少し遅めに家を出て、本部の前で綾斗と別れた。
彼は今日、安藤律に会いに行くという。少しの嫉妬と不安を一瞬の表情に出し切って、京子は綾斗を笑顔で見送った。
一人で基礎トレーニングを済ませると、デスクルームで美弦が「おはようございます」と迎える。
「おはよう美弦。昨日はありがとね」
「こちらこそ。とっても楽しかったです」
「私も」と席に着いて、自動販売機で買ってきたキンキンに冷えた炭酸水を流し込んだ。
季節柄エアコンはオフになっていて、部屋は晴れの太陽の熱でほんのりと暖かい。
「はぁ。生き返る」
汗が引く感触にホッとした所で、美弦が向かいの席で「京子さん」とパソコンの上に顔を覗かせた。
「今日、綾斗さんお休みですか?」
「うん──そういう事になるのかな」
部屋には彼女と二人きりだ。さっき事務所の前を通った時、修司を見掛けた。
今日の事を二人には話して良いと言われているが、綾斗の行き先を告げるには少々気が重かった。聞かれるだろうと覚悟したせいで、昨日のバイキングの話を弾ませるテンションも上がらない。
「さっき長官から綾斗さんの呼び出しがあったんです。スケジュールに休みのチェック入ってんですけど、昨日は何も言ってなかったから。具合でも悪いのかなと思って」
「ううん、元気だよ。ちょっと、色々あってね」
「ちょっと──?」
事実を言い渋る京子に、美弦は丸い目を更に見開いて首を傾げた。
「京子さんも何かありました? 綾斗さんと何かあったなら、話聞きますよ?」
「違うの、私は大丈夫」
妙な誤解を生んでしまったらしく、京子は慌てて手を振る。
二人に話し辛いと思ったのは、安藤律が美弦にとって因縁の相手だからだ。けれどこれは仕事だと強引に割り切って、京子は綾斗の行き先を告げる。
「綾斗、今日彰人くんと安藤律の所に行ってるの」
「えっ」
予想を裏切らない返事だ。唐突に荒ぶった感情に、美弦が声を震わせる。
「あの女は収監中ですよね?」
「何か彰人くんの提案らしいの。綾斗は新境地を開きたいみたい」
「新境地って。あの女の所でですか?」
「何の為か、なんて私には分からないけど。桃也が律の事話してたもんね、監察や上の考えもあるんじゃないかな」
ホルスの欲しているトールこそ、安藤律そのものなのかもしれない。
彼女は今アルガスの施設に収監中で、トップシークレット扱いになっている。京子たち一般のキーダーにはどこに居るのかも知らされていない。
昨日の会議で、彼女については考えがあるんだと桃也が言っていた。彰人が彼女の所に行くという事は、その話の一環かもしれない。
「最近の綾斗、ずっと悩んでるみたいだったから。彰人くんの提案を聞いて、綾斗なりにそれが必要だって判断したんなら、私は行ってきて欲しいって思ったよ」
「…………」
綾斗は『行って良いか』とは聞かなかった。これは彼の覚悟だ。
美弦は眉間に力を込めたまま、すぐに返事をくれなかった。
昨日、律の名前が出ただけで修司は動揺を隠せなかった。もしこれが綾斗ではなく修司の事ならば、美弦はノーと断言したかもしれない。
「綾斗さんや京子さんが納得できるなら、それで良いと思います」
苛立ちや屈辱に似た感情を、彼女なりにその返事へ導いた時だった。
カターンと何かが床を打つ音が響く。
京子と美弦はハッと顔を見合わせて、音のした方を振り返った。彼の足元に半透明のクリアファイルが転がって、中の書類が飛び出ている。
聞かれていたらしい。
「今言った事、本当なんですか?」
立ち尽くした修司が、呆然と呟いた。
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