料亭「肥後ほまれ」のオーナー・コトカがリュウの居る座敷に向かったのは、虎拳プロレスの打ち上げがスタートしてから1時間近く経った頃だった。
コトカはリュウに早く会いたくてうずうずしていたが、店の御贔屓さん達の座敷での接待が長引いてしまった。
御贔屓さんは皆、美人オーナーのコトカを憎からず思っている上、さらに今日は虎拳プロレスの試合のチケットをコトカからプレゼントされて観に来ていた客が多かったから、
「今日の試合凄く面白かったな!あのリュウってのがコトカの推しレスラーか?」
などリュウの話題を振られ、ついついコトカ自身も嬉しくなってリュウの魅力をあちこちの座敷で語っているうちに時を過ごしてしまったのである。
(もう!早く来てねって言ったのにリュウさんが来るのが遅いから…御贔屓さんが先になってしまって…)
コトカは調子に乗って遅くなってしまった自分にも腹を立てながら、やっと虎拳プロレスの座敷の前に来た。そしてリュウの顔を思い浮かべながら笑顔で「失礼いたします」と襖を開けた。
(え!?)
なんと目の前の席にリュウが座っていた。
出入口に近い下座なので(メイン選手なのになんで?)とコトカは驚くと共に、その両横にナツキとあんりが座っているのが目に入り、笑顔はたちまちひきつった表情になった。
「あ、オーナーさん!今日の料理めちゃくちゃうめえよ!すげえご馳走用意してくれてありがとな!」
鈍感なリュウはコトカに向かって、無邪気な満面の笑顔で感謝の言葉を言ってきた。
(…こんな顔されちゃ怒れないじゃない。ズルいわリュウさん)
「こちらこそご賞味頂きましてありがとうございます。お嬢様方もお口に合いましたら幸いですが、いかがでございましょうか」
コトカはナツキとあんりにも牽制をこめて笑顔で声を掛けた。
「ものすっごく美味しいよ!馬刺しもだけど特にこの甘辛い肉の煮込み!お酒も進むしごはんにも合うよね!食感が絶妙だけど、これどこの部位を使ってんの?」
ナツキが喜び勇んでコトカに聞いて来た。
料理を褒められてコトカも嬉しくなり、
「こちらの料理はヒゴのあか牛の首の肉を使っております。よく動かす部位なので硬めの肉なんですが、じっくり煮込むことでこの様にとろけるほど柔らかくなります。コラーゲンも豊富ですので美容にもよろしいですよ」
と答えると「そりゃ最高!どんどん食べるぞ!」と、ナツキはリュウの分まで横取りして食べ出した。
「あっ、こら!それは美味いから俺だって気に入ってんだ!返せナツキ!」
リュウは自分の箸をナツキが奪った器に突っ込み、肉を突き刺して取り返すや即座に口に入れて「んまぁーい!」と笑顔で叫んだ。
食事のマナーも何もあったものではないが、リュウの無邪気さにコトカは(可愛い…やっぱりズルい男ね)と恋しさを募らせた。
「私、馬刺しって今まで食べたことがなくて。正直恐々食べたんですけど、すっごく美味しくってびっくりしました」
今度はあんりが馬刺しを褒めると、リュウがあんりに応えた。
「そうだろ?俺も最初『生肉をこのまま食えってのか?冗談じゃねえ!』って疑ってかかったんだが、食ったら『馬の肉ってこんなにウマいのか!』って驚いたんだ」
「リュウさんも!私とおんなじですね」
「うめえよな!それ以来他の店や旅館でも馬刺し食ったけど、ここの馬刺しが抜群にうめえよ!やっぱり歴史のある老舗料亭は違うな」
馬刺しと店をリュウに褒め称えられ、コトカはすっかり機嫌が良くなり心からの笑顔になった。
「ありがとうございます。あか牛の首肉の煮込みと馬刺しはすぐおかわりを持って来させますので、喧嘩なさらずたっぷり召し上がって下さいませ」
「そいつはありがてえ!」
「やったー!」
「うれしい!」
リュウとナツキとあんりは揃って歓喜の声を上げていた。
「オーナーさんが来られたから、リュウさんを争って花の嵐になるかと思いましたが、思いのほか皆さん仲良しですねえ」
カワカミが意外そうに言うと、シュウが「そやね」と笑ってうなずき、
「美味しいもん食べてる時は誰も喧嘩する気にならへんわな。オーナーさんもご自分の店の味褒められて悪い気せえへんやろし、何よりリュウの頭の中は食べることしかあらへん。男女の機微にはほど遠いけど、男女のややこしさにも悩まんでええかもですわ」
