キャンバスに描かれたような、雲一つない澄み切った青い空。暖かい日差しが、俺の心を落ち着かせる。
鳥達は優雅に空を舞い、そよ風がこの俺、小鳥遊優弥の頬をくすぐる。俺の茶髪が風の騒めきに導かれ、小さく揺れた。
「良い風だなぁ。寝っ転がるには最適な場所だよな、ほんと」
俺はそう言うと、ごろんと屋上のコンクリートの上で見事な大の字になった。ベッドの代わりにしている、この無機物から伝わってくるのは、人間ではないものの冷たさ。夏である今の季節にはピッタリと言える。
今は放課後。俺は今日一日の疲れを癒すため、瞑想している状況だ。
髪を茶色く染め、耳にピアスをしていることもあり、周りの人間は、俺のことを不良少年のように思う人間が多いらしい。だけど俺は、別に孤立していないし、落ちこぼれと言う訳でもない。
この高校の授業にはそこそこついていけているし、クラスメイト達との交友関係も比較的良好だ。不良のような外見でありながら、発言が面白と言われるため、そのギャップが良いと言われる。
ちなみに容姿はどうかと言われたら、そんなに恰好が良いとは言えない。イケメンの部類には入らないが、不細工ではないと思う。所謂フツメンと言う奴だろうか。道端に転がっている石だと考えれば、分かりやすいかもしれない。
「――ちょっと。君こんなところで何してるの?」
瞳を閉じて、自分の世界に浸っていると、突然俺の顔に可愛らしい声が振りかけられた。
自分しかいないと思っていたので、一体何事かと目を開けて前を向いてみると、そこには一人の女の子がいた。そして俺は、そのまま彼女の外見を一瞥する。
その姿を見て、俺は少々違和感を覚えた。彼女はこの高校では珍しく、膝下にかかる程の長めのスカートを着用している。また、ファッションのためなのか、首には青いヘッドフォンを掛けており、それがとても目立っていた。
「しっかし、長い髪だなあ」
装飾類の他には、彼女の特徴的な黒く長い髪が目に付く。自分の位置からでは、はっきりとは見えないが、腰のあたりまでは伸びているだろうか。
だが、それよりも驚いたことは彼女の身長だろうか。小学生でも通じそうなほど、その身長は実に心もとない。まぁ、少なくとも高校生には見えないかな。
「どうした? 道にでも迷ったか? 可愛そうにな」
こんなところに迷い込んだ彼女がどことなく不憫に思え、憐みの言葉をかける。自分の両眼に映る彼女の姿は、さながら不思議の国のアリスと言ったところだろうか。
俺からの同情の発言を聞くなり、彼女の顔がみるみるうちに歪む。そして、そのまま自身の顔をぐっと俺の前に近づけてきた。
これまで少し遠めに見ていたから分からなかったが、彼女はかなり可憐な顔立ちをしていた。目鼻立ちはしっかりしているし、睫毛もかなり長めだ。口回りの血色はかなり良さそうで、ぷっくり膨らんだ唇は艶っぽくもあった。正直、芸能人でも通用しそうなレベルのように思える。
「は? 私、高校生なんですけど? 寝言は寝てから言いなさい」
容姿端麗な彼女の口から弾き出されるのは、想像もしていなかった乱暴な言辞。彼女の端正なルックスと寸分違わぬその美声とまるでマッチしていない。あまりにも現実離れしているその光景は、どこか滑稽にも思えた。
「そうか。それは悪かったな。そう言うあんたはどうして屋上に来たんだ?」
「別に良いでしょ。それより君、今すぐどっかに行きなさい。邪魔だから」
俺の素朴な疑問を、彼女は愛想笑いすらせず、バッサリと切り捨てた。
「ちょっとその発言は酷いな。あんた、友達無くすよ」
彼女が俺の顔をじっと見つめてきたので、こちらも負けじと彼女の顔を見つめ返す。
その言葉だけ聞けば、何だかロマンチックな光景にも思えるかもしれない。しかし、実際のところはヤンキーもどきと幼女のような少女が、互いに睨み合っているのだ。
「余計なお世話よ。ほら。さっさとそこをどきなさい」
顎をしゃくりながら吐き捨てるように言う美少女。そして駄目押しとばかりに、自身の上履きで俺の太股を軽く小突いてきた。
「ちょっと! 痛いなもう。じゃあここから退くから交換条件を出させてよ。折角だからあんたの名前を教えて」
