ニセモノの傷を触らせてやり、「え、これ本当に偽物なのかい?」みたいな心配をされつつも、なんとか落ち着かせることに成功した。
多少は若いといってもジジイ5のメンバー。
心臓への負荷が大きくなるとぽっくり逝きかねないから気を付けないとな。
「なるほどね。情報紙の偏向を知らしめるために、か。よくいろいろと思いついて、それをあっさり実行するね、ヤシロ君は」
「思いついても実行できないことがほとんどだよ、私なんて」と、オルキオは力なく笑う。
きっと過去に実家の改革をあれこれ考えて、それでもそれらを実行できずにいたのだろう。
その結果が、シラハを傷付けることになった一族の暴走、か。
「とにかく、こいつはニセモノだから、心配すんな」
そう言って、早々に『傷跡』を覆い隠す。
もう特殊メイクをする必要はないのだが、「ほら、いきなり傷がなくなると『なんだよ、嘘かよ!』って心証が悪くなるから、徐々に小さくして『驚異的な回復力!?』って思わせる方向でいくんだよ」と周りの連中には説明して、現在も俺の腕に『傷跡』を貼りつけている。
本物の傷がなかなか完治しないせいで、こいつを外せないのだ。
この『傷跡』の裏には清潔なガーゼが貼りつけてあり、俺は毎朝こっそりと自分で傷の治療をしている。
治るのは時間の問題だ。もう痛くもない。
ゴロッツの安い刃こぼれしたナイフに雑菌がついてなかったのはラッキーだった。
破傷風とか、冗談じゃないしな。
これはただの演出。
そう言って聞かせたというのに、シラハの目は鋭くジネットの繕った袖を見つめたままだ。
「その傷は偽物でも、その袖を切り裂いたのはナイフよね? なら、本当に傷を負ったんじゃない、ヤシロちゃん」
鋭い。
こいつも、知人が傷付けられることに怒りを覚えるタイプなのかもしれない。
そういうヤツは、誰かが隠している傷や痛みを敏感に察知したりするものだからな。
「まぁ、ちょこっとな」
「そう、ちょこっと……ね」
カップの中に重いため息が注がれる。
コーヒーカップを両手で包み込んだまま、シラハは俯き、ぎゅっと唇を引き結んだ。
「私ね、今、すごく幸せなの」
たっぷりと間を取った後で、シラハが呟く。
声音は明るいが、顏は俯いたままだ。
「ヤシロちゃんとジネットちゃんがね、わざわざ三十五区まで来てくれて、虫人族のためにすごく頑張ってくれて、街は大きく変わったわ。もちろん、いい方によ。私のことも、初めて会った見ず知らずのオバサンなのに、とても親切にしてくれて……そう、初めて会った時からヤシロちゃんもジネットちゃんもとっても優しくて、あぁ、いい子たちだなぁって、私、ずっとそう思っていたのよ」
明るい声音が、微かに震え始める。
「オルキオしゃんとも、一緒に暮らせるようになって、閉鎖的だったアゲハチョウ人族のみんなも、それぞれにやりたい仕事を見つけて、自分のために生きられるようになって、他の虫人族だってそれは一緒でね……それは、一組の恋人たちの結婚っていう小さなきっかけだったかもしれない。けど、ヤシロちゃんはその小さな幸せを全力で守ってくれた。私、まるで自分のことのようにそれが嬉しかったのよ」
ぽとりと、コーヒーの中に雫が落ちる。
オルキオが、俯くシラハの髪を撫でようと腕を伸ばす。
だが、その指先が髪に触れる前に、シラハがぽつりと言葉を漏らす。
「やっぱり、許せないわ……私」
持ち上げられたシラハの表情は、らしくないほど険しく、その瞳は怒りに燃えていた。
「こんなことをさせた人を、私は許さない」
穏やかで、周りから押しつけられる凝り固まった善意を否定せず、自身を傷付けてでも周りの者たちの気持ちを優先して守り続けていたシラハ。
菩薩かというような寛容さを持ち合わせたシラハが、怒りを滲ませている。
それも、実行犯ではなく、その裏にいる黒幕に対して。
「やり口がまったく変わっていないのね、彼らは……」
そんな言葉に、俺は思い至らなかったある事実に勘付いた。
……え。そうなのか?
