京子の部屋は、アルガスから二駅離れたマンションの五階にある。
二年前アルガスの沿線で家を探していた京子に、不動産屋が大プッシュした新築物件だ。
「キーダーなら是非」と強く勧められた最上階の特別室には、その後すぐに有名な芸能人夫婦が入居した。そのお陰で京子は、あっという間に平穏な生活を手に入れることができたのだ。
窓からの眺望は町を一望できるような見晴らしの良いものではないが、東京にしては広い空と、向かいに並ぶビルの間に見える海に満足している。
そして最初は一人だったこの部屋に彼が来て、一年と四ヶ月が過ぎた。
鍵を開けて中に入ると、ふわりと暖かい空気と食事の匂いが京子を迎えた。
「ただいま」とコートを脱ぐと、奥から背の高い男が「おかえり」と捲ったシャツの袖を下ろしながら現れる。
「雑煮作っといたぜ。食べるだろ、着替えて来いよ」
「うん。お腹空く匂いだね、ありがとう」
「おぅ」と得意気に京子を部屋へ促し、高峰桃也は再び奥のキッチンへ戻っていった。
彼は京子より一つ年下の大学生で、同じ大学に居る叔父の研究室でアルバイトをしている。
五年前に起きた『大晦日の白雪』で、桃也は両親と姉を一度に失った。
事故のあった大晦日は大舎卿が管轄外へ応援で出ていて、京子も年末の帰省中だった。最初に現場へ駆けつけたマサが彼を預かって、大学進学までの数年を共に暮らしたのだ。
事故後、京子はアルガスで桃也と何度か顔を合わせることはあったが、特別彼を意識することはなかった。今こうして一緒に暮らしているのは、彼と去年の夏に偶然再会したのがきっかけだ。同棲を始めて、帰宅した家に彼が居る幸せを噛みしめている。
けれどアルガスでこの関係を知っているのはセナと朱羽だけで、結局マサには話せずにいた。
部屋着に着替えてダイニングのテーブルにつき、京子は用意された赤い塗りの汁椀を手に取る。透き通った汁に浮かぶ三つ葉の香をいっぱいに吸い込んで、表情を緩めた。
「お正月って感じがするね」
昨日酒蔵で買った日本酒を揃いの猪口に酌み交わし、小さく乾杯をする。
一杯目を飲み干した後、早々に餅を咥えた桃也に、ふとセナの『家政婦』発言が蘇った。
「こき使ってなんかいないもん……」と小声で呟いた京子に、桃也が「どうした?」と首を傾げる。
「ううん、いつも家の事任せきりでごめんね。ありがとう」
心からの言葉だ。彼を恋人として好きだと思える。それは嘘ではないけれど、余りにも唐突過ぎる言葉に、桃也がキリリと整った眉を心配そうに傾けた。
「もう酔ったのか? まさか熱でもあるんじゃないだろうな」
桃也は箸を置いて立ち上がり、おもむろに京子の額に手を当てる。
「大丈夫だよ、まだ元気だから」
ほんのり温かく硬い掌に、京子は頬を紅潮させた。
「ならいいけど。好きでやってんだから気にすんなよ。それにお前にやらせてたら、いつになっても飯が食えねぇだろ?」
「……そ、そうだね」
返す言葉が見つからない。
カレーを作るのでさえ失敗した経験を持つ京子にとって、桃也の手際の良さと料理の技術は圧巻だった。マサと男二人で暮らしていた時期に、一通り覚えたらしい。
「いただきます」と花形にくりぬかれた人参を食べると、独特の甘さが口いっぱいに広がった。思わずこぼれる笑みに、桃也が「良かった」と満足そうに京子を眺める。
家に居ると、自分がキーダーであることを忘れそうになった。
こののんびりした空気にずっと包まれていたいと思う。それなのに、彼の小指にはめられた小さな銀色の指輪が京子を現実に引き戻した。
彼の姉が残した形見の指輪だ。いつも視界に入れまいと努力しているのに、こんな時に限って目に付いてしまう。
片時も外すことないそれが、京子に五年前を蘇らせた。
あの日キーダーとして何もできなかった自分への後ろめたさ──『大晦日の白雪』も指輪の話も、それを切り出すことで今の生活が壊れるかもしれないと不安を覚えてしまうのは、自分の弱さだ。
セナの言う通りもっと素直になれたらと思うし、朱羽が言うようにもっと歩み寄るべきだとも思うけれど、今の状況に不満を感じたことがないのも事実だ。
先に箸をおいた桃也が、空になったそれぞれの猪口に酒を足した。
「京子、明日時間あるか?」
「夕方には戻れると思うけど」
「じゃ、六時にいつもの所な。誕生日なんだし、久しぶりにデートしようぜ」
桃也は「よし」と笑って二杯目の酒を口にする。
一月一日。元旦が京子の誕生日だ。
期待していたわけではないが、つい緩む表情を隠すように口をつぐんで、京子はこくりと頷いた。
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