カチリ。と、あっけない音だけが、静かに響いた。
瞬間、丁年は、思考を止める。わずかの間をおいて、不発、と、理解された。急いで撃鉄を起こし、引き金を引く。その動作を繰り返し、もう一度、最後の弾薬までリボルバーのシリンダーを回転させようと努めた。
その間に、思考を再開させる。この弾薬は、製造方法を知る、そばかすメイドが作ったものだ。彼女の弾薬作りの腕は信頼している。雷管、薬莢、発射薬。不発の原因となり得る先天的な製造ミスなど、基本的には想定できない。その銃弾の扱いや保護にも丁年は気を遣ってきた。つまりは、後天的な不発の原因も、とりたてて思いつかない。
だが、物事に完璧などない。先天的だろうが後天的だろうが、そこになんらかの不手際が生じていて、不発を招いたのだろう。まさかの、このタイミングで。まるで丁年を諫めるような、このタイミングで。
もう一度撃ってみてダメなら、きっともう、ダメだ。丁年はそう思う。
それでももう、リロードをしようにも『ガーランド』の手持ちはなかった。あとは、普通の銃弾を詰めた、バレッタしかない。それでも人体を殺すには十分だが、切り札を失ったことはでかい。
だが彼は、その事実にわずかの、安堵を覚えていた。そんな気持ちを抱いたことなど、認めるわけにはいかないが。
カチカチカチカチ。と、とにかくシリンダーを回す。だが、さすがにロリババアも、それを待つほど愚かではない。片足こそもう自由には動かないが、それでも懸命に立ち上がり、よろけながら逃げる。
「待てっ!」
そう丁年は声を上げるが、当然と、そんな言葉で待つはずもない。まだ丁年は、シリンダーを回す。そんなことをしている間に、バレッタに持ち替えればよかった。しかし、もう遅い。
彼女は、逃げていたのではなかった。向かっていたのは、巨斧。それが突き立つ、その場所へだ。
「んしょっ、と……!」
足から血を噴き出しながら、それを掲げる。追いかけてくる丁年に、威嚇のように、突き付けた。
「あんたも、虚勢を張るのはやめとくッス。今日はもう、三回――」
そのとき丁年はふと、違和感に気付いた。たしかに彼女はもう、本日、三回振るっている。だが、その一回目は……? 一回目にそれを振るったのは、どこだった?
二回目と三回目は、たしかに白の世界――丁年の生み出した世界で振るっていた。だが、一回目は、黒の世界で振るったのではないか? それは、彼女の生み出した世界。彼女の意のままに創造される世界。であれば、そこで振るった一回目は、本当に彼女が自身の肉体を酷使して、その体を痛めてまで振るったものであるかは、判断つかない。極端な話、彼女が斧を振るったというそのすべての事象が、彼女のイメージで生み出された幻影ということすら、あり得る。
「え、なに? よく聞こえないんだけ、どっ!」
そう、余裕そうに言って、彼女は四度目の斧を、振るった。
*
実のところ、彼女は、丁年の深読みのようなブラフを張っていたわけではない。彼女は普通に、本日四回目の巨斧を、ただただ己が体で、振るったのだ。
たしかに、元来彼女は、一日にそれを、三度しか振れなかった。しかし、いつからか、身体が強くなったのか、四度目を振れるようになっていたのだ。あるいは、無理をすれば五回、六回と、振るうこともできそうな気さえ、彼女はしていた。
だから、四回目の攻撃は、ただただ普通に、容易に、振り下ろされる。
不発弾や、ロリババアの予想以上の攻撃に、頭が真っ白になっていた、丁年の、真横に。
世界を揺るがす轟音が、丁年の脳裏に、鮮明と、死を描いた。
「……もう、いいでしょ」
ロリババアは言う。
巨斧が突き立ち、世界は、現実へと一時、回帰した。白や黒に飲まれ続けてきた戦闘から、日常に戻るように。そこは、ただ夕闇の中に蛍光灯の光が注ぐ、WBO特級執行官、コードネーム『ガウェイン』の、私室でしかない。
「復讐したい気持ちは解る。大切な家族を奪われた苦しみは、怒りは、解る」
彼女は本当に、解っている。しかし、丁年は、彼女が解っていることを、知らない。
「だから、あなたの行動を、『そんなこと』だなんて思わない。だけど、あえて言うよ。『そんなこと』のために、十字架を背負う必要はない。憎む、忌々しい敵であっても、誰かを殺すってのは、そういうこと」
彼女はそれを、あのとき知ったのだ。パーマストンノースで、自らの手でなかろうと、若者を殺してしまったときに。
足を切ったくらいでは、たいしてなにも感じなかった。それはそれで人格が破綻しているが、しかし。さすがに、彼が死んだ――もう死を免れ得ない重傷を負って、瀕死の彼を見て、悔いた。
いつか、両親が自死したとき、それを笑った者たちを手にかけていれば、きっと、その段階でこの十字架を背負ったのだろう。そう、彼女は思う。
だから、結局、早いか遅いかの違いでしかなかったけれど、あの日、自分を救ってくれた壮年には、やはり、感謝しかなかったのだ。
こういう人に、自分もなれたら……とは、正直、思わない。というより、それは無理だろう。馬鹿な自分には。そう、ロリババアは思う。
だが、言葉くらいは、繕おう。目の前の彼を救えなくとも、それは、自分に言い聞かせるために、言おう。
「あなたの物語は、まだ、続くの。これからも、続いていくの」
いつか自分を救った言葉を、自分と、彼に、言い聞かせる。
*
続く。続く。……続くだと?