いや、しかし、ヤツならあり得るか……
そうだ。
ルシアが言っていたじゃないか。
ウィシャート家の娘がオルキオの家に行儀見習いとして滞在していたと。
行儀見習いってのは建前で、その実、その娘とオルキオを結婚させて、オルキオの実家と太い繋がりを持ちたがっていたのだと。
だが、オルキオはシラハと結婚した。
オルキオだって貴族だったんだ。ウィシャート家の腹積もりくらい理解していただろうし、おそらく実家の連中にもそれとなく、もしくは直接的に言い含められていたはずだ。
なにせ、他区とはいえ領主と縁を繋ぐチャンスなのだから、相当プレッシャーを与えられていたに違いない。
それでも、オルキオはシラハを選んだ。
実家の反対を押し切り、実家を飛び出して。
それは、ウィシャート家の思惑を潰すものでもあった。
そして、今回の騒動からも分かるように、デイグレア・ウィシャートに限らず、ウィシャート家の連中は――
自分の思惑を潰されることを、決して許さない。
「まさか、オルキオの家を放火したのは――」
「いや、それは違うよ、ヤシロ君。あの愚かな行為を実行したのは間違いなくウチの一族の者だよ」
あくまで身内の恥として、事実を事実のままに語るオルキオ。
だが、そのオルキオの隣には、物言いたげな不満顔のシラハがいる。
事実は事実なのだろう。
オルキオの言う通り、実行犯はオルキオの身内なのだろう。
だが。
「そいつを唆したヤツがいる――だろ?」
「…………」
その問いには、オルキオは無言を貫いた。
身内の恥を他者のせいにしたくないというのは、オルキオの優しさからなのか、元貴族としての矜持なのかは分からない。
だが、隣でそれを見ていたシラハは明らかに違う感情を抱いている。
オルキオは被害者であり、加害者の身内だ。
お家騒動は、貴族ならどこの家庭でも多かれ少なかれ起こっていることだ。
だが、それが外部からの干渉によって引き起こされたとすれば話は別だ。
シラハは、ずっと我慢していたのかもしれない。
けしかけた黒幕が、今ものうのうと暮らしていることに。
自身に消えない傷を負わせ、最愛の人を追い詰め、二人を引き裂いた諸悪の根源を、憎んでいるのかもしれない。
耐える女。
そんな慎ましい女性が内に秘めた激情は、きっと思い通りに行動を起こして生きている者とは比較にならないくらいに大きい。
「ごめんなさい、オルキオしゃん。私、ダメな妻です……」
オルキオに向かい、深く頭を下げる。
その後で、持ち上げられた沈痛な面持ちが俺へと向けられる。
「ヤシロちゃん。我が家に火を放ったのはオルキオしゃんの叔父様。本家の跡取り息子が亡くなれば、分家である自分の息子が次代の党首になれると――そうなるように力を貸してやると唆された哀れな男よ」
一族の恥を、こうして他者にしゃべられるのは相当な屈辱だろう。
本来なら、妻を殴ってでもやめさせるところだ。貴族という、面子を何より大切にする者たちなら。
だが、オルキオは優しい手つきでシラハの髪を撫でた。
「まったく、愚かだよね。口車に乗せられて、一族すべてを巻き込んで、お家取り潰しの憂き目に遭うんだから……まったく、愚かだよ」
「こんなことを言わせてしまって悪かったね」と、囁くような声でシラハに謝罪するオルキオ。シラハは小さく首を振り、涙をこらえるように俯いた。
「ヤシロ君。ウィシャートは鼻がいいんだ。自分と近い『ニオイ』を嗅ぎ分ける能力に長けていると言ってもいい――」
それは、俺が悪人を嗅ぎ分ける能力と似ている。
悪人は、悪人にお似合いなドブ臭ぇニオイがぷんぷんしてやがるからな。
「彼らが味方に置いている者は、みな似た者同士なんだよ。同じ穴の狢とでもいうのかな、妙に強固な繋がりを持つ者が多くてね……裏切り者が出にくい、いや、裏切れば即消されるという方が正確かもしれない……とにかく、内部に潜り込むのが非常に困難なんだ」
相手の喉元に届く刃。
死なばもろともの連中のやり口は、同族を引き付け、ビジネス以上の繋がりを生み出している。
一族以外でも、ウィシャートに近しい者は忠誠心以上の強固な絆で結ばれているということか。
「そうして、彼らの手口に『まんまと乗せられる』人物を見つけ出すのがうまい」
そうして目を付けられた者が、ウィシャート家のためにせっせと働く駒になるのだろう。
オルキオの家を燃やした者のように。
「安全だった場所が、ある日突然危険になることがある。誰よりも信頼してきた者が、実は自分を監視するために派遣されたヤツらの手駒という可能性も――私はね、四十二区に流れ着くまで、本当に心が休まる日はなかったんだよ」
ウィシャート家を取り巻く手駒たちの強固な絆を知っているということは、オルキオも過去にウィシャート家に探りを入れようとしていたのだろう。
そして、信頼できると思っていた者に裏切られたのかもしれない。
三十五区でシラハとの離縁を余儀なくされ、ウィシャート家に探りを入れ、返り討ちに遭い、逃れ逃れて四十二区へ。
オルキオは、どんな人生を送ってきたのだろう。
「だからね、私はこれまで一度も彼女には会いに行かなかった」
彼女というのは、今俺たちが情報を欲している例の彼女のことだろう。
「ルピナス・ウィシャート。それが、行儀見習いとして私が面倒を見ていた女性の名だよ」
ウィシャート家に通じる女。
オルキオから、彼女の情報がもたらされる。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!