僕の幼なじみ、異世界育ち。

菓子子
菓子子

本章

十一話『はつみ』

公開日時: 2020年9月7日(月) 18:00
文字数:3,075

「えぇー……?」


 数学の参考書の解答を確認し終えて、思わず小声をあげてしまう。

 無理だ。分かる訳がない。

 参考書の問題は本当によくできていて、2, 3分唸ったら大抵の問題は最近習った公式+以前習った考え方で解くことができるような構造になっている。

 しかし、時々、いわゆる『初見殺し』と言われる問題がある。正攻法で攻めると必ず痛い目に遭う羽目になる、普通の問題に紛れ込んだ『良問』が、ある。

 解答も解答で「え? 簡単な式変形ですけど?」とでも言いたげなくらい簡潔にまとめられているのが、却ってムカつく。

 で、こういった問題ほどテストによく出題されるのだ。

 いや。

 問題に文句を言っても仕方がないのだけれど。

 変に荒れた心を落ち着かせるために、脇に置いてあった缶ジュースを煽る。 


「何飲んでんの?」

「元気を前借りするジュース」

 

 すると、常陸から声が掛けられた。

 空模様的に、夕焼け色にならないタイプの夕方の様子が窓から伺える。乾いた金属バットの音と、ポッコポッコとゴムボールが弾かれる音が断続的に聞こえてくる。有名なJ-POPの曲のサビの部分を遊びで演奏している、調子外れな管楽器の演奏者はその練習を中断してしまったらしかった。 


「前借り?」

「うん」僕は頷いた。「長時間参考書を見つめても元気が出てこない日にこれを飲むと、大抵やる気が出てくる。でも、数時間経ったらスマホを触ること以外何もしたくなくなるくらいにやる気が落ち込む。だから、元気を前借りしてるって思ってる」

「んじゃーつまり、プラマイゼロってこと?」

「収支合わせるとむしろマイナスなんじゃないかな」


  でも、強制的にやる気を引き出したい場合は、この方法に限る。この手しか知らない、とも言う。


「ふーん、ふーん」


 ふんふん言いながら、尖ったデザインのアルミ缶に身を包んだそれを興味ありげに見つめる常陸。

 正直今までそういった飲み物を飲んでいない人には勧めていないのだけれど、そこまで興味を示されると無下にもできない。

 ちょっとくらいなら――いいか。うん。ちょっとくらいなら、依存症状も引き起こさないだろうし。


「飲んでみる?」

「ぅお? マジ? あざーす。んふふ」


 言って、その355ml容量の缶(その時、何故か僕の胸はドキドキしていた)を手に取り、口へ運んだ瞬間。


「ぅぁ…………」


 確かに常陸の頭はフリーズしていた。

 常陸の周りだけ時が止まったかと思った。

 このまま放置するのもなんだし一応、声を掛けてみようか。


「常陸?」

「……」

「常陸、常陸! 起きて」

「…………ハッ!」


 無事生還を果たした常陸。

 よかった。


「ここはどこ……? 私は……?」

「おいおい、マジかよ」

「そっか……あたし、戻って来たんだ……

「時間遡行系かよ」


 記憶喪失系ではなく。

 どちらにしろSF色の強い反応だった。

 確かに、一口目は衝撃的だろう。口の中の味蕾という味蕾が刺激される感覚は中々ない。慣れたらこっちのものだし、美味しいのだけれど。

 ……。

 少し飲むペースを保ち過ぎたか、微かな腹部の違和感を覚えて席を立つ。勉強の調子がよかっただけに名残惜しいが、仕方がない。さっさと済ませてしまおうか。


「? いきなり立って、どしたの?」

「ちょっとお花積み行ってくる」

「うんこ?」

「……」


 品位もクソもない(うんこだけに)常陸の言葉を聞き流すふりをして、僕は教室を出る。

 出ると、ソフトテニス部によるボールの音が一段と強く聞こえてくる。ずっと座りっぱなしだったから、身体の節々が痛い。昨日、夜遅くまで勉強をしてしまったせいで、目の隈ができる部分がじんわりと痛い。のに、ジュースのせいで変に目が冴えている。