そう、丁年は彼女の言葉を噛み締める。
こんな物語、続いてどうなる?
「…………」
まだ、彼女の手の内だ。世界こそ現実に回帰したが、丁年は死を間近に感じ、まだ体が委縮している。それに引き換え、ロリババアは、片足こそ負傷したが、さして不便なく動けそうだった。
だから、妙な行動を取れば、今度は問答無用に、やられるかもしれない。丁年は、リボルバーのシリンダーを回すことも控えて、ただ、頭を回した。
思うのは、記憶だ。この状況を打破する方法ではなく、ただの回顧。馬鹿で愚かな自分自身を諫めるような、記憶。
『嫉妬』……『嫉妬』だ。
気が狂いそうなほどの、『嫉妬』だ。
丁年の目から見ては、ロリババアは、なにも知らないくせに他人に説教を垂れるおせっかいにしか映らない。彼女たち敵の情報は調べたが、その生い立ちまでは情報を得ていない。そんなものは、戦闘に不要だから。
だから、丁年は彼女が、両親を失い、その件で誰かに復讐しようなどと――いまの自分たちと似た境遇を経験していたことを、知らない。ゆえに、ただ安穏と暮らしてきたんだろう、と、勝手に作り上げた彼女の半生に、『嫉妬』する。
そしてその『嫉妬』が、あらゆるものに伝搬した。温かい家族。表舞台で脚光を浴びる者たち。なに不自由ない人生。
そして、丁年が思いを寄せる少女の、その心を掴んだ、紳士。自身の兄であり、尊敬もしている、彼に、どうしようもなく、『嫉妬』する。
それは、敵意になど変わらない。だがだからこそ、発散のしようがない。どこにも出て行けないその黒い感情は、心の内側で発酵して、やがて醜い黴になる。そうして、さらにさらに、丁年は闇に飲まれていく。醜悪な者に、なっていく。きっと彼女に嫌われるような、そんな、醜悪な姿に――。
「もう、いいんスよ。こんな人生」
発声の裏に隠して、もう一度、撃鉄を起こす。シリンダーは回し終えた。次に引き金を引けば、銃弾は発射される……かもしれない。一度、不発だったのだ。次もダメかもしれない。だが、発射さえされれば、十二分に相手を殺しうる。
「…………」
丁年の、諦観したような言葉に、ロリババアは眉をしかめる。嘆息して、肩を落とす。
そうして、彼女も諦めたのか、そっと、両手を広げた。
「そう。……だったらワタクシも、覚悟を決めた」
やってごらん。
そう言うと、ロリババアは、巨斧を手放し、『異本』をも放り捨てた。もうすでに、世界は現実に戻っている。この状況で『異本』まで手放しては、今度こそ彼女に、身を守るすべなどない。
そんな無防備な彼女に、銃口を、向ける。
それはまるで、鏡に映る自分の心臓に、突き付けているようだ。そう、丁年は思う。
忌まわしい、醜悪な、『嫉妬』にまみれた、自分自身に。
「…………っ!」
丁年は引き金を――。
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