「は? 私の名前? 聞きたきゃ死んでから言いなさい」
今ここで俺と話していることすら不快と言った感じで、目の前にいる悪意のような天使が吐露する。
死んだら名前聞けねえだろと言う俺の突っ込みを待たずして、名も知らぬその少女は、スタスタと建物の影の方へ消え去って行った。
つい先ほど、俺にどこかへ行けと言っておきながら、自分がどこかへ行くのは、何だかとても滑稽に思えた。随分と変わった少女のようだ。
「しかし不思議な子だな」
これまで女子と積極的にかかわったこともなく、親しい異性の友達もいない俺からしたら、彼女のような存在は、ひどく目新しい生き物のように思えた。
本当のところを言うと、このまま彼女の後を追って、何をしているのか知りたい気持ちもあった。しかし、このまま彼女の後を追った場合、今以上に嫌悪感を抱かれるだろう。
「取り合えず、明日、あの少女のことを同級生に聞いてみるか」
そう思い直すと、俺は完全に立ち上がり、屋上を後にしたのだった。
「え? 昨日屋上で小さくて天使のようだけど乱暴で口が悪い女子高生に出会ったって? まるで漫画から飛び出してきたような女の子に会ったんだね。まさかとは思うけど、夢じゃないよね?」
今は昼休み。俺は学食で購入した豚骨ラーメンを食べながら、自身の友人である勅使河原公彦に昨日の少女のことを尋ねてみた。
確かに現実離れし過ぎた話だ。だけどあれは夢じゃなかった。実際俺は、彼女に蹴られた訳だし。
「そうだねぇ。どこかで聞いたことあるようなないような……」
過去の記憶を手繰り寄せているのか、目を閉じた公彦が少し唸る。うんうん唸りながら、彼はハンバーグを頬張っている。
夢中で好物を食すその姿は、彼自身の童顔とも相まって、精神的に老成した小学生のようにも見える。ただ、彼は比較的人当たりが良いから、あまり悪い噂は聞かない。どちらかと言えば人気がある方だ。だからこそ、彼は顔も広いと思って、この手の話を振ってみたのだ。
「もしかして――栗花落和美かな」
公彦は顎に手をやりながら、ぼそりと呟いた。
「え? 誰だって?」
よく聞き取れなかったので、俺は公彦に聞き返す。
「栗花落和美。背が低い美少女ってことで、学校でも一時期かなり話題になったんだよな」
「へぇ。そんな女子、この学校にいたんだ。全然知らなかったや」
自分でも気づかない内に、自分の心情が口から漏れ出ていた。
「ただ、あまり交友関係が広いって話は聞いたことはないかな。何でも凶暴だとか、目が合ったら殺されるとか言う噂とかも合った気がする。まぁ、僕は別に気にしてないけどね」
「マジか。あんな可愛らしい外見しておきながら、結構物騒なんだな」
昨日の彼女を思い返して、俺は意外に思った。
校内で話題になるほどに外界と拒絶したのだろうか。嫌われてるかもしれないとは思ったが、俺の質問にはある程度回答はしてくれていたし、コミュニケーションが取れない訳ではないのかなと思っていた。
「ところで話は変わるけどさ、優弥君。君はもうギターとかはやらないのかな?」
「ごほっ! 何だよ藪から棒に」
突然の友人からのパスに驚き、俺はむせてしまう。そんな静かな友人のピンチを、目の前の男は真剣な面持ちで眺めていた。
「再来月に学園祭あるよね? 優弥君さえ良ければ、またバンドやりたいって思ってるだ。僕は前と同じように、ドラムやるからさ」
「ギターとドラムは良いとして、ボーカルはどうするんだよ?」
「優弥君が歌えば良いじゃないか。前みたいに」
子供みたいに目をキラキラさせながら、やたらに熱く語る公彦。俺は公彦の台詞を聞くや否や、顔から血の気が引いていくのを感じた。
俺と公彦は、去年バンドを組んでいた。ギターは俺が担当し、ドラムは公彦が担当した。ただ、肝心のボーカルが中々見つからず、仕方がないのでギター担当の俺が歌うことになったのだ。
結果は散々だった。俺は所謂音痴であり、学園祭に集まった人達は呆気にとられた。あれは実に酷いものだった。俺の黒歴史と言っても過言ではないだろう。まさにトラウマだ。
