「今からサツマを出る」
というリュウの言葉を受け、老婆は神職に命じて闘技戦の優勝賞金と試合報酬、また闘技戦優勝杯と賞状、副賞の鰹なま節一年分の目録も持ってこさせた。
「おやじさん。すまねえけどこの優勝杯と賞状を預かってもらえねえか。俺はこれからどこへ行くかわからない身だから、丼を持ち歩いてたらきっと壊しちまう。あ、なま節は全部おやじさんにやるから、店で出すなり食べるなり好きにしてくれ」
「もちろん大事に預かっておくよ。早く帰って来て、うちの特製大盛丼をこの優勝杯で食べておくれ」
きばい屋店主は本当はリュウを引き止めたかったが、“今すぐ出てゆくのがリュウなりの答えなのだ”と必死に自分を抑えていた。
リュウは賞金と試合報酬が包まれた祝儀袋を手に取り、きばい屋店主に差し出した。
「この賞金と試合報酬は、全部おやじさんがもらってくれ」
きばい屋店主は仰天した。
「リ、リュウさん!何を言うんだ!これは、リュウさんがまさに血と汗を流して得た金じゃないか!」
「試合に出るって決めた時からそうするつもりだった。おやじさんに礼をしたくて俺は闘技戦に出たようなもんだ」
「えっ」
「いきなり転がり込んで来た俺を快く受け入れてくれて、1日しか働けなかったのにすっげえ良くしてくれて…」
(しかも俺のせいであの美味い弁当を、いや、弁当だけじゃねえ。おやじさんの店の信用まであやうく台無しにするところだった)
「まさか優勝するとは思ってなかったが、金も増えて結果オーライだ。カントクさんの店でも立て替えてもらってありがとうな」
「だめだ!そんなのはだめだ!第一、これから旅に出るのに金がなけりゃリュウさんだって困るじゃないか」
「何とかなるよ。今は秋だし、山の中歩いて行きゃあ木の実とか食いもんあるから大丈夫だ。他の藩の町に着いたらまた、どこかで働かせてもらうさ」
ふと、苦笑いをしてから、
「次に働く時は、失礼なことを人に言わねえようにちゃんと気を付けるから、心配しないでくれ」
こう言ったリュウに店主は「リュウさん!」と腕をつかんできた。
「さっきおネエちゃんが言ったこと、あれはたしかに正しいと思う。でも、でもな。シンカイのことはわしにだって責任があるよ!」
「そんなこたぁ…」
「いや、もっと早くに強気で『お客さんが怖がってるから出て行ってくれ』とかシンカイに言うべきだった。今にして思えば、シンカイを早めに選手宿舎に泊めてやってほしいとおネエちゃんに頼んでもよかったんだ。それもせずに『祭りまで我慢すりゃいい』って逃げてたところにリュウさんが来てくれて、あいつを追っ払ってくれた…わしは万歳して喜んでた」
きばい屋店主はリュウに頭を下げた。
「すまん!自分がやらなきゃいけなかったことをリュウさんに全部おっかぶせて…あいつに逆恨みさせてしまった。リュウさんは悪くない!悪くないんだ」
「おやじさん」
リュウはきばい屋店主の肩に顔を埋め、小さな震える声で言った。
「おやじさんみたいな人が俺の親父だったら、どんなに良かったろうなぁ…」
きばい屋店主も小さな声で返した。
「リュウさん、あんたが藩を出て来たのにはよっぽどの事情があったんだろ?あんな薄汚れた格好で、百二十年も前の古い札一枚しか金を持たずに…」
リュウはきばい屋店主の顔を見た。お互いの目に涙があふれていた。
「他藩から来た人は、酒の席で郷土料理の話にでもなりゃあ、必ずと言っていいほど自分のお藩自慢もするもんだ。でもあんたはそれがなかった。あんたの口から出たのは、藩じゃ焼酎より和酒が好まれるけど自分はそんなに飲めない、そして兄貴がでかくて強かったってことだけだ。きっと何かあって、藩のことは言いたくないんだろうと思ってた」
「………」
「そんな藩のことは忘れて、ここサツマがリュウさんの故郷だと思えばいい。わしの店があんたの家だと思えばいい。だから早く修業を終えて帰って来てくれ。わしの息子だってきっと同じことを言うよ」
わしの息子───
その言葉を聞いた瞬間、リュウは昂っていた感情が急に冷めた気がした。
(ああ、そうだった…もうあの店には俺の居場所はなかったんだった)
寂しそうな微笑みを浮かべたリュウは、きばい屋店主から身を離し、わざと明るい声で言った。
「おやじさん、ありがとうよ!とにかくこの金はおやじさんにもらって欲しいんだ。迷惑かけっぱなしのままじゃ、とてもおめおめと帰って来れねえよ」
「迷惑なんかじゃなかった!だから、この金はリュウさんが持っていくべきだよ」
「いいって!おやじさんがいらなきゃ息子さんにあげたらいいじゃねえか。帰って来てくれた祝いにさ」
「そんなわけには…!」
どちらも譲らない二人に、いきなり老婆が声を掛けた。
「ではそのお金、わが神社への御賽銭として頂きましょう」
「えっ!?」
驚くリュウときばい屋店主へ向かって、老婆は続けた。
「もともとは神社からの褒賞金ですからね。“神のものは神に返しなさい”と言うでしょう」
シュウが笑いながら突っ込みを入れた。
「おネさぁ。その言葉、神さんは神さんでもキリストさんの言葉やないですか」
「どこの神様だろうと仏様だろうと、良いことはどんどん取り入れるべきでしょう」
老婆はニヤリとしながら言い、二人に向かって神饌を載せる三方を目の高さに掲げた。
「いざ、これへ」
祝儀袋を載せよ、と差し出した。
リュウときばい屋店主は顔を見合わせてから、小声で話し出した。
「…じゃあ、試合報酬と優勝賞金をおやじさんと俺で分けるってことで」
「…そうしようか」
リュウが優勝賞金を、きばい屋店主が試合報酬を受け取るということで話が決まった。
もちろんきばい屋店主はこの金には手を付けず、リュウが帰って来る時まで預かるつもりである。
「話がついたようですね。ではリュウ殿にはこれを」
賽銭をうまく使い二人の間をまとめた老婆はそう言って、リュウに木で作られた札のようなものを渡した。
神社の紋と名称が彫り込まれており、裏には書き込み欄がある。
(なんだ?)
