【ボードゲーム 将棋、チェス、オセロ、囲碁などその他様々な盤上ゲームで戦っていくジャンル。戦闘に介入せずプレイヤーを補助するサポートタイプ。直接戦闘を行うアタッカータイプ。上記二つのタイプから自由に選択でき。フィールドを《盤上》として設定することで、あらゆる効果を勝鬨にもたらすことが出来る。フィジカルはあまり必要ではなく、運要素の一切が排除された、完全知力型のジャンルであるため、非常に難易度が高くなっている】
そうしたボードゲーム、《将棋》の使い手であるワンさんは、世界をまるごと《盤上》として設定することで、《駒》達を自在に操ることが可能になるオリジナルだそうで。
日本列島で表現するのなら、ワンさんは列島を一つの《将棋盤》に設定することで、九州に位置していたはずの《飛車》を、直線的に《北海道》へ《一瞬》で飛ばすことすら可能になるそうです。
盤の大きさは自由自在で、九×九、八十一マスの、おおよそ縦1.1対横1比率の長方形であるのなら、どんなサイズであっても設定することが可能。運動場サイズでも、地球サイズでも。ワンさんの差し手ひとつで、駒をどこにでも瞬間移動させることができるのです。
もちろん弱点はあります。たとえば、サイズを大きくすればするほど、瞬間移動時にともなう精密性が著しく低下すること。駒はマスの中心で召喚されます。
つまり、一M×一Mのマス目であれば狙った座標そのまま移動させることが出来るのに対し。地球規模の八十一マス盤で移動した場合、一マスあたりの大きさは《日本列島》を大きく超える面積になってしまうため、いくらマスの中心に召喚されることが分かっているからと言っても、とてもではありませんが正確な瞬間移動はできないのです。
あとは将棋という便宜上、移動パターンは将棋の駒を動かせる範囲に制限されています。歩なら一マス前に勧めるだけ。香車なら前進することができるだけ。
「盤の拡大基点は中心ではなく、《王》の我自身。だから《駒》を我に近づける分には、それほど難しい計算はしなくてもいいけれど。この《瞬間移動》を自在に操れるのは、世界広しといえど《我》くらいネ」
面積が広い場合の精密な召喚は難しい。それなのに、《ワンさんは自身のすぐそばに》アンとアフリカ系の偉丈夫を召喚することができていた。
偉丈夫はまだしも、アンが天竺の近くにいるはずがなく。それでも召喚を成せたのは、ひとえに《面積の拡大割合と、マスの中心地点がどこの座標に来るのか》を照らし合わせ、《計算》したからなのです。ワンさんは生粋の為政者という側面以外にも、四則演算の達人という顔があったのですね。
「韓紅を呑み込む夜空に、明星が瞬きを射精する」
「ところでこの方は、いったい何を言っているのかな?」
「ナボの言葉に深い意味はないヨ。あったところで分からないしネ。ナボの故郷であるケニアの共通言語、スワヒリ語や、彼の民族言語マー語を扱えたとしても、会話は翻訳不可能ヨ。我もわからん、お手上げ」
《ナオ君のまっすぐ》を使用してもコレです。ナボさんと対話することは、かぎりなく不可能とみていいでしょう。
ナボさんは天竺メンバー最後の一人、《最強》の二つ名を冠するプレイヤーで、所持ポイント数はなんと13000。驚異的すぎます……。ナボさん、ゲーマス、ワンさんの合計値、天竺のチーム総ポイント数は、35350。明日部のおよそ七十倍。半端ない。
「くすんだ頬を拭うとき、涙の道をも隠すのだ」
アフリカ大陸のケニア出身ということもあってか、ナボさんの肢体は燻ぶる練炭の黒を塗り。筋骨隆々、赤の衣装を身にまとった、一本筋の通る立ち姿はとても様になっています。
ケニアの《マサイ》族そのもので、当然脳裏には《狂人マサイ》の名がよぎるのです。声音も渋く、わけのわからない言語を話すことを抜きにすれば、ぐうの音も出ないほどの男前です。そんなナボさんがもつ《ケモミミ》は、おそらく《ヌー》のものだと思われます。
そしてなにより、《最強》を冠するプレイヤーを前にして、僕達の《一華さん》がじっとしていられるはずもなく。
「ふぅ、ふぅ」
息を上気させ、猛獣の眼光ぴしゃり、ナボさんを睨みつけているのです。
「しばらくぶりのイチカ。あいもかわらず戦闘狂……」
アンでさえ呆れる一華さんの《殴りたい》。僕達は微笑みながら見守る境地に達しています。
「徒然草が茫々と讃え、仄かな笑みを丸呑んだ」
「わかった。表に出よう」
一華さんがナボさんの提案に従い、居酒屋の外へ出ていこうとします。ん?
