リュウが戸惑った次の瞬間、耳に聞こえてきたのはもとの老婆の声だった。
「そうそう、これも渡しておかねば。其方の大事なものであろう?」
姿も若い美女ではなくなっていたが、差し出されたものを見た途端、リュウは老婆の声や姿はもうどうでもよくなった。
「ああっ!じいちゃんの財布だ!」
うっかり落として、ヤッさんにゴミと思われ捨てられてしまった祖父の形見の巾着袋である。
急いで中を確認すると、ぼろぼろではあったがちゃんと二千円札も入っていた。
「ある!ちゃんとあった…!良かった、じいちゃん…!これ、どこにあったんだ?!」
「港の近くに住む婆様が当日、周辺を掃除しておってな。ゴミ箱の中にこれが入っていたのを見つけて『この古い紙は神様のお札かもしれないから』と巾着袋ごと記念紙幣を神社に奉納しに来てくれてたんじゃ。よかったのう」
「ああ!ありがてえ!!…この紙幣に描かれてある絵は、ばあちゃんの好きだった物語の絵だとじいちゃんがいつも言ってた。しょっちゅうじいちゃんが触っては眺めてたからこんなにぼろぼろになっちまってるけど、ばあちゃんへの気持ちがそんだけ強かったからなんだ…」
「源氏物語か」
「なんていう物語かは俺は知らねえけど、たしかばあちゃんの名前もその話にちなんでるって言ってたな」
「紫と書いて『ゆかり』ではないか?」
「あ!それそれ!」
(さすが何でもお見通しだな)
「源氏物語は『もののあはれ』を感じ、考えさせてくれる話じゃ」
「ものの…あわれ?」
「たとえるなら『人の心を知る』ということじゃな。其方も機会があれば読んでみるがいい」
(それも人としての修業か)
「その巾着袋は赤岡縞じゃな。祖父母の形見、大事にされよ」
「…ああ。もう絶対落としたりしねえよ」
リュウはファスナーの付いている胸ポケットに財布を仕舞った。
老婆はリュックサック型の鞄もリュウに差し出した。
「この鞄に数日分の着替えも入れてある。腹が減った時のためにおやつも入れてあるぞ」
「おやつ!そいつは助かる!…もしかしてちんこ団子か?」
「さてな?楽しみにしておけ」
笑いあってからリュウは老婆に頭を下げた。
「何もかも用意してくれて本当にすまねえ。この恩は修業を終えて帰って来てから返すよ。何なら神社で樵やってやろうか?」
リュウの言葉に老婆はニヤリと笑って言った。
「其方が倒せるのは木ではなくヤゴロウどんだけじゃろ」
リュウもニヤリと笑って舌を出して返し、今度はきばい屋店主に向かって言った。
「じゃあおやじさん、俺は行くよ。本当にありがとう!息子さんにもよろしくな」
「リュウさん、体に気をつけてな。早く帰って来てくれ。待ってるぞ」
笑顔で頭を下げ、シュウにも別れを告げようとしたその時、シュウが言った。
「なあリュウ。僕と一緒に旅、せえへん?」
「え?…シュウもここを出るのか?あ、住んでた西のミヤコに帰るってことか?」
「いや、もう西のミヤコに帰る必要はなくなってん。僕はこの三年間の謝礼としてもらう車を受け取りに、今からヒゴ藩に行く予定やねんけど、それから後の予定はまだ何も決めてないねん。よかったら僕と一緒に来てくれへん?」
来てくれへん=来てくれないか、とシュウから頼んでいる体の言葉に、さらに続けた。
「リュウと一緒やったらどこに行くのも楽しいやろなあと僕は思てんねんけど、どやろ?」
「あ…」
リュウはきばい屋店主の顔を見た。店主もうなずいていた。
(あのヤゴロウどんだったシュウさんて、気遣いができる優しい人だなぁ)
(相手に気づかせないようにできるってところがまた偉いんだよ)
シュウが追放されるリュウのことを思いやって、自分と一緒に行こうと言ってくれているのだということがリュウにはわかった。