「来年僕達三年生になるよね? そうすると、もうバンドなんてやってられないじゃないか。だからチャンスは今年しかないんだよ。頼むよ」
「別に俺じゃなくて、他の奴を誘えば良いだろ」
「僕は優弥君とやりたいんだよ」
なんと感激的な言葉だろう。俺が女性であれば、間違いなく惚れていたことだろう。しかし悲しいかな。俺は男なのだ。
「いや。そんなことを急に言われても……」
「あれ? あれってさ。さっき優弥君と話した栗花落和美じゃないか?」
俺が勧誘に対して言い返そうとした時、公彦が遠くを見て、唐突にそんなことを言い出した。
公彦の向けた方向と同じ方向に自分の視線を向けると、小さなシルエットがぴょこぴょこと動いていた。そのシルエットの隣には、女子にしては背が高い少女が付き添っている。何だか異様にアンバランスだ。
「公彦。悪いけどちょっと待っててくれ。折角だから話しかけてくる」
「自分から女の子のところへ行くとは優弥君やるね。頑張って来て」
友人に手を振られながら、悪魔天使の元へ向かう俺。友達の目には、魔王に立ち向かう勇者に映っているだろうか。今の俺が、どう言う風に見えているかはちょっとだけ気になる。
色々考えている内に、俺は目的地に辿り着く。
隣の女子は俺のことを知らないので、突然現れた俺を見て驚いている。一方、俺の顔を見ても、栗花落和美らしき女の子は無表情のままだった。
「やあ。昨日ぶり。元気にしてる?」
あくまで馴れ馴れしく話しかける。おどおどとした様子で話しかけると、相手は余計に不快に思うはずだ。これも一種の処世術と言うやつだ。
「え? 和美、この人知ってるの?」
長身の女の子が、和美と呼ぶ低身長の女子に話しかける。その表情はさも意外と言った感じだ。
驚きで目が見開かれているが、よくよく見ると彼女も中々の美形だ。ただし、和美が可愛い系なら、この女子は綺麗系と言ったところだろうか。男子である俺と同程度の身長であることも作用し、モデルでも通用しそうだと思った。確かに二人並んで歩いていると、絵になることは間違いない。
「ううん、全然。こんな人、昨日の屋上でなんか会ってないよ」
和美が俺から顔を背けながら、隣の少女に返答する。
――どこからどう突っ込んだらいいんだろうか。彼女はどうやら嘘を吐くのが下手なようだ。俺は二人にバレないように笑いをこらえた。
「へぇ。そうなんだ。でも、良く屋上なんて単語が出てきたね」
長身の美少女が、極めて意味ありげな表情を浮かべながら、和美の頭をポンポンと叩く。和美は最初はキョトンとした顔をしていたが、少ししてから見る見るうちに顔が真っ赤になっていった。
「ち……違うのよ、桃華! 私は別に変な意味で言ったんじゃないの! 昨日の放課後にたまたま屋上に行ったら、この人が地面に寝っ転がっていたのよ! それだけだから!」
目を閉じ、顔を茹蛸のように真っ赤にしながら、必死に弁解する和美。気のせいかもしれないが、彼女の頭部から湯気が立ち上っているように見える。
「ちょっと何それ! それだけなのに隠そうとするとか、面白過ぎでしょ! あんまり笑わせないでよ!」
和美に桃華と呼ばれた少女は、和美の説明を聞くや否や、お腹を抱えて笑い出した。その様子を見て、俺もつられて笑い出す。
「ちょっと! 君まで笑わないでよ! 誰のせいでこうなっていると思ってるの!」
「こほん。おやおや皆さん、お困りのようですね。宜しければ、向こうでご一緒に昼食でもいかがでしょう?」
状況を上手く処理できず、あたふたしている和美に手を差し伸べる男子生徒。それは先ほどまで俺と一緒にご飯を食べていた友人の公彦だった。俺達のやり取りを見て、気になってわざわざ見に来てくれたようだ。
「まあご親切にどうも。それじゃ、喜んでお誘いを受けるわね。和美も来るわよね?」
桃華は意外とノリが良いらしく、公彦の提案を素直に承諾する。そして隣にいる和美も来るように誘った。
「ま、まぁ……桃華がそう言うなら仕方がないわね」
どこか納得しない様子ではあったが、和美も渋々と言った表情でその誘いを受け入れた。ただその表情にほんの少しだけ、欠片程度であるが、嬉しそうな感情が混じっているようにも思えた。