「ちょ、ちょっとタンマネ! 仇花子女、どうしてナボの言っていることが分かったヨ!?」
「? そんなに難しいことではないだろ。ただのジェスチャーコミュニケーションだ」
「いったいどこにジェスチャーがあったんだヨ!?」
はちゃめちゃディスコミュニケーションでしたけれども。
「どこにって……。? どうしてウチはナボの考えていることがわかったのだろう」
「理解者キタコレ──」ひとつちゃんが抱腹絶倒。
「十二指腸と十二の試練が織りなす素粒子は、背反条約の只中に捕らわれ、垂涎たる夢を喰む」
「おう。今行く。事前に言っておくが、三回勝負。ウチが一回ごときで満足できるはずがない」
「「「…………」」」
「アハハハ!」
二人は今から殺り合うらしく、ナボさんは召喚早々店を後にしました。取り残された僕らとくれば、呆気に喰われ、二人の背中を見送るばかり。
「はぁ、はぁ。あーおもしろ。最高だね、イッチー」
「えぇまったく」
彼女の生態系はいまだ持って不可解な点もおおく、謎さ加減でいえば、一華さんのほうがひとつちゃんより頭一つ飛び抜けてミステリアスです。
「ところで、ツッコミがおくれましたが、どうしてアンが」
眼前には、麦ジュース(ジュース)をごくごくのどごす、アンがいます。
「簡単な話ネ。アン子女には、我の大駒、《角》の役割を貸しているんだヨ。つまり、サクリファイスの情報を引き出すための《スパイ》」
「そしてワンワンの情報、流すための提供」
「ぶっちゃけると、アン子女はサクリファイスとの連絡網ネ。いくらかのチームと、こちらのチームが敵対しているからとはいっても、天竺とサクリファイスの二大チームがアスアヴニールの均衡を保とうとしているのは共通項。目的がある程度一致しているのなら、必要最低限の情報共有、セッションは必須というわけヨ。でも、同盟組むほどほど親しくなるのはまずい。下の者にも示しがつかないしネ。という
わけで、アン子女に白羽の矢が立ったというわけネ」
「天竺にはサクリファイスの情報を。サクリファイスには天竺の動向を。二重スパイなのがアン」
「サクリファイスは我のゲームマスターを。我ら天竺はサクリファイスのクイーンを。足りない駒を手に入れたチームが、このゲームの勝者になれるネ。サクリファイスにゲーマスの片割れを与えたのは、天竺に与しない《殺戮者達》のポイントを回収するためだったけれど。あのチームのボス、キングは、少々成長しすぎたネ。いま叩いておかなければ、のちに大変なことになってしまうヨ」
天竺と、それに並ぶサクリファイスが強者たる所以は、《チート》にひとしい運営サイドの人間を保持しているから。ならばそのチートを奪えば、椅子取りゲームに勝利できる、というわけですか。
「派閥があるから争いが起こる。武器があるから振るう先を血眼で探す。それなら天下統一を果たして、力のすべてを取り上げて。根本的に戦の種火を消そうって魂胆なわけねん」
問題は、天下統一を果たした後に、《どちら》がこのゲームの勝者であるのか、という段階にまで、アスアヴニールの情勢は進んでいたのです。終身刑のブランクは大きすぎた。
「現状の打開が確約されているのなら、《玉座》に座っている人は誰でもいいと思えるのがアン。《世界の加速》が役割。停滞を嫌うのもアンだから」
とは言いましても、やはり解せないのがその行動心理です。
二大派閥の指標を正し、世界の均衡を維持、促進しようという試みは確かに健全的です。だがしかし、それが必ずしも有益なことであるとは限らないはずです。なぜならアンは、どこまでいっても《サクリファイス》のメンバーなのですから。
彼 女は自チームのメリットを優先して然るべきで。《対等》という立場を選ぶことは、決して《適当》なものではないのです。倫理的には正しくても、派閥争いにおいてそれは《悪》だ。一方的に天竺の情報を搾取することだって、アンには可能だったはずなのに。
「ナオ君は素直だね。アンが《サクリファイス》側の人間だって、どうして決めつけられているのかな?」
