バロッサがいなくなった後も、運動場はいやに静かだった。
「彼女もまた、被害者だったのでしょうか」
もう見えなくなったバロッサを追いかけるように視線を向け、カンパニュラが呟く。
まぁ、見様によってはバロッサもウィシャートの被害者かもしれない。
だが。
「だからといって、あいつが加害者でなくなることはない」
自分が苦しいから他人を苦しめても構わない。そんなルールはどこの世界にも存在しない。
あいつが他人を、四十二区を貶め、情報紙発行会内部で他の記者たちを苦しめていた事実は消えない。
どんな事情があろうとも。
それに、結果としてこうなったが、権力に守られ栄華の只中にいたバロッサは救いようがないほどに増長していた。
幅を利かせ他者を虐げていたのは紛れもなくあいつの落ち度だ。
その件に関して、酌量の余地はない。
ただ単に、悪党でも死を前にすれば気の毒に見える。
そういう事実がそこにあるだけだ。
「だからもし、カンパニュラがあいつを気の毒だと思うなら、あぁいうヤツが生まれない街づくりをしていけばいい」
誰かが権力を振りかざすと、そこに不平等が生まれる。
不平等は優越感と劣等感を生み、その格差から怨嗟が生まれる。
優越感は麻薬だ。
一度味わえば二度と止められなくなる。そのくせ、同じ刺激では満足できなくなる厄介なものだ。
そして、劣等感は病巣だ。
一度生まれるとどんどん心は蝕まれ、日を追うごとに症状は悪化していく。
一度囚われてしまえば、どんなに立場が逆転しても、この世のすべてを手に入れたとしても、完治することはない。
だから固執する。おのれの優位性に。
だから意地になる。おのれが正しいのだと知らしめるために。
だから見失う。本当に大切なものが何かってことを。
「権力を持ったら、そいつの使い方をよく考えるんだ。いいお手本と悪いお手本をよく見て、どう振る舞うのが最善かを常に考えるんだ」
随分と難しい要求をして、カンパニュラの頭を撫でる。
「ま、これからじっくり世界を見つめていけばいい。お前には、まだまだ時間があるからな」
「……はい。少しだけ、不安ですけれど……」
頭に乗った俺の手を両手で掴み、ぎゅっと握る。
「幸いにもよいお手本となってくださる方が、私の周りにはたくさんいてくださいますから」
俺をじっと見上げて、カンパニュラは笑う。
後味の悪い出来事に遭遇してしまったが、これもまたカンパニュラの糧になる。そう思えば、幾分マシな気持ちになれる。「救われる」とは言い難いが。
「カンパニュラの言ういいお手本ってのがどこにいるのか、皆目見当もつかないんだが……」
「うふふ。ぐるりと辺りを見渡せば、たくさん目に映ると思いますよ」
少なからず、この運動場の中にはいないんじゃないのか?
変態ばっかだぞ、ここ。
「エステラ姉様を思う皆様のお気持ちに、私は心を打たれました。エステラ姉様のように、領民に慕われる領主になりたいと思います」
「ですが、カンパニュラさん。……その代償は大きいのですよ」
と、胸を押さえつけるように撫で下ろすナタリア。
そうか。アレは好感度の代償だったのか……
「代償なんか払ってないよ!?」
「では、返してください、私からの好感度」
「君は、ボクのどこに好感を抱いているんだい!?」
「そんな卑猥なことを公衆の面前で言わせる気ですか!?」
「どこに好感を持ってるの!? いや、言わなくていい! むしろ口を閉じてて!」
お馴染みの主従漫才を見て、カンパニュラが肩を揺らす。
「エステラ姉様のために本気で怒ることが出来る皆様のことも、私は素敵だと思いました。そのような優しい心を、私も大切にしたいと思います」
「いや、あれは……別にそういうんじゃ……ね、ねぇ、ネフェリー?」
「う、うん。なんか、エステラがバカにされてるのを見ると、ちょっと頭に来ちゃうっていうか……あの人の言い方って、すごく嫌な感じだったから」
カンパニュラに言われて、感情を顕わにしていたパウラとネフェリーが照れたように手を振る。