(これが『人の心を知る』ってことか。ありがてえなぁ。シュウは本当になんて優しいやつなんだ)
「おう!そいつはありがてえ!シュウと一緒なら百人力だ!」
リュウは喜んでシュウの肩を抱こうとしたが、高くて届かなかったのでやむなくシュウの腕を軽く叩いて言った。
「なんせお前は『生きているヤゴロウどん』だからな。神様と一緒の旅なら怖いもんなしだぜ!」
シュウも嬉しそうに笑ってリュウに手を差し出した。
「ほな、行こか」
「よっしゃあ!」
二人はがっちりと握手をし、それから老婆に向かって揃って頭を下げた。
「おネさぁ、三年間お世話になりました。オオヒトさぁにもよろしゅう言うといて下さい」
「そうだ、世話になったオオヒトに会えないまま行くのは残念だが、俺がありがとうって言ってたって伝えてくれ」
「必ず伝えようぞ。では達者でな。ヤゴロウどんのご加護のもと、きばいやんせ!」
きばい屋店主も声を掛けた。
「リュウさん、つらくなったら桜島のことを思い出すんだ。何があったって必ず帰って来いよ!」
「おう!行ってくらぁ!!」
リュウとシュウが出て行った後、きばい屋店主も自分の店へ戻って行った。
その店主と入れ替わるように、オオヒトが息をきらして本殿に駆け込んで来た。
「オオヒト、おやっとさぁ。氏子の爺様はだいじょっか」
「は、はい。痛みも治まられ、ご自分で歩いて帰って行かれました。…あの、リュウ殿は…?」
「いんまさっシュウと共に行た。間に合わんど残念じゃったな」
「…そうでしたか」
「『世話になったオオヒトに会えないまま行くのは残念だが、俺がありがとうって言ってたって伝えてくれ』ち言ちょったぞ」
「私も、お会いできず残念です…」
「まっこち手のかかっやつで大変じゃったな」
オオヒトはくすっと笑った。
「はい。真夜中に来られましたし、来たら来たでお堂では大声で怒鳴り続けるし、言葉遣いも荒っぽいし」
「昼は居眠いばっかいしちょっし」
「そうです。それに食いしん坊で、試合そっちのけで食べることしか頭になくて」
「弁当にぢゃんぼ餅とちんこ団子。そいにあくまき」
「そうなんです!ぢゃんぼ餅のたれがついた手をべろべろ舐めて。あくまきのきな粉と黒蜜で顔も手も、道衣も汚しまくって」
その様子を思い出して、オオヒトは楽しそうな顔をした。
「審判に何度もがられちょったな」
「はい!花道でよそ見ばかりして、毎回試合場に入るのが遅れて」
「ないごて優勝できたか、謎じゃな」
ついにオオヒトは声を出して笑い出した。
「本当に…おかしな方でした。───でも」
(私も貴方が深夜に来られたために寝不足ですが?)
(あっ!…それはすまねえ)
「自分が悪いと思ったら、私のような少年にもきちんと頭を下げて謝る方でした」
「そうじゃな。あやつは正直で素直じゃ」
「食べ物を召し上がる時も正直で素直でした。いつも本当に美味しそうに、嬉しそうな笑顔で召し上がっておられて」
(ここの神社のメシもうまいなぁ~どこで何食ってもうまい!やっぱりサツマはいいところだ)
(これもうめえ!)
(んーっ!甘くてうめえ!これならわらび餅だな!)
「行儀が悪くても、それすら『美味しくて仕方がない』という気持ちの表れのように感じられて。可愛らしく思いました」
「そうじゃいげな」
「そして何より…自分のことよりも、私の心配ばかりして下さいました」
(オオヒト、お前は逃げろ!)
(馬鹿野郎!俺にかまうな!さっさと逃げるんだ!)
「きっと背骨は折れていたでしょうに、激しい痛みをこらえて私を守って下さいました」
(ああ、痛えよ!笑っちまうくらいすげえ痛い!だから途中で止まらず本殿まで行くぜ!)
(おい!オオヒト!本殿に残るのはお前だ!俺じゃねえ!)
