デゼル、と呼びかけた声が彼に届いたかはわからない。彼は既にニルィクへ向けてその角を掲げて一目散といった様子だったから。
必死に追いかけようとするも、足がもつれて膝をついてしまう。咄嗟に手をつき倒れることは阻止したが、どうにも動くことができなかった。
耳は、ぐわんぐわんとしてまともに音を取り込んではくれない。脳まで影響しているのか、視界も歪みがひどかった。
――デゼル、行ってはダメ。
それだけ伝えたかった。あんなものに勝てるわけがない。心の底から膨れ上がる恐怖のほうがはるかに大きいのだ。狩れない相手に挑むほどの禁忌を犯せば――自ずと答えが出てしまう。
すう、はあ。すう、はあ。
溢れ出す負の感情を抑えながら必死に呼吸を整えようとするが、心臓は早鐘を打ち、過呼吸気味で苦しい。
じわりと滲む涙が瞳を濡らし、地面へと落ちていく。ゆっくりとだが視界の歪みが薄れてきていた。耳はまだまだかもしれないが、どうやら視覚は戻ってきてくれたらしい。
やっとの思いで顔を上げる。
「あ――」
心臓が、跳ねる。
あたしは目を見開いた。
――右目が、ずぐりと痛んだ。
脳の処理は追いついている。ありえないくらいに。だって、世界がスローモーショーンに見えるんだから。
こういう時だけは、追いつかなくてもいいんだよ、そう言ってやりたかった。
デゼルの身体に、ニルィクの角の先端が刺さっていた。そしてニルィクはそれを物のように軽々と振り回し、投げる。
空へと放り出されたデゼルの身体は紙切れのように舞い――しかし鈍い音を立ててあたしの横に落ちてきた。
「がはっ……」
「デゼルっ」
駆け寄ろうと動く足が、嘘のように重かった。
白馬の腹部からはどくどくと血が溢れているが、息遣いは弱くない。しかも懸命に立ちあがろうと足をバタバタさせていた。
デゼルの毛並みがまたも鮮血によって穢されている。今度は己の血によってだが、その様子は見ていられないほどに痛々しい。
「デゼル、無理、しないで」
「悪ぃな……勝手に突っ込んだ挙句、この様だ」
「……ばか」
聴覚が気付かぬ間に回復しており、デゼルと話せることに感謝した。
暴れるデゼルを宥め落ち着かせてあげると、彼はジタバタとするのをやめ、そのまま横たわり、浅いながらもゆったりとした呼吸をし始める。
その姿は、あたしの心を谷底へと突き落とさんばかりに心を抉った。
――あたしはまた、失い、傷つけ、無理をさせてしまうの?
ルネの、シャトラの、リオンのように。
呼吸が浅くなり、右目が疼き、頭がズキズキと痛む。
『彼は――デゼルは、この程度で死にはしない』
そんなことは理解っている。違う、そういうことではなくて――
「セナ、その目……いったい、どう、した?」
「……え?」
思考を遮ったデゼルの声で我に返る。
右目の目尻から右頬に流れる熱く重たい何かに気が付き、それを左手の指先で拭う。そこに赤黒いものが付着した。
――血だ。
「……わかんない」
痛々しい傷から目を逸らしながら、デゼルの頭をくしゃくしゃと撫でた。
思い当たるとしたら、デゼルが貫かれたのを見て、右目が酷く痛んだことかもしれない。しかし視力に影響はなく、今はそれ以上に痛むこともないため、気にしないことにする。
立ち上がり、ニルィクを睨みつけた。
皺が刻み込まれた雄々しい龍の顔をし、馬や鹿に似たその巨躯は落ち着き払い、最初の地点から微動だにせずこちらを凝視している。その目には何の色も宿っていないように見えた。
「やめろ、セナ……オレを置いて逃げることだけを考えろ。今のお前は……とてもじゃないが冷静じゃない」
「そんなこと、言われなくてもわかってるよ。……でも、君を傷つけられてあたしが黙ってられるわけないじゃない」
制止を無視して白金色の硬い床を蹴りつけて駆け出す。
デゼルが傷を負ったのを見て、あたしの中で何かが弾け飛んでいた。それがたとえ逆上からであったとしても、大切な存在を傷つけられたことに変わりはないのだから。
ついと視線を上げ、戻しながらトップスピードへ。
暗雲が唸りをあげている。
耳が捉え、ブーツが床、そして空を蹴る。
鼓膜を劈く雷鳴の轟音だけはもう遮断した。もう、それがあたしの耳を侵略することはなく、あたしから聴覚を奪うことはないはずだ。
「ほう……」
次々に降り注ぐ、細くとも鋭い雷を躱しながらも地面に走る電流の余波を避けつつ、ニルィクへの接近を試みる。
――感覚的ではあるが、理解したことがあった。
どうやら、右目で視た情報の処理能力が上がっているらしい。そこから見える世界が、まるでスローモーションのように動くタイミングが何度もある。
それに伴う左右の視界の解像度の違いを、アンスールの脳は上手に処理してくれているらしい。あたしの意識への負担は少なく、実際、負荷という負荷は感じられなかった。
一方、ニルィクは不気味なほど動かない。
雷以外での攻撃をしてこないことも気になるが、その精度、威力はすさまじいもので、とてもじゃないが無視できるものではなかった。
「使徒よりも機敏に動くとは予想外だ。賞賛に値する」
ニルィクは至って冷静そのもの。その場から動く素振りすら見せず、あたしの動きを観察し続けているらしい。
しかし、こちらはいくら避けれるとはいえ余裕があるわけではなかった。
「攻めるしかない……か」
あたしは既に冷静さを取り戻していた。
常に命を危険に晒しているという自覚によるのもあるが、どこかで急速に熱が冷めるような感覚に襲われたから、というのが大きい。
回避を繰り返しながらも、少しだけ思案し――遠回りをしてニルィクの腹部の下を目指すことにした。
頭部を狙ってはデゼルと同じ轍を踏むだろう。かといって背後などは建物もあって無理がある。あたしの脚ならば上からも不可能ではないが、空中で降り注ぐ稲妻を避け続けるのは無策に過ぎる。
――そんなことは、当然ニルィクだって百も承知だろうけれど。
「良い目だ。しかと辿り着いて見せよ。余が動くことはない故」
「……随分と余裕なことで」
ぼやく。
考えまで読まれているようで気に食わないが、この会話の間にも、距離を詰めることができていた。
徐々に激しさと鋭さを増すニルィクの雷の間隙を縫い、多少の傷を覚悟し、ようやく目的地へと滑り込んだ。
頭上に見える腹部は鱗に覆われていたが、デゼルの手前一発蹴りを入れるくらいはしてやりたかった。
とんっと床を蹴って飛び上がり身体を中空で回転させその分厚い鱗に蹴りを叩き込む。
「――見事なり。その位置では余も咄嗟に脚が届かず、雷も落とすことができぬ。良き判断力と行動力だ。まこと、優秀な師の薫陶を受けているらしい」
「……それはどうも」
ぱらりと鱗が剥がれ落ち、床に落下した。その奥にも柔らかそうな部位は見当たらず、またも鱗があるようだった。
随分と堅牢な守りなことで。
その態度も余裕たっぷりで白々しく、わざとあたしの蹴りを喰らったようにすら感じられる。
悔しいが――狩れないということを身をもって理解したところであたしはため息をついた。
「其方に道を開けよう。……あちらの勇敢なる一角に関しては余がなんとかしておこう。其方は自身のはじまりに触れてくるがいい」
ニルィクがその巨体を動かし、デゼルの方へ向かってゆっくりと歩いていくのを見送る。
デゼルを思いながらも、あたしは教会へと顔を向けた。
♢
教会にも見えていた建物に足を踏み入れると、寒気が足元を駆け抜けていった。
静寂だけが支配する空間が広がっている。
ふと吸い込まれるように頭上を見上げれば、ステンドグラスに似た透き通った絵画が翠の光を吸い込んで光り輝いていた。
向かって右側にはデゼルによく似た一角獣と、その上に跨る有翼の人型の存在が描かれていて、反対側には、有翼で黒を基調とした人型が描かれている。こちらは動物にはまたがっていないようだ。
お互いの手には武器に見えるものがある。どうやら戦いを描いたものらしいが、見ただけではわからない。
視線を下げ正面へ向けると、そこには石像らしきものがあった。かなりの年数そこに存在しているはずなのに劣化の一つ見られない様は、セーランヘルの街並みと同じく異質さを浮き彫りにしていた。
「あ、もしかしてこれって……」
一目で、エインヘルを象ったものだと理解した。
翼を広げ、祈るように両手を胸元で合わせているその顔が――あたしにとてもよく似ている気がした。
しかし、それはどこかで見た覚えがあった。
首元には、あたしが持つものと同じペンダントがかけられている。そこだけが異質に浮かび上がっていて、いかにも触れろと言わんばかりだ。
かつん、かつんとあたしの足音だけが響き渡る。
とくん、とくんとあたしの心音だけが鳴っている。
「これに触れればいいの、エインヘル……?」
呟いて、彼女の石像の前に立った。
なぜか祈らなければいけない気がして、手を合わせて跪く。目を瞑ると、映像が脳裏に浮かび上がってきた。
これは、記憶だ。
王国にいた時も、確かこんなことをしていた。
教会。
そして、天使ハルモニア様の像。
それを前に跪き、祈る国民や王族たち。
その姿は、これと同じではなかったか? 劣化はしていたもののこれと瓜二つではなかっただろうか。
瞼を起こし、その柔和な微笑みを見上げる。
目が合うことはない。眼前にて祈るエインヘルは目を開けてはいないのだから。
ふわりと、脚の力を使って浮かぶ。ゆっくりと、柔らかく空気を踏み締めて。
「ようやく、ここまできたよ」
あたしの首元に揺れるペンダントと同型のペンダントへと手を伸ばし、指先がその翼へと触れる。
瞬間、ぴしっと頭の中で音がした。
弾かれたように身体がのけぞる。
視線の端で、エインヘルの像の目が開いた気がした。
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