 近くのトイレに寄って、蛇口を捻り、流れる水に手をあてがう。


「つ……」


 予想以上に冷たくて声が出た。

 放課後。自分たちの教室でいつもの勉強会。

 先生に頼まれてからというもの、放課後に残って常陸と勉強することがほぼ日課になっていた。

 今までは一人で――どう勉強していたんだっけ。忘れてしまった。

 いや、僕はずっとなんだかんだ二人で勉強していたはずだ。放課後で一人で勉強しようものなら、常陸が黙って帰るはずはないから。つまり、一人でという仮定の地点で間違っている。背理法だ。多分。

 ともあれ、常陸に変に思われない内に、早く教室へ戻らないと。

 

「……――……」「……っ、……――」


 入り口から顔を出した時。

 廊下の角で何やら話をしている女子二人を見かけた。どちらもクラスメイトだ。名前は思い出せない。

 話しかける間柄でもないはずだから、そのまま黙って教室へ向かおうか。


「常陸さんがさー」

「ねー」


 向かおうと思っていたのに。

 常陸の名前が呼ばれたことに反応してしまって、動けなくなる。

 どうしよう。完全に出るタイミングを逸してしまった。

 そのまま出ようにも、知らぬふりを通せる自信はないし。どうしよう。

 と思っている内にも、二人の会話は進んでいく。

 

「ずっとアイツの近くにいるけどさー、あれ、キープしてます感すごくない?」

「マジでね。うちらがあんなガリ勉にあーしらが構うわけないじゃん」


 それは。

 常陸と同じ口調で。常陸と同じ毒が混じった話で。

 ――常陸より遥かに悪意が混じった声で。


「『お前らとつるむ気ないですよ』感が滲み出ててムカつく」


 ――陰口だ。

 僕は思った。

 それは、相手をこき下ろす行為だ。下ろした分、自分たちを相対的に上げる行為。

 気持ちは分かる。絶対的に自分を上げることは並々ならぬ努力以外ではなし得ない。なし得ないから、自分のちっぽけさに不安を覚えてしまったら、そういった歪んだ行為で気を紛らわしてしまう。

 汚い。醜い。でも、凄まじいくらいに人間らしい行為。人間らしい行為だから、きっと本能的に、その人たちの気持ちが分かってしまう。

 でも。

 その行為を分かることと、その行為を許すことは全く違う。

 

「……っ」


 違う、けど。

 僕が感情に任せて起こったところで、一言物申したところで、ただ火に油を注ぐ行為であろうことは目に見えている。常陸に迷惑を掛けるだけだ。

 今の話は聞かなかった。何もなかった。陰口なんてそんなものだ。彼女達の非を挙げるとするならば、僕達が聞こえる可能性を無視していることだけだ。何もなかったことにして、常陸にトイレが長かったことを弄られて、悔しいけれど、この話は終わりにしよう。

 と、彼女達に構わずサッサと出るはずだったのに。


「ほんとゴミだわ」


 は……。

 なんで。

 どうしてそんな強い言葉を使えるのだろう。

 アイツのこと、何にも知らないくせに。

 たかが数十日間クラスメイトだけの関係にある人に、常陸の何が分かる。

 物心ついた頃からの知り合いじゃないくせに、常陸の何が。

 何を言うべきなのかも分からない。何を伝えるべきなのかも分からないのに。

 僕はたった一つの感情に突き動かされて、会話を楽しんでいる彼女達に向かって行って、そして――、


「怖い顔」

「……え、」


 僕は。

 誰かに――常陸に。

 手を掴まれていた。


「してるけど、どしたん?」


 何も知らない顔で、尋ねる常陸。

 僕は。

 僕が今すべきことは。


「いや……」


 一瞬の逡巡の後、お腹の辺りを抑えつつ。


「全然、うんこが出なくて」

「うっわー……ガチ便秘じゃん」

「この世の便秘に、ガチじゃない便秘はない。いつだって本気だ」

「予想外のところからツッコミが飛んできたなぁー……」


 目を細めながら、常陸は間延びした声を出す。

 それから、どうしたものかと悩んでいると、常陸は掴んでいる手をグッとそちらへ引き寄せた。


「行こ?」

「へ?」

「分かんない問題。教えてよ」

「う、うん」


 言って、僕達は後ろを振り返らず、教室へ戻った。

 陰口はもう、聞こえてこなかった。

等差数列×等比数列の一般項の求め方とか

あれ初見で分かった人は旧帝大に行きましょう

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート