみたいにして付けたらきれいに全部食べられるで」
「ありがてえ!皿に付いたシチューがもったいねえから、この皿舐めようかなと思ってたとこだった」
(やっぱり思てた通りやな)
読みが当たったシュウは「それはお店ではしたらあかんて」と言って笑った。
リュウはもらったパンで皿に付いたシチューを取り、きれいに完食した。
「ああ美味かった!さすが名物の牛タンシチューだな。牛タンもトロトロほろほろだったし、汁も濃厚で旨味たっぷりだった!ごっそうさんでした!」
車に戻ると、ちょうどシュウの携帯に着信が入った。多忙のため事務所に残っていたジンマからである。シュウはスピーカーモードで通話をONにした。
「あ、すんませんジンマさん!かけ違いになって失礼しました」
「いやいや、俺の方こそ電話やメッセージもらっててごめんよ!無事終わったようで良かった。リュウさんも優勝おめでとう!」
「ありがとよ!テッペイとヒゼンのギユウってヤツに賞金渡しておやつと交換してもらったんだが、賞金はバラ撒かれてみんなで山分けになってたぜ」
「あははは!ユージとケイイチからも聞いたよ!30万とお菓子を交換なんてほんとリュウさんらしいや」
「今晩は手配してもろた旅館の江戸屋さんに泊まらしてもらいますけど、リュウと僕だけ年末年始を温泉旅館で過ごさせてもろて、ほんまえらいすんません!」
「いやいや、お二人には本当に助けてもらったんだから、ほんのお礼の気持ちだよ。俺も何とか仕事片付けてちょっとサツマへ帰省しようと思ってる。シンヤたちも2日まで実家に帰るしね。1泊ですまないけど、ゆっくりして来てね」
「ありがとうございます。元旦はカワカミさんの神社に初詣してから寮に帰りますさかいに。ジンマさんも良いお年をお過ごし下さいね」
「うん。カワカミさんにもよろしくね。じゃあ来年もよろしく!」
「おう!よろしく頼むぜ!」
通話を終えるとシュウは車を発進させた。
「ほな宿へ行こか。晩御飯は一番遅い時間にしてもろてるから、温泉入ってちょっとゆっくりしよ」
「そうだな。──あ、そうだ!カワカミさんとコマチさんへのお土産に、さっき食った松露饅頭と小城羊羹を買って行こうぜ!途中で売ってる店あるかな?」
「繁華街の辺りやったらお土産で売ってるとこあるやろ。ほなちょっと寄って行こか」
松露饅頭と小城羊羹を自分がまた食べる分までどっさり買い込んだリュウは、
「車の中でおやつ食べたいから、お茶も買ってくる!悪いがこれ持って車に戻っといてくれるか」
とシュウにお菓子を渡した。シュウのキャンピングカーは大型なので停めておける場所も限られているのだ。
大晦日の夕方とあって、早めに閉店した店も多く人通りも少なくなっていた。
(意外と自動販売機も無いんだな)
キョロキョロしているリュウの耳に突然、少女の叫び声が聞こえた。
「いや───っつ!!」
ほぼ同時にガラスが割れるような音も響いた。
(なんだ!?)
即座に音のした方を確認すると、近くの路地からのようである。さらに、
「こいつ…!!」
という男の声と “バシッ” と叩くような音も聞こえた。
リュウは声のした暗い路地に駆け込む。差し込む夕陽の逆光に照らされて奥の方に人のシルエットが浮かんだ。
(?!)
男が倒れた少女の上半身を引き起こしながら、その首を絞めていた。
「何をしてやがる!!」
激しい怒りを込めて大声で叫ぶと共にリュウは男に向かって行ったが、男は手を離して逃げ出した。
「待て!この野郎!!」
リュウは追いかけようとしたが、
(首を絞められてるから蘇生術が先だ!)
