「京子さん、出張のレポート帰るまでに上げておいて下さいね。オジサンたちから催促が来てるんで」
「そっちにも行ってたの? ごめんね」
「昨日の今日で急ぎ過ぎだとは思いますけどね。とりあえずお願いします」
「うん。綾斗は気を付けて行ってきて。飲み過ぎないようにね?」
「分かってます」
警視庁の森脇から呼び出された綾斗をデスクルームで見送って、京子は閉じっ放しのノートパソコンを開いた。
今朝電話を取った様子だと、用件が済んだ後に飲みへ連れて行かれるパターンだろう。森脇の酒好きは有名で、昔から『仕事』と称してマサや大舎卿を酒の席に誘ってくることが多かった。最近は二人が居ない分、専ら綾斗がその役を引き受けている状況だ。
京子は立ち上がったパソコンを睨みつける。机で黙々とキーボードを叩く作業が苦手で、いつもレポートは後回しにしてしまう。
昨日平野の所に日帰りで行ってきただけなのに、用紙三枚分の項目を埋めなければならないのは溜息しか出て来ない。
「これ食べてからにしよっか」
京子は画面から目を逸らして、出張帰りに買った最中を片手に、用意したマグカップのコーヒーをすすった。
もう今日はこれをやって帰るだけなのに、全くやる気が起きない。
「京子さん、ほんとレポート苦手ですね」
「手書きだったらいいのに。パソコン使ってやるのが面倒なんだよ」
斜め向かいの席でずっとキーボードを鳴らしていた美弦が、手を休めて顔を上げる。
綾斗の出て行ったデスクルームは、彼女と二人きりだった。修司は書類を届けに朱羽の事務所へ行っている。
「慣れると楽ですよ」と、美弦が京子の横にある修司の席へ移動した。
ドンと座った椅子を京子の方へ寄せて、美弦は意味深な笑顔で京子を覗き込む。
「どうしたの?」
「京子さんって、二人きりの時は綾斗さんに何て呼ばれてるんですか?」
「へ? 何? 急に……」
「ちょっと聞いてみたくなったんですよ」
好奇心いっぱいの目は、全然『ちょっと』には見えない。
唐突な質問にたじろぎつつも、
「京子さん──だけど?」
「えぇ。そんなのいつもと変わらないじゃないですか!」
聞かれたことを答えただけなのに、美弦はめいっぱいに不満を広げた。
どうやら別の答えを期待していたようだ。
「敬語はやめてって言ってから仕事以外では普通に話してくれるけど、名前はそのままだよ?」
「何でですか。恋人なのに!」
「向こうが年下──だから? 綾斗って美弦の事は呼び捨てにしてるでしょ? そういう事なんじゃない?」
「けど恋人なんですよ? そこからの変化に期待しちゃうじゃないですか」
「期待……って。まぁ確かに桃也には最初『京子さん』って呼ばれてたけど。まだ小さかったしね」
呼び方なんて性格的なものもあるだろうし、人それぞれだとは思う。京子が自分からどう呼んで欲しいと相手に伝えた事はないが、そういう考えもアリだろうか。
『京子』と綾斗に呼ばれるシーンを想像して、京子は込み上げた衝動に「やばいよ」と顔を歪めた。
「ですよね! そのドキドキが欲しいんですよ! 仕事ではさん付けなのに、二人きりの時が呼び捨てだなんてシチュエーション、最高です!」
「きゃあ」と両手を組み合わせてはしゃぐ美弦に、京子は「うん」と硬く返事した。
「けど、どうすればいいの?」
「名前で呼んで、って言えばいいんですよ!」
「えぇ……」
「あとは、彼女がピンチの時に彼が咄嗟に呼び捨てするシーンもよく見ますよね」
「あぁ……」
恋愛漫画やドラマが大好きな美弦の意見に、京子は大きく頷く。
確かに見た覚えのある展開だ。一般人ならなかなか訪れないシチュエーションだけれど、キーダーならいずれそんな場面に出くわす可能性は無い訳じゃない。
「じゃ、そっちでいいよ。自分で言うのは恥ずかしいし」
「そんないつになるか分からないような賭けは、最終手段ですよ!」
パソコン作業以上に話が面倒になってくるが、「京子さん」と美弦は強気に押してくる。
「京子さんが言わないなら、私が綾斗さんに言っちゃいますよ?」
「企むような顔して言わないで。いいよ、明日私が言ってみるよ。言えたらだけど……」
「期待してます!」
それがキラキラと目を輝かせる美弦への精一杯の返事だった。
その時は少なからず実行しようと意気込んでいたのは嘘じゃない。ただそれを『翌日』と宣言してしまったのが敗因だと思う。
翌朝──
「おはよう、京子さん。あの後あんまり眠れなかった?」
「うん。ちょっと考え事しちゃって」
彼とは毎晩寝る前に少しだけ電話をするのが日課になっている。その時こそ言うべき事だったのかもしれないが、敢えて先送りした。
翌日の事を考えてモヤモヤと寝付くことが出来ないまま朝を迎え、顔色の悪さを指摘される始末だ。
「あんまり無理しないように」
「ありがと。それでね綾斗、えっと……」
「どうした?」
よくよく考えれば、仕事の前にそんな話を切り出すシチュエーションなんてやってくるわけがないのだ。『名前で呼んで欲しい』なんて言う状況ではない。
「ううん、何でもない」
京子は呆気なく首を振る。ひとまずこの件はここで終了してしまった。
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