「……、なるほど。アンの本当の主人は、ワンさんなわけですか」
「なのですと笑うアン」
「サクリファイスはアン子女が天竺に潜入し、情報を搾取していると思い込んでいるネ。その実、我はアン子女からサクリファイスの実情を聴取しているヨ。正真正銘の、二重スパイネ」
「まさしく王道だね!」
「裏工作は大国の必修科目ネ」
おもえば、天竺と敵対しているサクリファイスのアンが、チュートリアル時に僕達を天竺へ誘導したのは不可解でした。敵の利益になるくらいなら、篭絡するほうがメリットは大きいはずですから。その違和の辻褄が、ここにきてようやく解消した形です。
「目的は《世界の破壊》。クソッたれた条理の終末。そのために利用したいのナオカズ達。いい?」
世界の破壊……。アンはあの時、僕の抱いた《怒り》に対し、こう返答しました。
『直一は自分に似ているから分かる。お前は世界に対して怒っている』と。
あの言葉が真実ならば、目の前のアンは、すまし顔で、ブチ切れていることになるのです。この《世界》に対して。
「別に構わないよん。利用するのはこっちだしね。うんうん。ひとまずアンの目的は解せたよん。なら、次に聞きたいのは理由のほうだね」
ひとつちゃんの問いかけ。
「世界を破壊しうるにたる《理由》」
僕の詰問。
「全部のアンを話す前に、知って欲しいことがある」
そんな僕たちをキリッと見つめるアン。鬼気迫るその眼力に、自然と姿勢が正されます。
「クイーンとキング以外のピース、異能で作られた人造人間。生まれも育ちもアスアヴニールなのがアン」
現世で生まれたのではなく。電脳世界アスアヴニールを出自としている。
その告白に、驚きを隠せないでいた僕に対し、ワンさんは本当のことだと示すかのように、強く頷きました。訊ねたいことは山とありましたが、ひとまずはアンの言葉に聞き入るのです。
「マイクイーンはゲームマスターの一人。つまり異能力が、《埒外》。ゲームジャンルは《育成ゲーム》」
【育成ゲーム 他のプレイヤーないし、使い魔を育成し、強化していくジャンル。完全支援型で、|勝鬨《ウォークライ》に干渉することはできないが、全ジャンルの中で唯一、《異能力の直接強化》が可能となっている。つまり、異能力の限界突破を故意に行使できる能力である】
「クイーンのオリジナルは、《アストラル魂の形状変化》。自身と性行しなければいけないとう強い制約、クリアできて初めて、《人の形》を変えられる」
またもやリスクとリターン……。人外のデパートですね。
「理論的には確かに可能です。この世界は、物理の存在しえない《電脳空間》ですし。肉体の形を変えることなど、造作もないことでしょう。現に、ケモミミだって生えています。アンにウサギの尻尾をはやすことさえできました」
「いや、おかしいでしょ。ケモミミのように《肉体情報》だけを書き換えるのならいざ知らず。《魂の形状変化》は不可能なはず。その証拠に、アタシの両足はピクリとも動かないじゃん」
確かに。盲点、いや盲目でした。アストラル魂の形を変えられないのは、明言されていたはずです。
「天目、ギフトの内容をよーく思い出すネ。『第三者が、魂の形状を変えることはできない』」
「!? 第三者ではなく、《当事者》であれば。本人であれば、変えられるということ!?」
「正解は半分。魂を変える《手段》があってこその、形状変化」
《本人》が《手段》をこうじることで、ようやっと魂の形を変えられるという流れ。
「人は本来、無意識のうちにアストラル魂の形状変化を行っているものなんだヨ。大きくなっていく身体、《成長》に合わせてネ。そしてその変化を、《自意識的》に行おうというのが、クイーンの《異能力》ネ。つまりクイーンの力は、人に魂の形を変えさせるための取説、マニュアル、《手段》ネ」
なるほど、だからこその《交わらなければいけない》という《制約》。
