陽だまり亭に戻ると、とっびきりの笑顔が俺たちを出迎えてくれた。
「おかーぃなしゃい! えーゆーしゃ! てんちょーしゃ! りょーしゅしゃ!」
椅子からぱっと飛び降り、入り口を入ったばかりの俺たちに向かって駆けてくるテレサ。元気いっぱい床を蹴って、俺へと飛びついてくる。
ぅおい! 勢い!
慌てて受け止めると、短い手足に力を込めて、俺の体にしがみついてくる。
仔猿か!
あぁ、仔猿か。
「えーゆーしゃ! おぁけ! おぁけ、こぁかったねー!」
「おぁけ? ……あぁ、オバケか」
「うん! おぁけ!」
「オ・バ・ケだ。言ってみ、オバケ」
「おぁ……ぁ、ぁ、あ! あ……」
「『ん~』って言ってから『ば』って言ってみ?」
「ん~ば、んば、んば~……お、んばっ、け。おばけ!」
「おぉ、よし。言えたな」
「えへへ~!」
頭を撫でてやると、テレサは嬉しそうににへらぁ~っと笑う。
目がしっかりと俺を見ている。
ちゃんと見えるようになったんだな。
「テレサ。これ、何本だ?」
「まぁってぅ……まがっ、ってる、のが、ふたつ!」
「おぉ~、『曲がってる』も言えたな。ただな、こういう時は伸びてる方の指を数えるんだぞ」
「みっつ!」
「ほい、正解」
「えへへ~」
褒められるのが嬉しいのか、テレサが顔をぐりぐりと押しつけてくる。
なんだかすごくテンションが高い。
いいことでもあったのか?
「……おかえり、ヤシロ、店長」
「おぅ、ただいま」
「お留守番、ありがとうございます。変わりはありませんでしたか?」
「……問題ない」
「マグダ、ボクも戻ってきたよ~」
「………………いらっしゃい」
「そこは『おかえり』でいいじゃないか!」
マグダに対しては妙に寂しがり屋になるエステラ。
あれかな。仔猫が自分にだけ懐かないと寂しい、みたいな感覚かな?
「……ヤシロ」
「ん? どした、マグダ?」
「…………オバケ」
「いや、お前が言えるのは分かってるよ。お前、『撫で』へのハードル下げ過ぎだろう」
「……オールウェイズ、ウェルカム」
「あ、じゃあボクが代わりに撫でてあげるよ」
必死だ。
エステラ、耳もふしたさに必死さが隠しきれていない。
下心丸見えの男って、こんな風に見えてるのかな?
ぎこちなくも満面の笑みで敵意のなさをアピールするエステラの顔を、マグダの半眼がじっと見つめている。
「…………Dカップになってから言うべき」
「……ヤシロ」
「なんで俺に言うんだよ。俺が仕込んだわけじゃねぇよ」
マグダの発言はマグダの責任だ。
百歩譲っても、保護監督責任はジネットにあるだろうが。俺は無罪だ。
「それはそうと、マグダ。テレサが随分と楽しそうだが、何をしてたんだ?」
「……テレサが楽しそうなのは最初から。オバケコンペが楽しかったもよう」
「うん! たぉしかった、ね!」
「テレサは怖い話好きなのか?」
「おばけ、しゅちー!」
テレサはオバケが好きらしい。
目が見えない間、いろいろな妄想や想像をしていたからか。
はたまた、目が見えるようになっていろんなイラストが楽しめたからか。
もともとそういう素養を持っていたからかは分からんが、何かを好きになるのに明確な理由はないだろう。
まぁ、こうやってガキんちょが楽しんでくれているなら、ハロウィンは成功しそうだな。
なら、もう一押ししてオバケを『怖い』から『楽しい』ってイメージに変えておくか。
「エステラ。テレサのために『ぬりかべ』に扮してやれ」
「よく分からないけれど、断固拒否するよ」
「じゃあ、ジネット。お前が『大乳道』に!」
「懺悔してください」
ちぃっ!
イベントに後ろ向きな連中め!