すぐ思い止まって倒れている少女の方へ駆け戻った。
「ガラスの破片で切った傷が複数ありますが、深手はありません。顔も殴られてはいましたが、拳でなく平手だったようです。首の圧迫も貴方が即血流を戻す手当てをして下さったので、大事に至りませんでした」
「そうか。良かった…」
少女を運び込んだ診療所の医師の説明に、リュウはホッとした。
リュウは少女を助けると同時に心話でシュウを呼んだ。
シュウは駆け付けながら救急車を呼ぼうとしたが、年末で出動要請が多く時間がかかるため、救急電話口で紹介された近くにある診療所へリュウと共に少女を運び込んだのだった。
「ただ、身体が弱っており貧血も起こしています。今点滴をしていますがこの診療所は入院できないため、点滴が終わったらどこかゆっくり休めるところに移す必要があります。それから…」
ここで医師がちょっと間を取った。そこへ看護師が来てこう告げた。
「あの、患者さんが助けてくれた人にお礼を言いたいとおっしゃってるんですが…」
「あ…」
「リュウ、行っといで。先生の説明は僕が聞いとくから」
「おう、じゃあ頼むぜ」
看護師に促され、リュウは診察室の少女のもとへ行った。
医師はそれを見送ってから、シュウに「ちょっと気になることがあります」と話し出した。
診察室に入ると、病衣を着た少女はベッドに寝かされて点滴を受けていた。
目を閉じたあどけない顔立ちの頬に貼られた湿布と、切り傷を覆う絆創膏が痛々しい。
(こんな子どもにひどいことをしやがって)
逃げた男への怒りが再燃し、リュウは拳を握りしめた。
「お連れしましたよ」
看護師の呼びかけに少女は目を開いた。
(えっ…)
リュウは息をのんだ。
(なんて瞳だ)
あどけないばかりの少女の顔は、その目が開かれた途端に全く違う印象になった。
(コマチさんは透き通るような瞳だったけど、この娘は…とても深い海の底を覗いてるような…なんだか吸い込まれそうな瞳だ…)
「貴方が助けて下さったんですね。本当にありがとうございます」
少女がかすれた小さな声で礼を言うと、リュウは我に返った。
「あ…いや、大丈夫か?喉がまだきついだろうから、無理して喋られなくてもいいぜ」
「はい…」
沈黙のなか、何を言っていいのか迷ったリュウは、逃げた男への怒りをつい口にしていた。
「あの男、ひどいことをしやがったな!あんたの知ってる奴か?なら、俺がすぐ捕まえに行って叩きのめしてやる!」
「…いえ、知らない人です。いきなり路地に連れこまれて…」
「あ、すまねえ!俺、喋らなくていいって言っときながら聞いちまってた…点滴終わったら家に送ってってやるから、今はとにかく休んどけよ」
そう言うとリュウは慌ただしく廊下へ出て行った。
(はぁっ)
リュウは息を吐いて呼吸を整えている。胸に手を当てると動悸が激しくなっているのがよくわかった。
(なんだ…どうしたんだ俺?父親のことを思い出した時とは違うぞ…ドキドキはしてるけど、何か違う…)
「リュウ」
「え?あ、シュウか。先生は何て言ってた?」
「うん。後でゆっくり話すけど、とりあえず着替え買いに行ってくるから、リュウはここで待っとって」
「着替え?あの娘のか?」
「襲われた時に着てた服なんか怖いこと思い出すから見るのも嫌やろ。手荷物も盗られたか失くしたみたいやし、必要なもんちょっと揃えて来るわ。点滴終わるまでには戻るから、何かあったらまたチビヤゴくん連絡してな」
「ああ…わかった」
(さすがシュウだな。いろんな細かいことまで気をまわして行動できて…俺なんか、そんなこと気づきもしねえ)
シュウが出て行った後、リュウは廊下の椅子に座りこんだ。
(さっきも怖い目にあったばっかりのあの娘に襲った男のことなんか言っちまったし…そうだよな。嫌なこと思い出させたよな…俺はほんと馬鹿だ…)
シュウは周辺の衣料品店で、温かい上着と共に数日分の衣服、また鞄と靴など一通りのものを揃えて戻って来た。そして看護師に着替えを預け、少女の着替えを手伝ってもらえるよう頼んだ。
「宿にも連絡して、差し支えない程度に事情話しといた。正月やから予約一杯で別の部屋は用意でけへんらしけど、僕らはキャンピングカーで寝るからあの娘を泊まらせて欲しい言うたら了解もらえたわ」
「え?家に送ってやるんじゃないのか?」
「せや、ごめん。まだ説明してなかったな。先生と看護師さんがあの娘から聞いた話やと、ちょっと訳ありらしぃねん」
医師たちの聞き取りによると、幼く見えたが少女は18歳でマリエという名だった。
チクゼンの実家を離れ、住み込みでヒゼンで働いていたが「母親が亡くなった」と人づてに聞き、勤め先を急遽退職して実家に帰ろうとした。