クイーンの異能はあくまでも魂の形状を変化させるための《道具》であり、行使するのは使用者本人。《クイーンと一つになった》使用者本人なのです。
「話が戻る。クイーンの異能は《そこそこなんでもあり》。《人の魂を分裂》させることすらも」
ここで僕はピンと来るのです。ワンさんは言いました。サクリファイスの強みは《数》であると。本来であれば一チーム三人までという制限がある勝鬨において、それでもサクリファイスのみが《十六人》チーム。クイーンとキングを除いた十四人が、《一人》としてカウントされる異常。その原理こそが──。
「マイクイーンは、元チームメンバー一人の魂を、《十四等分》にした。小分けにされた魂を、器に封入。分裂により弱まった異能を育成能力で強化。こうして十四人の兵隊が完成」
では眼前のアンは、元をただせば一人の別人であったと──。
「アン以外の十三人、人の肉体もってない。FPSの《アンドロイド》を器に使っているから。アンの身体は、《元チームメイト》の物。肉体と魂の結びつきが強固だったため、自我が芽生え、独立した《自意識》を得た。だからこそ、生まれも、育ちも、アスアヴニールなのがアン」
つまり、他の十三人は、アストラル魂をあたえられただけの《機械》であるのに対し。アンは肉体を依り代に成長した《人間》。出生国アスアヴニールの、電脳少女。
「現在のアンは、元チームメイトとは完全に別個体。生まれ変わりですらない。でも、ときおり夢に見ることがある。肉体に残った軌跡、残穢の記憶、思い出すことがある。だからわかる。彼は、望んで《バラバラ》になったわけじゃない。死にたくて、死んだわけじゃない」
十四個に切り分けられて、それでも《生きている》と定義できるほどの道徳を、僕は持ち合わせていない。死ねない世界で、死んでしまった人がいる。いらなくなって、いなくなった人がいる。それがアンの前身。名も知らぬ墓標。
「その人は泣いていた。その人は絶望していた。その人は怒っていた。クイーンに対してじゃない。サクリファイスに対してでもない。それを良しとする、《世界》に対して。それがアンの根源。アンの宿願。だからアンは、このクソッたれた世界を、《終わらせたい》」
サクリファイスのためでも、天竺のためでも、そしておそらくその人のためですらない──。
「アンの始まりが、《絶望》からだなんて、認めない。アンの父が、《憤怒》だなんて絶対嫌だ。お腹の底から笑いたいのがアン。みんなと笑いたいのがアン! だから、アンは世界を壊すんだ」
自分のために。楽しむために──。
「アハハ、最高にアタシ達好みの理由じゃないか。鬼畜じゃないか」
僕ら好みの、異常性。愛した人が、アンでよかったと、僕とひとつちゃんは喜びます。
「得心がついたよ。どうしてアタシが、アンに対して必要以上の敵外心と愛情を抱いていたのか。アンは、アタシ達とは違うんだ。絶望的に、別次元なんだ。アンは、《犯罪者》じゃない」
生まれた場所が地獄であっただけで、地獄に落ちる理由はアンにない。
「その理解、気に食わないのがアン。アンはとっくにアスアヴニールに染まってる。アンもヒトツ達と同じ怪物だ」
「そりゃ周りに怪物しかいない環境で。怪物に、怪物として育てられたのだから、そうなるのは仕方ないよ」
「人だって殺してる」
「でも、殺したかったわけじゃないじゃん。殺すしかなかっただけで」
「別扱い、嫌……」
悲しそうに俯くアンの、なんと儚げなことでしょう。人工的に作られたからといっても。胎内で生じた鼓動ではないにしても。人生を歩む権利は、確かにあるはずなのに。それすらも剥奪されたのが、アンという女の子なのです。
「同じがいい」
「どうして?」と僕は訪ね、「一人ぼっちは、いや」と、彼女は答える。
血縁者はいない。ルーツもない。人権の持ち合わせもない。なんにもないアンは、《何もかもを捨てた》僕達と、同じであることを望んだのです。けれど、僕達には明日部があった。何もかもを捨てた先に、唯一のこった居場所があった。なんにもないアンを、見下ろせた。