「そうですねえ。モテ期到来でもリュウさんはまだお目覚めじゃないようですし、こういうノリのほうが悩み無しで楽しいですよね」
そう二人がほほえましく思っていた時、3人の女と1人の男の導火線には思わぬことから火がついてしまっていた。
「じゃあオーナーさんはリュウさんのファンだから虎拳のスポンサーになられたんですか。いいなぁ~。私もお金持ちだったらリュウさんのスポンサーになりたいです」
あんりの言葉にコトカは微妙な顔になった。
「あんりは、リュウのスポンサーになってどうしたいのさ?」
ナツキが面白そうに言うと、あんりは真面目に答えた。
「決まってますよ!リュウさんを誘って美味しいもの食べに行くんです。この肥後ほまれさんみたいな高級料亭とか、ホテルのレストランとか。デートみたいに」
吸い物を飲みかけていたリュウが“ぶふっ”とむせながら言った。
「…で、でえと?!」
「はい。私もエンジェルプロレスのスポンサーの方々によく誘われるんです。正直、ふたりだけで行くの嫌だなぁって思うスポンサーの方もいますけど、社長がご機嫌取って来いって言うから…」
「ちょっとすみません!」
そこにあんりの女性マネージャーが慌てて割り込み、あんりを引っ張って廊下に連れ出していった。ナツキはそれを見送って言った。
「なるほどね。エンジェルの社長は嫌がるあんりを使って、スポンサーの鼻の下伸ばさせてお金引き出してるってわけかぁ」
「え?それって、よくあることなのか」
リュウは驚いてナツキに尋ねた。
「うちの朱鷺プロはそんなことさせないけど、あたしが最初に入った団体はもっとひどかったよ。女衒か!ってくらい」
(ぜげん?)
「あの!」
苦虫を噛みつぶしたような顔で、コトカはナツキに言った。
「私はリュウさんが嫌がるのに誘ったりはしません!…私はリュウさんのスポンサーというより、マブダチなんです」
「え?マブダチ?」
きょとんとした顔でナツキが言うと、今度は怒りをにじませた声でコトカは返した。
「ええ。マブダチです。間夫ではなくマブダチのマブですから!」
(…なんかオーナーさん、機嫌悪くなってないか?)
さすがにリュウもコトカの苛立ちに気づいた。しかしそんなことにお構いなしのナツキの声が響く。
「それ、いいね!」
笑顔でコトカに同意するなり、リュウに向き直ってナツキはこう言った。
「じゃあさ、あたしもリュウのマブダチにしてよ!彼氏は絶対無理ってフラれたけど、考えたら“まずはお友達から”スタートするのが普通だよね!もう友達にはなってるからさ、ランクアップして親友のマブダチってことで!よろしくね」
「はあ?」
戸惑うリュウの腕を取り、またも自分の腕を絡ませて密着するナツキにコトカの顔は般若の形相になった。
「リュウさん!」
「なっ、なんだ?!」
叱るようなコトカの声に身体を硬直させたリュウだが、コトカは般若の顔のままで言った。
「今日試合を観に来て下さった御贔屓さんが、ご自分の会社の宣伝キャラクターをリュウさんにお願いしたいって先程おっしゃってました。この事をお伝えしにこちらに参りましたのに、嫌ですわ私ったら…すっかり後回しにしてしまいました。ではこれからその御贔屓さんのお座敷にお連れしますので、リュウさんご一緒においで下さいな」
「んじゃ、おかわりの煮込みと馬刺しを食ったら行…」
「今すぐに!せっかくの良いお話が消えてしまってはいけませんわ。さ、ではナツキさん、失礼いたします」
ナツキの手を取り、リュウの腕からひきはがすようにするコトカに、
「あらら」
と言いながらナツキは手を離し、リュウに「営業がんばっといで!」と言ってウインクした。
「営業?そういう話なら俺よくわからねえから、ジンマかシュウに…」
「御贔屓さんがお会いして話したがっておられるのはリュウさんなんです!細かい話はその後でジンマ代表とマネージャーのシュウさんに。では参りましょう!」
「…お、おう」
