「先生、おはようございます」
小屋を出ると、はつらつとした挨拶で、ヤクが出迎える。
彼の少し赤みがかった髪が陽の光に照らされ、赤く輝く見えた。
「おはよう」
ヤクは従者となってから毎日、朝早く恭之介の小屋の前に来る。そこまでしなくて良いと言ったのだが、従者の役目だと言われ、強く反対できなかった。
同じように呼び方も先生に変わっていた。先生などと呼ばれる人間ではないのだが、これも弟子だからと言いくるめられた。自分は思ったより流されやすいのかもしれない。
ヤクが嬉々として、恭之介の部屋の掃除にとりかかった。大したものもないし、そこまで汚れていないと思うのだが、毎日掃除をしてくれる。
そこまでしてもらって申し訳ないという気持ちが先だってしまうが、ヤクの立場から考えると、しっかりとした役割を与えられて、やりがいを感じているのだろう。
ヤクが居場所が欲しいと言ったときのことを思い出す。悲痛な心の叫びだった。彼の気持ちに、恭之介自身も共感するものがあった。
自分と同じようなことで悩んでいる少年。しかし、恭之介よりずっと純粋できれいな感情である。清らかな悲痛だ。
しかし、今はその悲痛さの欠片もない。口笛を吹きながら、部屋のほこりを掃いている。従者という仕事はヤクにとって大切な居場所になりつつあるのだろう。
そう考えると、自分もヤクの主人兼師匠として、しっかりしなければならないなぁ、と思うのであった。
近くの井戸まで歩き、顔を洗う。朝の澄んだ冷たい空気が、濡れた顔に刺さる。このところ良い天気が続いているが、肌寒い気温であった。
ヤクの話では、この世界にも四季があるらしい。今は秋。
木々は鮮やかに赤や黄に染まっているが、日がたつにつれて、少しずつ冬の装いになっていくのだろう。
この辺りは冬になると雪が降り、積もった雪はなかなか溶けないと言っていた。気温は前の世界と比べると平均的に低そうだ。冬になると狩りの獲物も減るしも、植物の採取もできない。
そのため、毎日狩っている魔物の肉は、どんどん保存用として蓄えている。毎日魔物が来るので、それなりの量を狩っているが、レンドリックはもっと保存を増やしたいと言っている。確かに、保存食が多いにこしたことはない。
日課にしている鍛錬をするため、いつもの場所へ来た。村の端にあり、あまり人も来ず十分な広さがあるので、最近はここで剣を振っていた。
暮霞を抜く。毎日魔物を斬っているが刃こぼれはない。満足な鍛冶屋もないこの閉鎖的な環境を考えると、暮霞は何とも頼もしい相棒だった。
脂をぬぐい、砥石で研げばしっかりと切れ味は戻る。だが、いずれは専門の研ぎ師に見せてしっかりと研いでやりたい。きっと見えないところで暮霞も疲弊しているのだ。
幸いなことに、この世界にも刀があると聞いた。何百年も前に来た、武士の転生者が刀の存在を広げたらしい。
その武士は大陸のはじにある山岳地帯に『ホノカ』という国を作ったとレイチェルは言っていた。小国ではあるが、山の中という守るに適した立地と兵士の戦闘能力の高さで、数百年独立を守り続けているとのことである。
同じ世界の人間が作ったのかもしれないと思うと、いずれはそのホノカ国とやらに行ってみたいものだ。
それにしても、何の伝手もない新しい世界で、一から国を作るとは、どれほどの野心、強い意志があったのか。今の自分と比べると雲泥の差である。
村の守りを任され、その重圧に戦々恐々としている自分がいる。強くなることだけにかまけ、あまり物事を考えてこなかったしわ寄せだ。
考えなしのところと視野の狭さが自分の欠点であると自覚していた。
情けなくは思うが、もはやそんな自分を変えられるわけもないので、今は与えられた役割をしっかりとこなしていかなければならない。
それに一国を作り上げることと、村を守るということ、どちらも立派なことではないか。そう気持ちを切り替える。
しばしの間、刀身を見つめていた。暮霞の美しい刀文を見ると心が澄んでくる。
暮霞を握り、正眼で構えた。ゆっくりと呼吸をしながら、振らずにただ構え続ける。
今はあまり数多く素振りをしない。その代わり、頭の中で様々な想定をする。
今、目の前には自分がもう一人いる。昔は様々な武士を想像していたが、最近は自分を相手にすることが多い。
同等の力の人間を、どうしたら斬れるのか。頭の中ではすでに何通りもの攻めをしている。頭の中で刀を振っているようなものだ。
今度は、姿勢や刀の軌道、筋肉の動き、足の運びなどを意識しながら、一つ一つたっぷりと振っていく。一振りするごとに少しずつ心気が澄んでいき、無心に近づく。
どのくらい振っていたのだろう。ようやく満足し、暮霞を鞘に納める。
体は火照り、額には汗がにじんでいた。ふと横を見ると、少し離れたところで、ヤクが食い入るようにこちらを見ていた。
「やぁ、ヤク。そうじは終わったのかい」
「はい、ずいぶん前に。俺が見に来てからも、一時間以上、振っていました」
「そんなにか。朝ご飯にしようか。腹が減っただろう」
「大丈夫です。先生の鍛錬を見て、勉強していましたから。でももう朝食の準備はできています」
ヤクが水筒と汗を拭く布を差し出してくる。
「先生、刀を振っている時、どんなことを考えているんですか」
「う~ん、無心の時もあれば、身体の動きについて考えている時もあるよ。その時その時で様々だね」
「過去の立ち合いを思い出したりするんですか」
「それもあるね。最近は自分を相手にすることが多いけど」
「先生自身が敵ですか!それは大変ですね」
「うん、実力が拮抗している人との勝負を決めるのは、本当に些細なことだからね。何が勝負をわけるかわからない。色々な想定をするよ」
もっとも、本当に極限の勝負の際は、想定などすべて吹き飛ぶ。あるのは瞬時の判断と本能だけだ。だが、それでも事前に頭で色々と考えるのは悪いことではないと恭之介は思っていた。
恭之介の言葉を受けて、ヤクは何かを考えるような表情をしている。彼なりに恭之介の言葉を落とし込んでいるのだろう。本当に熱心な弟子である。
従者になった初日に、鍛錬をしている時は、緊急時以外は声をかけないでくれと伝えてあった。するとヤクが、離れたところで見るのはいいですか、と言ったので、それは了承していた。人の鍛錬を見て学べることもあるからだ。
もっとも気の利くヤクのことだから、注意をしなくても声をかけるなどという無粋なことはしなかったようにも思う。
「じゃあ小屋に戻って、朝ご飯にしよう」
「はい」
晩ご飯はレンドリックのところで食べているが、何もなければ朝と昼は自分の小屋で食べている。ヤクが従者になってからは、ヤクが食事の支度をしてくれるようになり、この部分もずいぶん楽をさせてもらっている。
加えて、基本食べ物は焼くか煮るしかできない恭之介に比べると、ヤクの料理の腕前はなかなかのものだった。
最近は、ヤクが作るご飯を楽しみにしている自分がいる。
小屋に戻ると、火にかけた鍋からいい香りが漂っていた。
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