「やぁ、こんにちは」
「あ、エステラさん」
夕刻。
客席の椅子がガタついていたため修繕をしていたところへ、エステラさんがやって来ました。
木の粉だらけになった手を払い、出迎えます。
「こんにちは。お食事ですか?」
「うん。クズ野菜の炒め物と、今日は懐が温かいから黒パンももらおうかな」
「はい。今準備しますね」
厨房へ向かおうとしたわたしを、エステラさんは「あ、ちょっと待って」と呼び止めました。
「実はね、海漁ギルドの知り合いと一緒に海で魚を獲ってきたんだ。だから、これ。お裾分け」
「わぁ! 海魚ですか!?」
エステラさんが持ってこられた箱の中には、一匹の魚が海水に浸かっていました。
魚と一緒に、海漁ギルドの方が用意したのだという海水の氷が浮かんでいます。
指を浸けると、ひんやり冷たくてびっくりしました。
「すごいですね、氷」
「船の中に大きな氷室があってね。そこで流氷を保管してるんだって。なくなってもいくらでも取れるっていうから、すごいよね」
広い海には、常に氷が取れるくらいに寒い場所があるのだとか。
すごいです。ちょっと想像できません。
「ジネットちゃんは、海を見たことはないんだっけ?」
「はい。ここからは遠いんですか?」
「えっと……まぁ、街門を出れば割とすぐだよ」
「そうなんですか? いつか見てみたいですね、海」
「そうだね。その時は、ボクも一緒させてもらってもいいかな?」
「もちろんです。エステラさんと一緒なら、どこに行っても楽しいでしょうね」
「へへへ~、ありがとう。ボクもジネットちゃんと一緒だと楽しいよ」
にっこりと、素敵な笑顔を向けてくれるエステラさん。
本当に、わたしにはもったいないくらいに素敵なお友達です。
いつもいただいてばかりで申し訳ないです。
……そうだ。今日の野菜炒めは、少し量を多くしましょう。
それに、クズ野菜ではなくてちゃんとしたお野菜もたくさん使いましょう。
どうせ、置いておいてもダメにしてしまうだけですから。
「すぐに作ってきますので、待っていてくださいね」
「うん。じゃあ、さっきまで修理していた椅子を使わせてもらおうかな」
「ちゃんと直ってるといいんですけれど……」
わたしは、どうにも日曜大工が苦手でいけませんね。
お祖父さんは、どんなものでも上手に直してしまうので、幼かったわたしは日曜大工を簡単なものなのだと勘違いしていたんです。
まさか、こんなに難しいものだったなんて。
もぅ、お祖父さん。先に教えておいてくれれば、ちゃんと教わったのに……
そんな不満を心で思って、でもやっぱり自分の怠慢ですので深く反省します。
今から練習して、お祖父さんと同じ年齢になる頃には上手に出来るようになっていようと思います。
「綺麗な海魚ですね。……鯵、でしょうか?」
四十二区には、あまり海魚が出回りません。
わたしは、お祖父さんのおかげで比較的よく見ていましたし、お祖父さんがいた頃はそれなりの頻度でいただいていました。
お祖父さんが、「今夜はご馳走だぞ」と嬉しそうに調理してくれた海魚は本当に美味しくて、わたしは夢中で食べていました。
お祖父さんは川魚の方が好きだと言っていたけれど、わたしは海魚が好きです。
特に鯵は美味しいです。
これ以上に美味しい海魚なんて存在するのでしょうか?
以前エステラさんが、「海は想像を超えるくらいに広くて大きい」とおっしゃっていました。
それだけ大きいのなら、いるのかもしれませんね、鯵よりも美味しい海魚が。
「見てみたいですね、海」
入門税が用意できないわたしには、無理な話ですけれど。
一瞬、折角の海魚ですのでエステラさんと一緒にいただいてしまおうかと思ったのですが……やはり、これは取っておきましょう。
もしかしたら、このあと海魚を食べたいというお客さんが来られるかもしれません。
海魚が置いていると知れば、陽だまり亭を気に入ってくださって、明日からも通ってくださるかもしれません。
もっとも、海魚がお出しできるのはこれ一度きりですので期待をされてもお応えは出来ないのですけれど。
でも、取っておきましょう。
血抜きも下処理もきちんとされているようですから、二~三日は持つでしょう。
エステラさんには少し申し訳ないですが、その分美味しい野菜炒めを作ります。
手を洗い、丹精込めて野菜炒めを作りました。
わたしがフライパンを振るう調理場の片隅には、日が経ち過ぎて徐々に悪くなり始めている野菜が山となって積み上げられていました。
日が落ちて、今日修繕した椅子に腰かけてみました。
「……ガタガタします」
おかしいです。
足の長さを揃えて切ったはずなんですが……
「けど、前よりかはマシですよね」
エステラさんも、以前より安定するようになったと言ってくださいましたし。
うん。前進だと思いましょう。
また明日、違う椅子の修繕に挑戦してみましょう。
「…………もう、閉店ですかね」
店内には誰もいません。
ランタンを使おうかとも思ったのですが、お客さんもいませんし、今日は節約してロウソクにしてしまいました。
お祖父さんが作り溜めておいてくれた自家製のロウソクです。ランタンオイルと違い日持ちがするからと、お祖父さんがたくさん作っておいてくれたものです。
ランタンよりは薄暗くなりますけれど、まぁ、大丈夫でしょう。
「……お客さん、いませんしね」
ぎゅっと拳を握って、沈みかけた気持ちに待ったをかけます。
踏ん張って顔を上げます。
ダメです。
俯いたら、明日を見失ってしまいます。
どうなるか分からない未来だからこそ、目を離すわけにはいかないのです。
つらい時こそ前を向けと、シスターが教えてくださいました。
今が、きっとその時です。
「お野菜の下処理をしておきましょう。ついでに、明日の寄付の下準備も」
誰もいないフロアで呟いても、返事はありません。
もう、慣れっこです。
慣れましたよ。
……慣れちゃいましたよ、お祖父さん。
「……ダメですね」
口元が引き攣っています。
こんな歪な笑顔じゃ、お客さんに不快に思われるかもしれません。
ちゃんと、笑わなきゃ。
「よし! お料理をしましょう」
厨房に入って山と積み上げられた野菜と向かい合います。
これは安価なクズ野菜ではなく、適正価格の普通のお野菜です。
けれど、ところどころ傷んでしまって、これからクズ野菜になります。
でも、傷んだところを除去すればまだまだ美味しく食べられます。
「……とはいえ、量が多いですね」
これだけの量を使い切るのは大変です。
でも、使わなければこの野菜はみんなダメになってしまいます。
「明日の寄付はお野菜たっぷりのスープにしましょう」
子供たちは喜んでくれるでしょうか?