「テレサちゃん、そろそろ続きをやるですよ」
「ぁ~い!」
俺にしがみついていたテレサが、ロレッタに呼ばれてぽ~んと飛び降りる。
ロレッタは、俺たちが戻ってくるまでテレサと二人で何かをやっていたらしい。テーブルに向かい合って座り、木の板に何かを書いていたようだ。
一体何をしているのかと覗き込んでみると、数式がいくつか書き込まれていた。
「今、テレサちゃんと計算の練習をしてるですよ」
「ほぉ、計算か」
木板には簡単な割り算が並んでいる。
『6÷2=3』
『8÷4=2』
『9÷3= 』
ロレッタが赤いインクのついたペンを握って、少し誇らしげにしている。
上二つの答えには大きく○が書き込まれている。
採点してやってるのか。へぇ~、ロレッタがねぇ。
「しかし、割り算とはまた……難しいことをやってるな」
「はいです。足し算や引き算とはレベルが違うです。別次元の難易度です。けど、やってやれないことはないです! 見てです! 二問連続で正解してるですよ! すごいです!」
やはり、教え子が優秀だと教える方も楽しいのだろう。
ロレッタが我がことのように大喜びしている。
「あの、ヤシロさん。これはどのように計算すればいいんですか?」
問題集を覗き込んで、ジネットが小首を傾げる。
日頃、ジネットは会計で金勘定をしているが、こうして数式を見ながら答えを出すような勉強はしていない。
「ジネットは出来るはずだぞ。9Rbを三人で割り勘すると、一人当たり何Rb支払えばいい?」
「3Rbですね」
「正解だ」
「あっ! ……すみません、テレサさん。わたしが答えちゃいました」
「いぃぉ~! てんちょーしゃ、せーかい! おりこーしゃん」
「うふふ。褒められました」
テレサに頭を撫でられて、ジネットが嬉しそうに笑みを漏らす。
「これは除法なんですね。お祖父さんに教わった時はこの記号ではなく、こういう記号で教わりました」
言いながら、ジネットは『9÷3』の下に『9/3』と書き込んだ。
「それで合ってるよ。考え方は一緒だ」
祖父さんには割り算ではなく除法と教わったらしい。
でも掛け算のことは乗法とは言ってなかったよな……まぁ、食堂の会計で割り算にはなかなか出会わないからな。加法、減法、乗法は周りの人間に合わせて足し算、引き算、掛け算と覚え直したのかもしれない。
教会では『たしざん』って教えてるしな。
「不思議ですね。同じ計算なのに別の書き方があるなんて」
「そんなもん、いくらでもあるぞ。たとえば……『0.5』と『1/2』は同じだろ?」
「えーゆーしゃ! それ、ぉなぃ、なの?」
ジネットに説明していると、テレサが俺の袖を引いた。
物凄く興味深そうな顔をしている。
教えてやってもいいのだが……
「テレサはまず、こっちをやろうな」
と、ロレッタ式問題集を指でとんとんと指す。
一気にあれもこれもを詰め込むのはよくない。簡単なところから覚えていけばいいのだ。
「わぁった!」
と、テレサはロレッタの前にあった問題集をくるっと自分の方へ向けて、新たに『15÷3=』と書き加えた。
それを、再びロレッタの方へと向ける。
「ぁい!」
「ちょっ!? いきなり二桁は酷いです! さっきだって『9』という大ボス感満載の数字に怯んでいたですのに!?」
「だじょーぅ! ロレねーしゃならできぅ!」
「むむむっ! テレサちゃんに期待されたらやらないわけにはいかないです! 時間が掛かろうと、あたしはこの難題を見事解き明かしてみせるです! 陽だまり亭の名にかけて!」
「――って!? お前が解いてるのかよ!?」
「はいです! あたし、計算苦手ですから!」
だからって、テレサに教わるかね!? こんな小さい娘に!
じゃあ、さっきのは我がことのように喜んでいたのではなく、我がことを喜んでいたんだな。
つか、教えられるテレサすげぇな!?
「いや、待てロレッタ。じゃあなんでお前が赤インクのついたペンを握ってんだ?」
「大ボスの『9』に苦戦していたので、これまでに打ち倒した『6』と『8』に○をつけて自分を鼓舞していたです!」
「しょーもないな、お前の自尊心!」
あと、別に『9』は大ボスじゃない。
まぁ、九九で9の段はラストダンジョン感あるけども。
これまで打ち倒したボスが次々襲ってくる的な。
「まったく、たいしたものだよ。テレサには驚かされっぱなしだね」
「そうですね。理解するのと、それを誰かに教えるのでは難しさが桁違いですのに、すごいですね」
エステラが感心したように言い、ジネットもそれに同意する。
最近、他人に料理を教える機会が増えているジネット。
教える難しさを感じることも多くなっているのだろう。
自分では出来るが他人には教えられないなんてヤツは多い。というか、ほとんどがそうだ。
教えるってのはそれだけ難しいのだ。
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