何だか良く分からないが、俺は和美達と一緒に昼食を食べることになった。この少女といると、本当に退屈しなさそうだ。
先の学食での一件以来、和美や桃華、公彦と一緒に昼食を取ることが日課になってしまった。このおかげで、和美や桃華のことが随分分かってきた。
桃華のフルネームは鳳桃華と言うらしい。そして、和美と桃華の関係であるが、なんと従姉妹同士だそうだ。親戚にも関わらず、これだけ身長や性格が異なるのは、実に奇妙だと思った。凸凹にも程があるだろう。これが神の悪戯と言うやつなのだろうか。
そんなことを思い返しながら、俺と言えば、今日も学校の屋上で仰向けになって寝転んでいた。
ふと空を眺めると、鳥達が空の上を自由に羽ばたいている姿が目に入ってくる。だけど彼らは地上や海を駆け回ることはできない。彼らは自由であると同時に、どこか不自由だと思った。
「また小鳥遊君、こんなところで寝転んでる。一体何してるの?」
いつぞや交わした会話と同じような台詞が、俺の耳に飛び込んでくる。
頭を斜めに向けた自分の双眸に映るのは、クッキーが入った袋を手に持った和美だった。
「ん~。別に何も。たださ、ここで寝転んでいると色んなことが忘れられるから。ただただ寝っ転がって癒されてるって状況かな」
「ふ~ん。そうなんだ。じゃあ私もお邪魔しようかな」
そう言うなり、和美は俺の隣に来て速やかに寝転び、自身の瞼を閉じた。その様子は、どことなく精巧に作られた人形を彷彿とさせる。
「あーこれ、意外に良いかも。確かに嫌なこととか忘れられそう」
相変わらずの無表情であったが、俺の習慣が気に入ったようだ。
ただ、俺が気になったのは、彼女の発言だった。和美の嫌なことと言うのは何だろうか。もしかして、俺の存在が、和美を不快にさせているのではないかと言う不安が沸き上がる。
「和美の嫌なことって……なんだ?」
俺はつい恐る恐る和美に尋ねてしまう。
「そうだね――。ついつい強い口調になっちゃう自分とか、かな」
彼女は僅かに逡巡したかと思うと、呟くように言った。
「自分で言うのもなんだけど、私、顔が悪くないからさ。昔から変な人から話しかけられることが多くてね。いつも桃華が私を守ってくれたんだけど、人間不信みたいになっちゃったんだよね。だからついつい強い口調で、他人を拒絶する癖がついちゃって。悪気はないんだよ。だけど、そのおかげで友達とかできづらくなっちゃったんだよね。だから、君とか勅使河原君が私と仲良くしてくれて、本当に嬉しいんだよね」
唐突に俺と公彦の名前が出てきたことに驚き、俺は彼女を見る。瞳を閉じていたはずの彼女の目が、他ならぬ俺を捉えていた。
「そんな大したことはしてないよ。それに、一緒にいて楽しいから俺達は一緒にいると思ってるしな」
「うん。確かにそうかもしれない。でも嬉しいのは本当。だから、ありがとう」
彼女は珍しく微笑みながら、俺にお礼を言ってきた。女の子の、それもアイドル並みに綺麗な美少女の突然の不意打ち攻撃に、俺は不覚にもドキッとしてしまった。
「なんだよ、改まって。恥ずかしくなるだろ」
「私ね。いつか空を歩きたいと思ってるんだ」
俺の抗議を聞いてか聞かずか、和美は急に話題を変えてきた。唐突なるメルヘンチックな発言を聞いて、俺の頭の中ではてなマークが躍った。
「何だよそれ?」
「鳥達って空を飛べるじゃない? だけど人間と違って空を歩くことはできない。空を歩く感覚は誰も体験したことがない。誰もできないことをやってみたいと思ってるんだ。これまで私は、ほとんど独りぼっちだった。だから半ば諦めていたんだけどね。でも今は、君や勅使河原君、それに桃華もいる。私は、君達となら空も歩けるんじゃないかって思えるんだ」
珍しく饒舌な和美を見て俺は少し呆気にとられた。ただ、何だか無茶苦茶なことを言っているとも思った。だが同時に、俺は和美が凄く格好いいと思ってしまったのも事実だ。
俺は知らず知らずの内に、鼻歌を口ずさみ始める。それは、俺がかつて大衆の前で華々しく散ることになったあの黒歴史の曲だった。
