猿の内政官

~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
橋本洋一

最後の策略

公開日時: 2021年3月16日(火) 22:57
文字数:3,442

 有岡城攻めの本陣――上様が居心地悪く、爪を噛みながら、黒田が来るのを待っていた。

 一年もの間、土牢に閉じ込められていたらしく、話せる状態まで回復するのに、時間がかかっているようだ。

 僕も昔、地下牢に閉じ込められていたことがある。しかしたった数ヶ月のことなので、一年間という長い月日は想像できなかった。


「上様。黒田官兵衛孝高さまがこちらに――」

「すぐに通せ」


 家来の言葉を待たずに、上様は神経質そうに言う。

 当然と言えば当然だ。

 上様は、黒田の息子、松寿丸を殺しているのだから――


「ふひ、ひひひひ、ふひひひひひひひひひ――」


 不気味な笑い声と共に、本陣に入ってきたのは黒田だった。

 左右の肩を栗山と母里に抱えられながら、骨と皮に成り果てながら、奇妙に笑う。


「あひゃひゃひゃ。織田さま。久しぶりだあ……」


 二人の家臣は、居たたまれないという顔をしていた。

 僕は一目見て、ああ、狂ってしまったのだなと思ってしまった。

 周りの武将もそう感じたのか、笑う黒田を咎めたりしない。


「……よくぞ、生きていたな」

「えへへへ。おかげさまでな……っと、失礼。足を悪くしているんでね」


 黒田は無造作に地面の上に座る。


「殿。どうか――」

「分かっているぜえ、善助……ふひひ、織田さまに一つお願いがあるんだあ」


 狂った笑みを見せながら、黒田は上様に言う。


「黒田家は小寺家を見限って、織田家の傘下に付く。ひひひ、聞いてくれるよなあ」


 上様は、ごくりと唾を飲み込んで、それから恐る恐る言う。


「……松寿丸のことを、知っての上か?」


 黒田は「ふひひ、当たり前だろ」とおかしくもないことで笑った。


「息子が殺されたのは、土牢に閉じ込められて三ヶ月の時点で、なんとなく分かったよ……いや、諦めがついたというべきかぁ? 俺が織田さまの立場でも、殺すだろうってな」

「俺に、恨みはないのか?」


 上様が厳しく問う。

 すると黒田は――身体を痙攣させた。震えるほど、笑っていた。


「ふひひひひひ! あるに決まってるぅ! 当たり前だぁ! でもなあ、それ以上に怒っているのは、自分の無能具合だ!」


 笑いながら、黒田は――身体をくねらす。


「主君の裏切りを見抜けなかったことぉ! ふひひ。主君を心変わりさせた重臣への説得ぅ! そもそも、俺が捕まらなければ、こんなことにはならなかった! あははは!」


 黒田は、自分を苛んで、責めて、苦しませて。

 そうして――笑うしかなくなったんだ。


「ふひひひひひひひひひひ! 俺は無能な男だ! 息子を殺してしまった、最低の父親だ! あははははは! そうして、今も生き恥を晒している!」


 黒田は、はあはあと息を乱して、それが落ち着くまで黙った。

 そして、顔を上げる――


「……ごめんな、松寿丸」


 笑顔のまま、涙を流す黒田――

 異様な光景に、誰も何も言えなかった。

 まるで村八分にされた農民が、地べたに投げられた残り物を貪るような、見ていて不快な姿だった。


「……俺の子に産まれて、不幸だったな。あはは、本当にごめん」

「何を馬鹿なことを言うか……」


 それまで黙っていた上様が、世間から畏れられている上様が――


「松寿丸が死んだのは、俺のせいだ」


 ――自分の非を認めて、涙を流した。


「自分を責めるな。俺に怒りを、憎しみを、敵意をぶつけろ」

「お、織田さま……」

「貴様が壊れてまで、俺への恨みを消すほどのものではない……」


 黒田と上様は、同じように泣いている。

 壊れてしまった黒田。

 壊してしまった上様。

 彼らは松寿丸を想って、泣いていた――


「申し上げます。上様と黒田殿に言っておかねばならぬことがございます」


 僕は膝をつきながら、二人に言う。

 二人とも、僕のほうを、呆然と眺めている。


「松寿丸は生きております。竹中家が匿っていました」


 この場に居る者全て、僕の言葉に何も言えなかった。


「く、雲之介、そ、それは真なのか?」


 いち早く回復したのは、上様だった。

 信じられないといった顔で見つめていた。


「詳しくは、竹中家当主、竹中久作殿からお聞きください」


 僕は隣に座っていた久作を促した。


「雨竜殿が言ったことは、真にございます。我が家臣の不破に、松寿丸殿を隠させて、匿っていました」

「な、何故、そのようなことを――」

「今は亡き、兄上がそういたしました。黒田殿はこれからの織田家に必要な人である。だから松寿丸殿を殺すわけにはいかぬと」

「で、では、あの首は?」

「病で死んだ子の首――偽首でございます!」


 上様の全身から力が抜けた。

 黒田は、泣きながら笑った。


「うひひひひひ、じゃあ、松寿丸は――」

「竹中家の居城にて、暮らしております」


 僕はこの機会を見計らって、上様に言う。


「これは竹中半兵衛と僕しか知らなかったことです。死の間際、僕に打ち明けたのです。ですから、上様を欺いた責は――僕一人が負います」


 それに驚いたのは、上様でも黒田でもなく、久作だった。


「馬鹿な! これは竹中家の問題ですよ!?」

「いえ。竹中家は当主の命令に従ったまでのこと。どうか沙汰は僕に下されますように」


 深く頭を下げる。

 ざわめく諸将。

 そのとき、上様は言った。


「――このことに関して、罪などあるわけがなかろう」


 上様が僕の肩を掴んで起こし、そして僕の手を握った。


「よくやってくれた。竹中半兵衛と共に、主命違反は不問といたす!」


 自分の非を認める潔さは流石としか言いようがない。


「むしろ褒美をやりたいくらいだ」

「あ、でしたら竹中家と黒田家をお引き立てくだされば」


 しれっと言うと上様は目を丸くして「貴様には利がないではないか」と言う。


「責任は負うけど、利得は得ない。そう半兵衛さんと約束したのです」

「……無欲な奴だ! その望み、叶えてやる! 竹中家と黒田家の両家を引き立ててやる!」


 すると黒田が「ふひひひ! ありがとうございます!」と大声で笑った。


「雨竜殿には、とても世話になったな!」

「それを言うのなら、半兵衛さんだよ」


 僕はこっそりと耳打ちした。


「身体が良くなったら、三木城攻めの本陣に来なさい」


 そして黒田の目を見る。

 怪訝そうな顔をしたけど、察したようで、力強く頷いた。


 

◆◇◆◇


 

 それから二週間後。

 身体がある程度癒えた黒田と共に三木城近くの農村に向かう。家臣の栗山と母里も一緒だ。


「本陣に行かなくてよろしいのですか?」


 栗山が首を傾げながら問う。


「雨竜さまが竹中さまの墓があるって言っていたからな。まずは墓参りしねえと」


 母里が神妙なことを言う。聞いたところによると、半兵衛さんを責めたことを悔やんでいるらしい。


「ふひひひ。もう一度だけ、会いたかったなあ」


 どうやら笑い声はやめられないらしい。黒田は笑いながら言う。

 農村の奥にその墓はあった。

 墓と言うより塚と言うべき無骨の岩が置かれている。


「さあ。手を合わせてくれ」


 三人は僕の言ったとおり、手を合わせて、目を閉じた――

 その隙に墓の前に出る人が居た。


「……どわあああああ!?」


 初めに目を開けたのは母里だった。大声を上げて後ろに飛び退く。


「――っ!?」


 次は栗山だった。あまりの衝撃に腰が砕けてしまった。


「……あははは。まさかの策略だ!」


 黒田は愉快そうに笑った。


「ちょっと! 官兵衛ちゃん! 反応悪いわよ!」


 そう。死んだはずの半兵衛さんがそこに立っているのだから、驚くのは無理もない。


「し、死んだはずじゃ……?」

「栗山ちゃん。もしあたしが生きてたら、上様に叱られちゃうかもしれないじゃない」


 青白い顔でにやにや笑う半兵衛さん。

 僕は呆れながら言う。


「まったく。『死ぬときは誰かを驚かせて死にたい』だなんて。悪趣味にもほどがあるよ」

「ふふふ。叶えてくれてありがとうね。雲之介ちゃん」


 そのとき、身体を崩しかけたので、さっと支える。

 とても軽かった。


「二ヶ月と二週間。この村で暮らしていたけど、そろそろ限界ね」

「そうだね。秀吉たちが待っているよ。行こう」


 僕は半兵衛さんを支えて歩く。


「ふひひひ。羽柴殿も居るのか?」

「羽柴家全員居るよ。半兵衛さんが淋しくないようにね」

「本当に気のいい仲間よ」


 そして半兵衛さんは黒田に言う。


「官兵衛ちゃん。これからあたしの代わりに、秀吉ちゃんを支えてあげて」


 黒田は笑いながら応じた。


「ふひひひひ。任せてくれ。太平の世になるまで、支えてやるよ!」


 

◆◇◆◇


 

 それから五日後。

 半兵衛さんはこの世から去った。

 羽柴家と黒田家、そして竹中家のみんなに見送られながら逝った。


「楽しかったわよ、秀吉ちゃん」


 それが最期の言葉だった。

 秀吉は半兵衛さんの手を握って、死んだ後も握り続けた。

 稀代の軍師、竹中半兵衛重治。

 戦場ではなく、畳の上で安らかに亡くなった。

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