般若のコトカに気圧されながら、リュウは立ち上がってコトカに連れられ、廊下に出て行った。リュウは振り返り、泣きそうな瞳をシュウに向けたが無情にも襖は閉められた。
「…なんかリュウさん、売られてゆく子牛みたいな瞳してましたね」
カワカミが同情した声で言うと、シュウも子牛を手放すのが悲しい飼い主のような顔で言った。
「美味しいもん食べてても、もめる時はもめるんやなあ…モテ期というより、もしかしたら女難の相ありなんかもしれへん。なぁカワカミさん。今度な…」
そう言いかけたシュウだったが、カワカミは両手のひらを前に突き出して止めた。
「女難のお祓いなんて、やったことないですからー!!」
「なあ、オーナーさん…」
不機嫌オーラを激しく発しながら廊下を歩くコトカに、リュウは恐る恐る声を掛けた。
「コトカって呼んで。ナツキさんのことはナツキって呼んでるじゃないの」
「いや、でも…スポンサーになってもらってるんだから、さすがに呼び捨ては失礼だろ。それにこの店で働く人たちだって、オーナーさんが俺なんかに呼び捨てされるってのはいい気しねえと思うぜ」
サナダのことを呼び捨てにした時、シュウに「皆から先輩として敬われてる人やで。リュウも皆の気持ちを考えて呼び捨ては止めとき」と言われたので(それとおんなじだよな)とリュウなりに筋を通してコトカに反論した。
「じゃあ、お店ではオーナーさんでもいいわ。それ以外の場所では『コトカさん』にして」
「わかった。なあオーナーさん、俺また何かやらかしたか?えらく怒らせちまったようだが、何が悪かったのか教えてくれねえか」
(リュウさんは悪くないから私は怒るしかないのよ)
理不尽さはコトカ本人も承知の上だが、それでも感情は抑えられない。黙ったまま廊下を歩き続けるコトカにリュウはため息をついた。
「あ~あ。女の人ってえのは難しいなぁ…そもそもな、何でみんないきなり彼氏になってとか、ま…間夫とか、夫とか。男の立場?を決めたがるんだよ?」
「それは…」
(貴方のことが好きだから。誰にも取られたくないからに決まってるじゃない)
そう言いたかったが、恋愛感情にまったく疎いリュウにはわからないだろう。コトカはしばらく黙ったが、リュウに向き直ってこう言った。
「じゃあこう考えてみて。リュウさんが大好きな、いきなり団子があるとします」
「お!いきなり団子か!」
「そのいきなり団子は生地も餡子もお芋も特別で、珍しくてものすごく美味しいものです」
「特別…珍しくてものすごく美味しいもの…」
リュウの唇にはよだれが光り出した。
「でもその特別ないきなり団子は、名人のお菓子職人さんが一生にたった一個しか作りません」
「ええ!一生にたった一個!?」
「そう。それを食べることができるのはたったひとり…でも、誰よりも早く予約をすれば、そのたった一個を食べられるかもしれません。さぁ、リュウさんはどうする?」
「もちろん予約する!誰よりも早くにその名人に頼み込んで予約するに決まってる!どこだ?どこにあるんだそのいきなり団子屋は?」
必死になって聞いてくるリュウの顔を見て、コトカは笑い出した。
「リュウさん、これは例え話よ。誰もが夢中になって欲しがるものは、誰よりも早く予約をしないと手に入らないってこと」
「誰よりも早く予約…」
「つまり、貴方がその特別ないきなり団子なのよ」
「俺が、その特別ないきなり団子??」
首を傾げているリュウの顔をいとおしく見つめながらコトカは言った。
「だから私もナツキさんも、貴方に夫になってとか彼氏になってとか予約をしたがるの」
「…ふぅん」
「わかった?」
「よくわからねえけどわかったような気もする…そうか、すげえウマくて一個しかないものは予約がいるのか」
「…でもね、人間というのはお菓子と違って予約したくてもできなかったり、予約できても食べられなかったり…かと思えばある日突然それを食べることができたりするのよ」
(???)
「そして…いっそ食べなければよかった、って後で悲しむこともあるの。美味しければ美味しいほどにね」
(第六十七話へ続く)
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