すると、俺の曲調に合わせて、和美も歌を歌い始めた。初めて彼女と会った時と同じく、その声は人々を魅了するような天使の歌声だった。彼女の透き通るような声色は、母親が俺に歌ってくれた子守歌を思い出させた。
だがそれよりも、和美がこの曲を知っていたことにとても驚いた。この歌詞を知っているのは、俺と公彦、そして去年会場に来ていた数名の観客だけだったはずだからだ。
俺が鼻歌を歌い終えると、和美も歌うことをやめた。折角の美声が急に消えてしまい、俺は何だか名残惜しくなった。
「歌、かなり上手いんだな。それより聞きたいんだけどさ。もしかして……去年の学園祭で俺達の演奏見てた?」
「うん。実は見てたんだ。正直、凄い良い演奏だと思ったよ。だってその時の君、凄く輝いていたから。確かに歌は上手くなかったかもしれなかったけど、最後までちゃんと歌いきったのは本当に凄いと思った。私は、君のあの姿に見とれちゃったんだよ」
俺にとってかなり予想外の回答が返ってきた。和美があのライブに来ていたこともそうだが、まさかそんな風に評価していてくれたとは、思ってもみなかった。
「でもさ。和美が俺と会った時、そんな素振りとか見せなかったじゃん。初対面みたいな感じじゃなかった?」
「うん。実は、あの時からずっと君のことが気になってた。あれから自分でも、君の歌を何度か歌ったりしていたんだ。普段は家で歌ってたんだけど、たまには気分を変えて屋上で練習しようかなと思ってね。そしたら君がいたからさ。できれば、私が歌ってるところ、君には見られたくなくて……きつい言い方になってごめんね」
彼女が無表情でもなく、微笑みでもない表情を見せる。それは本当に申し訳なさそうな表情だった。顔からごめんなさいと言う文字が零れ落ちている。
これまでの彼女の発言を振り返ると、彼女はかなり不器用ではあるが、正直な女の子なのかもしれない。折角魅力的なところがあるのに、それが周りに伝わっていないのは、とても勿体ないと思った。
「あ! いけない。もうこんな時間。ごめん小鳥遊君。私、家の用事があるから、もう帰るね。あとこれ、良かったら食べて。じゃあまた明日」
彼女は自分の左手につけた腕時計を見ると、我に返ったように立ち上がり、手に持っていたクッキーの袋を俺に押し付ける。そして、そのままそそくさと屋上から去って行った。
残された俺は、渡されたクッキー袋の封を開け、歪な形をしたクッキーを口に入れた。咀嚼して味を噛みしめていると、何だかしょっぱいような気がしてきた。砂糖が足りてないのかもしれない。だけど、手作り感があった。やっぱり彼女は不器用なのだろう。
和美に貰ったクッキーを全部食べ終えると、俺は明日、公彦の元に向かうことを決めた――。
和美からクッキーを貰った次の日、俺は公彦の元に向かった。バンドを再結成してくれるよう、頼みに行くためだ。俺が再結成したくなった話をそれとなく伝えると、公彦は二つ返事で了承してくれた。
これまでと同じく、ギターは俺、ドラムは公彦が担当になった。去年は、公彦の知り合いである三年生の先輩にベースをお願いしていた。しかし、去年の俺の歌声を聞いてから先輩と連絡が取れないらしい。改めて、俺の歌声は兵器なのだと痛感した。
困った公彦が桃華に相談したところ、桃華がベースを担当してくれることになった。指が長い桃華がフルートを演奏するのは想像できるが、ベースはイメージからかなりかけ離れている気がする。桃華曰く、女子のたしなみとして、ベースが弾けるとのことだった。
肝心のボーカルは、公彦と相談して、和美にお願いしようと言う話をした。和美は俺達の提案に対して、少し迷うような表情を見せていた。しかし、俺が何度かお願いしていると、根負けしたのか、首を縦に振ってくれた。
俺の踏ん切りがつかなかったこともあり、学園祭開催が来月に迫っていた。その時までに、俺達は何とか演奏できるようにならなければならない。俺達は急ピッチで練習することことになった。
