猿の内政官

~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
橋本洋一

坂本城にて

公開日時: 2021年3月14日(日) 22:34
文字数:3,613

 数日後、僕は雪隆と一緒に南近江国の坂本さかもとじょうに来ていた。

 そこに――近衛前久が居ると、細川さまが言っていた。

 なるほど、京に近い坂本なら影響力を保てるし、本願寺や越前国へ文を届けやすい。

 加えて坂本城が比叡山の攻撃を受けなかったのも、近衛前久が居たからだろう。


「ここに近衛前久が居るってことは、明智光秀さまは織田家を裏切っていたってことなのか?」


 城下町を歩いていると、雪隆が小声で耳打ちしてくる。誰かに聞かれるか分からないので当然だ。ちなみに雪隆はもちろん、島やなつめには事情を話していた。


「そうだね。匿っていたのならそういうことになる」

「遠回りな言い方だな。俺を連れてきたのは、二人を斬れということだろう?」

「いや、僕を守ってほしいってことだけどね」


 そんな会話をしつつ、坂本城の城門前に着く。そして門番に「明智さまに会いに来た」と伝える。


「細川さまから言伝があったはずだ。雨竜雲之介秀昭、そしてその家臣、真柄雪之丞雪隆だ」

「話は聞いております。どうぞ中へ」


 丁寧に応対する門番の後に続いて、城の中に入る。明智さまらしいというか、防備が整えられているのにもかかわらず、どこか風靡で優雅な印象を受ける造りだった。

 城の外には水堀もあるし、なかなかの堅城のようだ。


「おお。あなたが噂の雨竜殿か!」


 城を見ていると、にこやかに出迎えてくれた武将が居た。

 中年の男性と思われるが、一方で若々しい。がっちりとした体格。荒々しさはなく、服装からして礼節を重んじる性格が見えた。


「はい。雨竜雲之介秀昭です。あなたは?」

「明智光秀が家臣、三宅みやけへいでございます」


 にこにこ笑っていて邪気がない。というより無邪気というべき印象を受けた。


「素晴らしい城ですね。ここまで機能的でありながら、典雅な城は見たことが無い」

「お褒めいただきありがとうございます」

「ではさっそくですが、明智さまの元に案内していただけますか? 細川さまから仔細は聞いているはずですが」


 三宅殿は「はい、伺っております」と答える。


「なんでも殿にご協力なさるとのことで。喜んで居られましたよ」


 そう。細川さまに一筆書いてもらったのだ。

 雨竜雲之介秀昭が、近衛前久に協力すると――


「こちらへどうぞ。彼の方もお待ちですよ」


 明智さまは怪しんでいないのだろうか? そう思わせる家臣の行動と言動。

 雪隆も怪訝に思っているようだ。

 城内の庭が見えるところの障子を開ける三宅殿。そして「雨竜殿がご到着なされました」と報告する。


「ささ。雨竜殿。中へ。真柄殿も」

「ありがとうございます」


 礼を述べて中に入ると、上座に――近衛前久が居た。

 どっぷりと太っている。まるで蝦蟇がまみたいだ。しかし顔立ちは整っていて、高貴な雰囲気がある。おそらく若い頃は美男子だったのだろう。そういえば、公家は青い血が流れていると聞くけど、それが真実なら青い血が高貴を印象付けるのだろうか?