「わが神社が発行する鑑札です」
「かんさつ?」
「許可証であり身分証です。公の身分証明と同等の効力があります。貴方は当ヤゴロウどん神社から使命を帯びて修業に出たことになります」
「え?!」
「貴方は何の身分証明も持っていないでしょう。サツマにやって来たのも密航でしたしね」
(それもバレバレか)
「その裏面に名前を書き、血判も押せばどの藩に行こうが受け入れてくれますし、他藩に住むのも問題はありません。ただし、そこに書くのは本名でなければなりません」
「ほ…本名?!」
リュウはうろたえた。
「それにちゃんと読める字で書きなさい。これでは読めません」
老婆は闘技戦前にリュウが書いた起請文を出した。そこには試合の掟を守ることを書いた文章とリュウの署名があったが、文章の部分は意外なことに達筆な筆文字で書かれていた。どうやらリュウは書道の心得があるらしい。
しかし、肝心の署名は全く異なるぐちゃぐちゃに書き崩した字になっており、判読不可能であった。
「戦国時代の花押じゃあるまいし。読めない署名では意味をなしませんよ」
「う…」
身分証明は喉から手が出るほど欲しいが、本名を書くのはどうしても嫌だった。
リュウは脂汗を流しながら、筆を持った手をぶるぶると震わせていた。
そんなリュウをきばい屋店主とシュウは心配そうに見守っていた。
ついに意を決して筆を下ろそうとした瞬間、
「あっ!そうじゃ!忘れておった!」
老婆が突然叫んだ。
驚いたリュウが思わず筆を落とし、名前を書かずに済んだ。
きばい屋店主が老婆に声を掛ける。
「ど、どうしたんだい、おネエちゃん?」
「大事なことを忘れておったわ。…リュウとか名乗っていた選手は試合中に命を落としおった。今ここにいる男は別人じゃった」
「なに?」
「え?なんですて?」
リュウもシュウも驚き、きばい屋店主は老婆に問うた。
「おネエちゃん、それはどういうことなんだい?」
「サコウ選手と闘っている時に、ひざ蹴りをこめかみに受けてリュウ選手は亡くなった。哀れなことじゃのう」
神通力が時間切れになって来たのか、共通語から老人の言葉遣いに変わりつつある老婆の言葉に、リュウは顔を青ざめさせていた。
“貴方はサコウのひざ蹴りをこめかみに受けて、命を落としたんですよ”
失神していた間に見た夢と同じことを老婆が言っている。
また、あの時オオヒトだと思っていた声も、今は老婆の声に近く思えてきた。
(あれは夢じゃなかったのか?!じゃあ俺はあの時に本当に死んでて、オオヒトじゃなくおネエばあちゃんと会話して…?そのあと、いったいどうなったんだ?)
「リュウ選手は亡くなったが、その直後に別の魂となって生まれ変わったようじゃ。じゃが、その男にはまだ名がなかった。よって今から名を授けよう」
老婆は懐から紙を取り出し、開いてリュウに示した。
「木札にこの通り書けばよい。これが其方の本名となる」
リュウはその紙を食い入るように見つめた。
やがて筆を取り直し、今度はわかりやすく、かつ達筆にその名を書いた。
シュウときばい屋店主がその木札を覗きこむと、そこにはこう書かれてあった。
──── 飛成 竜 ────
「ひ…なり…りゅう?」
シュウが読み上げた。
「…飛車が成って龍王に、ってことかい?でも、竜だから旧漢字の龍じゃないしな」
きばい屋店主が将棋の駒になぞらえて言ったが、老婆は何も言わなかった。
「───これが俺の名か」
リュウは木札を手に取って、嬉しそうに眺めていた。
(竜…リュウ。なんのしがらみもないただのリュウに、俺はやっとなれた…!)
「ありがとう!!おネエちゃん!」
心からの感謝を込めて、リュウは老婆をはじめてこう呼んだ。
すると老婆の姿が変化し、髪は銀髪のままだが若い美女の姿になった。
顔立ちはどこかオオヒトに似ていたが、肌の色は透き通るように白く、そしてその瞳は赤く、まるで紅玉のようであった。
(え?…こ、この女性はいったい誰なんだ?)
驚くリュウにその美女はにこやかに微笑んで言った。
「リュウ殿。よかったですね」
その声はまさしく失神した時に聞いた、あの優しい声であった。
(第二十六話へ続く)
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