しかし親族からの連絡で「それは誤報だから帰って来るな」と言われ、混乱しながらとにかく駅に向かっていたところを男に襲われた。
必死で落ちていた酒瓶を叩きつけて抵抗したものの、かえって逆上されて顔を叩かれ、首まで絞められたとの事だった。
「母親が死んだのに親族は帰って来るなって?なんだそれ!とにかく家に戻りゃはっきりするんじゃねえの?」
「まあケガもしてるし、怖い目にあったショックで、言うてることもあやふやなんかもしれへん。とりあえず身体を回復させて、落ち着いてからどないするか本人が決めたらええと思う。親族との間にも何か事情があるんかもわかれへんしな」
看護師に支えられた少女、マリエが診察室から出て来たので、リュウは駆け寄り「大丈夫か」と抱きかかえて車まで運んだ。
(ドキドキしてんのがバレたら恥ずかしいな…)
そう思ったリュウだったが、マリエは静かに目を閉じてリュウの腕に身体を預けていた。
ヒゼンの古湯温泉にある江戸屋では、事情を聞いていた女将の指示で二間続きの奥の部屋にはすでに布団が敷かれており、マリエはすぐに休むことができた。また、マリエの身体を気遣って滋養のある雑炊も用意してくれた。
シュウとリュウは夕食を終えたら車に戻って寝るつもりだったが、マリエが「それはあまりにも申し訳ないですから、お二人もここに泊まって下さい」と言って止めた。
「いや、でも、男に怖い目にあわされたのに、襖の向こうに男が寝てるなんてのは…」
そう言いかけたリュウは(しまった!また嫌なこと思い出させちまう!)と、慌てて自分の口を手でふさいだ。
「せや。僕らに気ぃ遣わんでゆっくり休まなあかんて」
シュウもそう言ったが、マリエは目線を落として震える声で言った。
「あんな事があったから…ひとりになるのが怖いんです」
(あ!)
「わがままを言って申し訳ありませんが…助けて下さったお二人が隣に居て下さるほうが安心できます。どうか、お願いします」
頭を下げるマリエにシュウとリュウは顔を見合わせ、どちらからともなくうなずき合った。
マリエの頼みとはいえ、襖一つ隔てた向こうで女の子が寝ているというのはやはり落ち着かず、リュウもシュウも何度も寝返りを打ってなかなか寝付けなかった。
(18なのか…俺より3つ下か。もっと幼く見えるけど、でもあの瞳を見てるとなんだか大人びても見える…受け答えもすごくしっかりしてるしな…親に厳しく育てられたのかな)
寝床の中でリュウはずっとマリエのことを考えていた。胸が高鳴ってなおさら寝付けない。
(住み込みで働いてたのか…そういや助けた時、古い作業服みたいなの着てたっけ。サイズが合ってなくて、ズボンの裾は何重にも折り返してたな。もしかして金がなくて新しいの買えずに、誰かのお古を着てたのかな…?)
そうしているうちに、近くの寺から除夜の鐘の音が響いて来た。
(そうか。もう年越しか…年越しそば食い損ねたな…)
食べ物のことを考え出した途端、リュウは眠りに落ちていた。
(…ん。もう昼か?えらく明るいぞ)
リュウが目を覚ますと、障子窓のあたりがやけに明るかった。時計を見ると朝の7時である。
(元旦だ。初日を拝むとするか)
布団から出て、リュウは障子を開けた。
「うぉっ!」
窓の向こうの庭に、まぶしいほどの雪景色が広がっている。
ひと夜のうちに雪が庭に降り積もっていたのだ。
「すげえ!おいシュウ起きろ!初雪だ!元旦の朝から真っ白だぜ!」
「え?雪が?ほんまかいな」
シュウにはそれ以上構うことなく、リュウは大はしゃぎで襖の前に行って叫んだ。
「マリエ!起きてるか!?すげえ珍しいもんが見られるぞ!」
「…え?」
少しの間の後に襖が開かれ、戸惑った表情でマリエが顔を見せた。
リュウは跳び込むように部屋に入って、マリエの肩を抱きながら障子の前まで連れて行った。
「見ろ!元旦の雪景色だ!」
そう言うや障子を開け放し、窓も全開にした。
「まあ…!」
「な!すごいだろ!たったひと晩の間にこんなに積もった!今年はきっといい年になるぞ!」
「ほんとうに…なんてきれい…」
マリエは目を見開き、雪の庭を見つめていた。その瞳には涙が浮かんでいる。
「土も…泥も覆い隠して…真っ白に変えてくれて…きれい…」
「きれいだなぁ…」
いつしかリュウは雪景色ではなく、マリエの顔だけを見つめていた。
(きれいなのは…マリエ、お前だ)
それが、リュウの初恋の始まりだった。
(第七十四話へ続く)
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