「ノーマが一番怒ってたよね」
「そんなことないさね。アタシはただ、普通に道理の通らないことが嫌いなだけさね」
ノーマも照れて、煙管を吹かして誤魔化している。
「あと、デリアもね。ふふ、私、デリアがあんなに怒ってるの初めて見たかも」
「だって、あいつ、エステラのことバカにするんだぞ? エステラ、いいヤツなのにさぁ」
デリアはストレートだ。
好き嫌いがはっきりとしているあの性格は、たまに羨ましくなる。
「ヤシロも怒ってたよね?」
自分に矛先が向かないようにしたいのか、パウラが俺に話を振ってくる。
それに、ネフェリーも乗っかる。
「そうそう。結構怖い顔してたし、言葉であの人のこと追い詰めてたしさ」
「『別に、俺は困らない』だっけ? あれはちょっとゾクッとしちゃったよね」
「なんだ? パウラはMっ気があるのか?」
「な、ないわよっ、バカぁ!」
真っ赤な顔で否定するパウラだが、その場にいたオッサンの数名が心のメモ帳に書き込んだのを、俺は見逃さなかった。
「あいつがあまりにエステラを悪く言うもんだから、さすがにちょっとな」
「ヤシロ……」
むず痒そうな顔で俺が言うと、エステラが驚いたような、でもちょっと嬉しそうな表情を見せた。
神妙な顔のまま、俺は続ける。
「エステラはぺったんこだとか、横から見たら見失いやすいだとか、直角を測る時に役立つだとか言うからさぁ」
「言ってなかったよね!? そんなことは一言も!」
「えっ、エステラって直角測れるのか?」
「いや、デリア、普通に考えて!? 測れないから!」
「……またまた、ご謙遜を」
「ここぞとばかりに混ざってこないで、マグダ!」
「そんなエステラさんも、あたしたちは大好きですよ!」
「『そんなエステラさん』ってなにさ、ロレッタ!? 垂直も測れないし横から見ても見失わないよ!」
賑やかに、領民全員から弄られる領主。
「ふふ。これが、領民に愛される秘訣なのですね」
「ただ、真似をするのはかなり勇気がいるぞ」
「それでも、やはり私の理想は『微笑みの領主様』ですので、もっと近くで勉強させていただきたいです」
最も貴族らしくない領主。
そんな領主を目指す者がいても、いいじゃないかと思う。
「カンパニュラさんなら、きっとなれますよ。ご自分が思う通りの大人に」
ジネットが微笑み、静かに頷く。
そんなジネットを見て、カンパニュラがきょろきょろと辺りを見渡す。
そして、一歩、ジネットに近付き背伸びをする。
口元に手を添えて、こっそりと内緒話をするように囁く。
「本当を言うと、一番の憧れはジネット姉様なんです」
「えっ、わたしですか?」
突然の告白に、ジネットが驚いた顔を見せる。
まぁ、あれだけ懐いてりゃ納得だけどな。
「カンパニュラさんなら、わたしなんかよりもっと素敵な大人になれますよ」
「いいえ。私はジネット姉様のようになりたいんです」
言って、ジネットに抱きつくカンパニュラ。
領主としては『微笑みの領主』を、人としてはジネットを目指したいらしい。
「ジネット姉様がお持ちの『宝物』が、私が一番欲しいと望んでいるものですから」
そう言って、チラリと俺を見る。
ジネットが持っている『宝物』……で、俺を見るってことは……
「じゃあ、牛乳をたくさん飲むんだぞ。あと、ササミやキャベツもいいらしい。それからイソフラボンをたくさん摂取するといい」
「むぅ……っ」
おっぱいを大きくすると言われる食材を教えてやったら、カンパニュラが膨れてしまった。
ジネットが持つ最大のトレジャーって、それだろうに。
「「懺悔してください」」
なぜか二人がかりで懺悔を求められた。
似たような顔しちゃって、まぁ。
そう遠くない未来、ジネットみたいな大人になれるんじゃないか、カンパニュラなら。
胸元は……遺伝的にちょっと厳しいかもしれないけどな。
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