「そうじゃな。あの急所蹴りはやりすぎじゃが、お前を思っ気持っがあしこに強え怒いとなったのじゃ」
「はい。私は嬉しかったです。私のためにあんなにも怒って下さったことが」
(少年に暴力振るうような男の屑のことは、サツマじゃ卑怯と言わねえのか?)
オオヒトの目から涙があふれていた。
「…サツマを発たれる前に、もう一度お会いしたかったです…」
「こら──っ!!オオヒト!!」
(えっ???)
突然後ろから、リュウの声が響いた。
驚いて振り向くと、なんと目の前にリュウが居た。
「リ、リュウ殿?!もう出発されたはずでは…?!」
慌てるオオヒトの言葉に構わず、リュウは怒鳴った。
「なんでお前はいつも俺を閉じ込めるんだよ!しかも背中にしがみついて本殿に押し込みやがって!」
「あ!も、申し訳ございません!!痛めておいでの背骨をさらに…お許し下さい!」
何度も頭を下げて謝るオオヒト。リュウは自分の手をその頭に優しく置いた。
(え?)
「ありがとうな。俺を守ろうとしてくれて」
顔はヒラメとはいえ、という言葉を飲み込んでリュウは言った。
「あんなごつい奴に突き飛ばされて、さぞ怖かっただろ。俺のせいでひどい目に合わせてしまってすまなかった」
その言葉にオオヒトが身体を震わせ、激しく嗚咽した。涙がこぼれ落ちて止まらない。
リュウはオオヒトの肩にもう一方の手を置いて言った。
「我慢すんじゃねえ。子どもは大声出して泣いていいんだ」
「…!」
オオヒトはリュウの胸に顔をうずめて、声をあげて泣き出した。
リュウは泣きじゃくるオオヒトの頭を優しくなでながら言った。
「お前は頭もいいし度胸もあるけど、神社の跡取りだからって頑張りすぎるこたぁねえんだぜ」
「お前を担いで本殿に向かってる間、一生懸命俺の背中に手を当てて治そうとしてくれてたろ。あれのおかげでずいぶん楽になったぜ。すげえなお前の手当ては」
しかしその後にオオヒトに背中を押され、さらに本殿の扉を蹴りまくったので痛みがひどくなった…という言葉もリュウは飲み込んだ。
「…いえ、まだまだ力不足で…ネネ様のように触れただけで完全に治すことはできなくて…」
「おネエちゃんと比べても仕方ねえだろ。あれは不思議な力じゃなくて不気味な力なんだから」
「誰が不気味じゃ?」
「いけねえ、聞こえてたか!」
老婆とリュウの掛け合いにオオヒトもつい笑いだした。そして「あっ!」と叫び、
「申し訳ございません!旅立ちの新しいご衣裳に涙をつけて濡らしてしまいました…」
「なに、オオヒトの涙ならかえってお守りになるさ。もっと濡らしてくれていいぞ」
「いっどき鼻水もつけてやれ。守りが強えなるぞ」
「おいおい、おネエちゃん!」
笑顔で涙を拭ったオオヒトがふと気づいた。
「リュウ殿、なぜお戻りになられました?お忘れ物でも?」
「お!そうだった!胸ポケットに入れたはずのじいちゃんの財布がねえんだ。たしかにここに入れてファスナーも閉めたはずなのに」
「ほう。財布に羽根が生えておったかな。ここに落ちておる」
老婆が財布を拾ったような素振りを見せたが、オオヒトの目には老婆がもともと財布を手に持っていたのが見えていた。
どうやらオオヒトのために、老婆が“不気味な力”を使って財布を取り戻し、リュウを引き返させたようであった。
「ああ良かった!今度こそ落とさねえぞ。じゃあな、オオヒト!会えてよかったぜ。またな!」
「どうぞご無事で帰られますよう、いつも祈っております」
「オオヒト」
「はい?」
「澄ました顔も悪くねえけど、お前は笑った顔のほうがずっといいぜ」
リュウの思いがけない言葉にオオヒトは恥ずかしそうに下を向いたが、すぐに顔を上げて
「行ってらっしゃいませ!」
そう言って、涙の後のとびきり晴れやかな笑顔でリュウを見送った。
(第二十七話へ続く)
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