猿の内政官

~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
橋本洋一

とんでもない主命

公開日時: 2021年2月15日(月) 09:29
文字数:2,063

 お市さまが輿入れして、三ヶ月経った。

 その日突然、行雲さまが清洲城にやってきて、僕の仕事場にふらりと顔を出した。なんでもお屋形様に呼ばれたという。しかしお屋形様は美濃国攻めの軍議をしていて、行雲さまは待たされていた。だから、僕と話そうと会いに来てくれたのだ。

 正直話したいことが山ほどあったので、良い機会だった。仕事を同僚に任せて行雲さまと一緒に茶室に向かった。


 茶室で茶を点てて、行雲さまに差し出す。流石に作法を心得ていて、出家した身でありながらも優雅に飲み干した。


「雲之介――いや、雨竜殿と言ったほうがいいか?」

「雲之介でいいですよ。行雲さま」

「私は僧でおぬしは武士だ。弁えなければ」

「それでも雲之介で大丈夫です」


 茶碗を僕に返す行雲さま。そしてしばらく黙ってしまう。僕は手入れをしながら次の言葉を待った。


「浅井長政殿のことを聞かせてくれ」


 意外に思ったけど、僕は行雲さまに全てを話した。器量人であることも喧嘩したことも、そして約束してくれたことも。

 話し終えると感慨深そうに頷いた。


「そうか。お市は良き夫に恵まれたな」

「ええ。本当にそう思います」


 行雲さまは「おぬしは苦しい思いをしたな」と率直に言ってくれた。

 誤魔化すことなく、真っ直ぐに。


「ええ。苦しくて悲しくて、胸が張り裂けそうでした」

「よく業に打ち勝ったな。素晴らしい」


 手放しに褒められて少しだけ照れくさかった。

 僕が行雲さまに近況を訊ねようとしたときだった。

 がらりと障子が開いた。


「うん? なんだ雲とゆきにいじゃないか。何をしているんだ?」


 長益さまだった。僕が姿勢を正して頭を下げると「そんな仰々しくするな」と笑われた。


「源五郎――いや長益か」

「ああ。行兄、元気そうだな」

「おぬし、大きくなったな。だが女癖が悪いと聞く。気をつけろよ」

「会っていきなりなんだよ。兄上みたいなことを言わないでくれ」


 そういえば二人が会話しているのは見たことなかったな。

 なんだか気の置けない仲の兄弟の会話だ。


「そうだ。兄上が二人を探していたぞ。俺と一緒に来るようにと」

「……私は分かるが、雲之介とおぬし? 一体何の用だ?」


 僕たちは顔を見合わせるけど、見当がまったくつかない。

 まあ主命であるから、行くしかないだろう。

 そういうことで僕たち三人は一緒に評定の間へと向かった。


「行兄の坊主頭はいつ見ても笑えるな」

「うるさいな。そんなこと言って、長益もいずれ出家するかもしれんぞ?」

「あっはっは。やだね。そしたら女遊びができなくなる。俺は一生! 僧にはならないね!」


 なんか長益様がいずれ出家しそうな会話だった。

 評定の間には誰も居なかった。とりあえず行雲さまが真ん中で右に長益さま、左に僕が座った。

 襖が開いて出てきたのは藤吉郎だった。


「藤吉郎! どうしてここに?」

「うん? 雲之介……ああ、そうだった。おぬしの話題が出たのだった」


 藤吉郎は行雲さまと長益さまにお辞儀して、僕たちに向かって言う。


「雲之介と行雲さまと長益さまに命令が下されます。本来は美濃三人衆の調略の打ち合わせだったのですが……」


 そして藤吉郎は「とんでもない命令です」と小声で言った。


「ほう。どんな命令だ? 木藤きふじ

「き、木藤? いや、わしからは言えませぬ。お屋形様から――」


 長益さまの問いに藤吉郎が濁すようなことを言ったとき、再び襖が開いてお屋形様と森可成さまが入ってきた。

 僕たちは平伏してお屋形様の言葉を待つ。


「面を上げよ……さっそくだが、お前たち三人と可成にやってもらいたいことがある」


 行雲さまが代表して「なんでございましょう」と言う。


「まだ市井の噂が尾張国まで広まっていないので、この場に居る者は知らぬと思うが、京の都でとんでもないことが起きた」


 京の都? なんだろうか……


「十三代将軍、足利あしかがよしてる公を知っているな」


 全員が頷いた。その名は武士であれば誰でも知っている。

 皆の反応を見て、お屋形様は何の感情を込めずに言った。


三好みよし三人さんにんしゅうまつ永久通ながひさみちに御所を襲われて、弑逆しいぎゃくされた」


 誰も驚きのあまり反応できなかった。

 まさか、将軍が殺されるなんて……驚くしかできなかった。

 行雲さまと長益さまの二人は驚き過ぎて動揺している。


「ま、真にございますか……?」

「行雲、冗談で俺はそのようなことは言わぬ」


 いち早く冷静になったのは、意外にも長益さまだった。


「そうか……それで、兄上はどうするつもりなんだ? まさか逆賊を討つつもりなのか?」


 その言葉に「まだ時期尚早だ」と短く答えるお屋形様。


「しかし大義名分は手に入れたい。いずれ上洛するためにな」

「……どういうおつもりですか?」


 行雲さまの問いにお屋形様はあっさりと答えた。


「決まっておろう。足利家の正統を継ぐ方を保護するのだ」


 足利家の正統を継ぐ……?


「雲之介。長益から聞いたが、興福寺に居られる覚慶殿と親しいそうだな」

「ええ。一度しかお会いしたことはありませんが……」

「そのお方は将軍の弟君だ」


 お屋形様の意図が分かりかけてきた。

 そして次の言葉で確信に変わる。

 それはとんでもない主命だった。


「興福寺に行って、覚慶殿を連れて参れ。今ならまだ間に合う」

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