お野菜がいっぱいで「すごーい!」って、いっぱい食べられて「嬉しいー!」って、色とりどりの野菜を見て「きれー!」って言ってくれるでしょうか?
「……早く、みんなの顔が見たいです」
風が吹く度に、建て付けの悪い扉がぎしぎしと軋みを上げます。
がたがたと窓の木枠が音を立てます。
一人きりなのに、夜の陽だまり亭は随分と騒がしいです。
「どなたか……お手伝いをしてくださる方はいないでしょうか」
わたしは、料理は好きなのですが、どうにも経営というものには向いていないようなのです。
本当は、やってみたいことがたくさんあるんです。
テーブルや椅子を作り変えて、お客さんがくつろいでくれる空間にしたいとか、もっとたくさんのメニューを増やしたいとか、給仕係さんを雇ってみんなで楽しくわいわいとお仕事がしたいとか……
でも、わたしのやり方ではお金が減る一方で……
「お祖父さんの貯金も、随分減ってしまいましたね」
わたしに苦労を掛けないようにと、決して裕福ではなかった生活の中で切り詰めてたくさんの蓄えを残してくれたお祖父さん。
わたしは今、その貯えを切り崩して陽だまり亭を続けています。
収入はありません。
常に赤字で、お祖父さんの蓄えは毎月擦り減っていっています。
ニンジンを刻む手を止めて、帳簿や大切な書類が仕舞われている壁の戸棚に目を向けます。
引き出しを二段分取り外すと、その奥に小さな隠し扉があり、中には一つの布袋が入っています。
『お前がいつか嫁に行く時には、これを使いなさい』
お祖父さんがそう言ってずっと貯めていてくれた、わたしの結婚資金。
ふふ……わたし、アルヴィスタンですのに。結婚だなんて……
「いざとなれば、これを使わせてもらっても構いませんか? お祖父さん」
まぶたを閉じれば、優しく微笑んでくれるお祖父さんの姿が鮮明によみがえります。
いつも優しく、わたしを包み込んでくれた笑顔が、今もわたしを見てくれています。
「わたし、結婚なんてしないでずっと陽だまり亭にいます。だから、……ね? いいですよね、お祖父さん?」
いくばくかの銀貨が入った布袋を胸に抱き、お祖父さんに感謝と申し訳ない気持ちでお願いします。
陽だまり亭が、わたしのすべてなんです。
もう少しだけ、わがままを貫かせてください。
一人でどこまで出来るか分かりませんけれど……
誰かを雇うようなお金もありませんし……
もう少しだけ、この場所をわたしに任せてくださいね、お祖父さん。
布袋を握っていると、自然と涙が零れていきました。
……はっ!?
いけません。
いくら閉店したと言っても、厨房にいるうちはプロでいなくては。
涙を拭って、頬を叩き、気合いを入れました。
布袋を大切に隠し扉に仕舞い、引き出しを元通りにして、野菜の仕込みに戻ります。
野菜を切りながら、わたしは笑顔の練習をしました。
お客さんが来た時に、ちゃんと上手に笑えるように。
つらさが顔に出ないように。
「わぁ、可愛いなぁ」と、思ってもらえるように。
……うふふ。
そんなこと、誰にも言ってもらったことなんてないんですけどね。
言ってくれたのは、お祖父さんとシスターと寮母さんくらいです。身内に甘い人ばかりですからね、わたしの身内は。
その時、ドアが軋んだ気がしました。
そういえば、お店をちゃんと閉めたでしょうか?
まぁ、気にしなくても寝る前に戸締まりの確認をすれば大丈夫ですよね。
もうこんな時間ですし。
それよりも、少しだけつらい気持ちで下ごしらえをしてしまった分、ここからは楽しい気持ちで下ごしらえをしましょう。
お料理が悲しい味にならないように。
あぁ、そういえば、あの鯵は美味しそうですねぇ。
もういっそのこと一人で食べちゃいましょうか。
「『こりゃ、ジネット。お客様より店員が食いしん坊でどうする!』……うふふ。ごめんなさい、お祖父さん。……うふふ」
そんな一人遊びをしていた時でした。
「誰かいないのか?」
フロアから男の人の声がしました。
お客さんです!
わたしは慌ててフロアへ出て、その人にお会いしたんです。
わたしと、陽だまり亭を大きく変えてくれる、運命の人に。
出会ってすぐに、自信をなくしかけていたわたしに自信を与えてくれる一言を言ってくれた、その男性に。
「パイオツ・カイデー!」
わたし、その言葉だけは、きっと一生忘れません。
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