「どうして僕達なんですか。どうして僕らを選んだのですか? 他にもいい人は、きっと、沢山いるだろうに」
「いいひとじゃなくていい。ただ、初めてできた友達が、一番の友達だって、信じているのがアンだから。そしてナオカズを一番にしたのは、アンの意志」
「なるほど」
だとしたら絶望的に、人を見る目が壊死している。そしてそんな彼女を好きだと思えてしまえる僕も、きっと死屍累々の|同胞《はらから》なのだ。
健気なアンが、僕は好き。この感情すら傲慢ちきなものだと知っていても。それでも僕は、可哀そうなアンに手を伸ばすのです。手を伸ばし、彼女の下がった頭を、撫でるのです。
僕は、不幸者が好きな変態だ。不幸でありながら、幸せであろうとする愚か者のことが、めっぽうたまらん好きなんだ。
不幸を受け入れた明日部には依存して。不幸を拒絶したアンには恋焦がれ。誰かに成ろうとする人たちに、嫉妬する。
「それなら特別扱いしましょうか?」
「嫌。同じがいい」
「同じにはなれません。決して」
「嫌、いやだ!」
「貴方は殺しが正解の世界で生きてきた。どうやったって、僕らと同じ悪にはなれないんだ」
「嫌だ、同じがいい。同じでなきゃいけない」
「ダメです。愛してしまったから」
「ダメは嫌! 一緒に世界を壊す。一緒に荒野で笑う! 一緒に、一緒で」
「一緒にしないでください。いい迷惑です」
「友達になってくれた。ナオカズはアンの友達。友達と同じになりたいという気持ちはおかしい?」
「おかしいほどに正しくて、だからこそ《悪答》には成れないんですよ」
「いや、いや、いや、いやだぁ!!」
駄々っ子とばかりにべそをかくアンの。僕は頬をぷにぷに抓る。可愛いな。
僕らと同等の悪であると。僕らと同じ忌み子でありたいと。そう泣く女の子は、どこまでいっても、純情なだけの、《人間》なのです。そんなアンは、僕に一つの《答え》を示してくれた。
「なら、提案があります。アンは決して僕達と同じ怪物にはなれません。それは絶対だ。揺るがないんです。でも、《僕》が、アンと同じ《人間》になら、なることができるのかもしれない」
人生で初めて出会えた。《寄り添おう》としてくれた他人が、目の前の《アン》なのです。そんなアンは、僕の知らない世界を、夢見せた。
「っな!? ダメだ。それだけはダメだよナオ君! そんなこと、そんなことをしたら!?」
「いいんです、ひとつちゃん。たとえその先に終わりしかなかったとしても。僕、今人生で、一番楽しいですから」
これは簡単な式なのです。約束された永劫の《楽しい》よりも。今このひと時だけであったとしても。《めっちゃ楽しい!》を、僕という怪獣は選ぶ。ただ、それだけの獣道。
アンは僕らと同じにはなれない。けれども、僕がアンと同じにならなれる。アンと同じく、《なんにもない》人間になることができる。
それはつまり──。
「僕が《明日部》を捨てれば、僕は人間になれるんだ」
人間という悪鬼に、人間をやめた怪物は、堕ちることができるんだ。
「アタシは絶対に許さないよ。そんな人道、絶対絶対許さないよ! アタシの《支配》から、逃れられると、思ってんじゃねえ!」
ひとつちゃんは、手にもつグラスを壁に叩きつけ、一度も見たことのない鬼の形相でもってして、僕を睨めつける。
「別にアンのためではありません。アンと同じになろうとするのは、ただの《理由》、キッカケにすぎないんです。アンが、僕に気づかせてくれたにすぎないのです。アンのことは好きだけれど、やっぱし、明日部のほうが遥かに大切で。僕は愚かにも愛している。でも、こうも思うんです。《命よりも大切な明日部を捨てる》だなんて。なんて、なんて、なんていうほどに──」
笑え。巣くう叫びを笑みで殺せ。
「《楽しそう》なんだと」
「化け物が」
「そして貴方の産んだ怪物です」
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