 明智さまはその上座の近くに座っている。二人の前には御膳があり、肴と酒が置かれている。吞んでいたのだろう。いや明智さまは下戸だから白湯を飲まれているのかも。


「そなたが雨竜とやらか。近こう寄れ」

「弥平次、あなたも残りなさい」


 僕は三宅殿が残ったのは痛いなと思いつつ、座らずに明智さまの目の前に立つ。


「ううん? 何をしておる? 近こう寄れと言うたが、好きなところに座ってよいのだぞ?」

「……上様から、伝言を預かっております」


 近衛前久を無視して、明智さまに向かって言う。

 その瞬間、三宅殿が動こうとしたのを、雪隆が押さえ込む。


「な、何を――」

「黙ってくれ。親切なあんたを殺したくない」


 これで邪魔は入らない。


「な、なんじゃと!? そなた、わしたちを騙したのか!?」


 うろたえる近衛前久に僕は刀を抜きつつ「落ち着いてください」と静かに言う。


「上様から伝言? なんですか?」


 明智さまが訊ねる。もちろん上様から伝言なんて無い。

 かつて明智さまはこんな言葉を言っていた。


 『仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う、百姓は可愛きことなり』


 ならばこれは武略である――


「比叡山延暦寺の騒動の裏には本願寺と通じている者が居ると」

「そうですか。その後は?」

「……明智さまにその黒幕を突き止めてほしいと上様は言っていました」


 明智さまは軽く笑って「よくもまあそんなことが言えますね」と言う。


「ここは私の城です。もし私を斬れば、あなたたち二人は死ぬことになりますよ」

「……もう一つ、言っておかねばならないことがあります」


 僕は抜き身の刀を畳に突き刺した。


「細川さまは――家名を捨てるそうです。今後は長岡と名乗るそうですよ」

「……そうですか」


 明智さまは立ち上がって、抜き身の刀を手に取った。


「なら――彼は諦めたのですね」

「そうです」


 明智さまはしばらく考えて――僕に刀を向けた。


「もしも、あなたが私の家臣だったら良かったのにと思うことがあります」

「……もしも、秀吉と会う前なら、考えたかもしれません」

「家臣になるつもりはないと?」

「僕は何があっても、秀吉の家臣ですから」


 明智さまは、にやりと笑った。


「だからこそ、あなたは美しい」


 明智さまは、刀を振り被り――斬った。

 赤い血が、畳を汚した。


「な、何故……」


 三宅殿の訳の分からないといった声。


「ど、どうして、殿は、近衛さまを……!」


 油断していた近衛前久は、抵抗する間もなく、一刀により、この世を去っていた。

 なんだ、公家も赤い血じゃないか。


「これが私の答えです。黒幕の近衛前久と私は何の関わりもありません」

「……明智さま」


 血ぶるいして僕に刀を返す明智さま。

 受け取ると彼は「与一郎殿が諦めたのなら、終わりですね」と言う。


「上様からの伝言というのは嘘でしょう? もし上様が知ったのなら、呼び出して殺すはずです」

「……ご明察です」

「しかし上様に報告せずに、私に近衛前久を殺させたのは、何故ですか?」


 僕は「あなたは織田家にとって必要な武将です」と言う。


「あなたが居なくなれば、天下統一が遠のく」

「……しかしそのために、あなたの奥方を死に追いやった原因の一人である私を許すと?」


 買いかぶり過ぎだと思った。


「僕はそこまで甘い人間じゃない。許さないですよ。いつか報いを受けさせる」

「ほう……」

「楽しみにしていてください。必ず復讐しますから」


 それまで震えて眠れ。

 一生、僕に恐怖してろ。


「雪隆、帰るよ。それと三宅殿、ごめんなさい」


 僕は障子を開けてさっさと帰る。


「弥平次、死体の首を取りなさい。晒し首にします」


 流石に明智さまは計算高い。

 しかし、いつかそのあくどさに足をすくわれることになる。

 そう思わずに居られなかった。


「しかし、よく無事に出られたものだ。雲之介さん、あんたは危ない橋を渡りすぎだ」


 坂本城から出た途端、雪隆が冷や汗をかきながら僕に苦言を言う。


「あはは。悪かったよ」

「だがもし明智が俺たちを斬っていたらどうなっていたんだ?」


 僕はあっさりと「そりゃあ近衛前久も斬って全責任を僕に押し付けるに決まっている」と言う。


「うん? そうなるとどうなるんだ?」

「多分、秀吉は何らかの処罰を負うことになるし、島たちは良くて追放、悪くて切腹かもね」

「…………」

「そんな恨みがましい目で見るな。僕は明智さまが近衛前久を斬るって自信が――いや確信はあったよ」


 雪隆は「その根拠を聞こうか」と笑顔で言った。

 多分かなり怒っている。


「考えてみてよ。もしあの場で僕を斬ったところで、僕に責任を押し付けるのに成功する可能性は半々だ。自分で言うのもなんだけど、僕は上様と義昭殿のお気に入りだし、明智さまが嘘言ってると判断されるかもしれない」

「本当に明智がそう判断してくれるのか?」

「するに決まっているだろう? だって細川さま――いや長岡さまか。彼が家名捨てたと僕が言ったんだぜ?」

「家名を捨てたのが嘘だと判断したらやばかっただろ」

「家名を捨てたのは本当だと判断するしかないよ。だって長岡さまは明智さまに手紙を出しているんだ。僕が頼んで。その事実から推測すれば、必然と信じるしかないよ」


 雪隆は「なんか二人とも賢いな」と溜息を吐いた。


「まるで合戦のようだ。頭脳戦と言うべきかな」

「洒落たことを言うね。ま、なんにせよ。これで近衛前久の陰謀は阻止できた」


 これで良かったと思いたい。

 最適でも最善もないけど。

 最悪ではなかったことを喜ぼう。


「後、僕はやり残したことがある」

「なんだ? 何をやり残したんだ?」

「子供たちのことだ」


 僕は向き合わなければいけない。

 二人の子供たちと――


「それに比べたら、今回の頭脳戦は簡単なものだったよ」

「そうか。雲之介さん……」


 雪隆は僕に言う。


「俺はあんたのためなら命を落としても構わない。だからこそ、無駄死になんてしてほしくない」

「…………」

「分かってくれるか?」


 雪隆にはお見通しだったんだな。

 あの場で死んでも良かったと内心思っていたのは。


「分かっているよ。気をつけるから」


 嘘でも武略でも方便でもない。

 誠意を込めた本音だった。

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