毎日毎日俺達が集まって練習し、そこそこ俺達が曲調を捉えられ始めた頃、気づいたら学園祭まで五日前となっていた。
「なあ。ちょっと休憩しないか?」
俺は多少飛ばしぎみなメンバーに対して、さりげなく提案してみた。
学園祭が近いと言うこともあり、俺達もちょっと焦っていた。俺達の仲が良いこともあり、楽しさでいっぱいになったことは確かだ。だが無理は禁物だ。学園祭前に体を壊してしまっては、元も子もない。
「そうだね。じゃあ悪いんだけど、優弥君と和美さん、外の自動販売機で飲み物を買ってきてくれる? お金は僕が出すから」
休憩と言うことで、公彦が俺達に飲み物を買ってきてくれるよう頼む。元々何か飲み物を買いに行くつもりだったので、お使いをすることに対して、特に不満はない。お金を出すあたり、さすがは公彦だ。気配りが上手いと言うかなんと言うか。
「了解。飲み物は何がいい?」
「売ってるやつなら何でもいいよ。桃華さんも何でも良いよね?」
「ええ。小鳥遊君と和美、わざわざ申し訳ないわね」
公彦のさりげない気配りは、女性にモテるだろう。あの様子だと、公彦は桃華を狙っているようだ。桃華も満更ではないように見えるので、二人がくっつくのも時間の問題かもしれない。
「分かった。行ってくるよ」
俺はそう言いながら、和美と一緒に学校の練習部屋を後にした。
「本当、勅使河原君って分かりやすいよね。桃華に気があるって言ってるようなもんじゃん」
しばらく外を歩いていると、途中で和美がぽつりと声を漏らした。
「和美も気づいていたのか。まあそうだろうな。外野の俺達はあいつらの恋路をそっと見守ろうぜ」
そう言って俺は、以前桃華がやっていたように、和美の頭を軽く叩く。
「――ちなみにさ。優弥君は誰か気になる人はいるの?」
和美が小さいこともあり、上目遣いで俺に聞いてくる。
突然のことに驚愕し、俺は言葉を失ってしまった。
「実はさ。前もちょっと言ったけど、私、君のこと良いなって思ってるんだ」
「へ?」
続けて繰り出される和美の言葉に、俺は思わず変な言葉を出してしまった。
「はっきり言うと、私は優弥君のことが好き」
いきなりの和美からの告白。まさかこんなストレートに自分に告白してくるとは思わなかった。彼女の不器用ながら正直な性格は、こんなところにも表れるのか。
「えっと……あのさ、和美――」
「ちょっと待って。今すぐ答え出さなくて良いよ。急なことで驚いただろうし。だからさ。君の中で答えが出たら、いつか私のために曲を作ってよ。待ってるから」
どこか舞台女優が歌うように話す和美。だけどその目には、紛れもなく今の気持ちが本物だと言う意思が宿っている。
「答えはいつまで待ってくれるんだ?」
我ながら男として最低な質問をする。
彼女は俺の情けない質問を予想していたのか、ふふふ、と小さく笑った。
「いつまでも、だよ。さ、早くジュース買って桃華達のところに戻ろう」
子供のようなイタズラな笑みを浮かべながら、自動販売機の元へ小走りで向かって行く和美。
俺はドキドキで頭が真っ白になりながら、和美の元へ駆け寄って行った。
――和美による告白から数年後、俺は舞台の奥に立っていた。他にも三人、俺の周りに立っている。
ふと、横に立っている小さな女性を見つめる。大学を卒業しても相変わらず小さい和美。そんな様子を見て、苦笑する公彦。公彦にメロメロな桃華。昔、高校時代の学園祭で演奏した時と変わらない面子だ。いつ見ても彼らは俺を退屈させない。
「綺羅星の如く現れた新進気鋭のグループ――! それでは登場してもらいましょう! 曲名は、小鳥遊優弥さん作詞・作曲で、『いつか君と、空を歩けたら。』!」
高らかに司会の人が俺達のことを紹介する。もうすぐ俺達の出番のようだ。
よく見ると、和美が小刻みに震えている。いつまでたっても、緊張する癖は治らないみたいだ。
俺は和美の緊張を和らげるため、和美の紅葉のような手を握る。そして新しい未来へと足を勧めた。
やがて俺と和美が空を歩けるようになることを願って――。
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