「じゃあ、そろそろ始めるか」
会場にいる人間を見渡してデリアが言う。
時間ピッタリ。予定通りに体操教室が始まる。
受講生が、各々ぶつからないように広がっていく。
そんな中、ジネットが「あの、ヤシロさん」と俺の袖を引っ張ってきた。
「バルバラさんがまだいらっしゃっていないようなんですが?」
「みたいだな」
時間厳守と言ったのに、あのサル女……
「おっ! まだ始まってないな、ラッキー!」
そんな話をしていると、バルバラがドアを開けて会場へと入ってきた。
この会場はニュータウンの一角に作られた、ちょっと広めの多目的会館なので、トウモロコシ畑からはさほど遠くないはずなのだが……
「遅いぞ、バルバラ。何をしてた?」
「なんだよ、英雄。怖い顔をして。とーちゃんの仕事を手伝ってたんだよ」
「ヤップロックに伝えなかったのか、今日の予定を」
「言ったぞ。早めに上がってもいいって言ってくれてたけど、アーシ、とーちゃんの役に立ちたいからさぁ」
それ自体は悪いことではない。
だが……
「約束の時間に遅れるのは最低の行為だ」
「はぁ!? なんでだよ! アーシ、仕事してたんだぞ!」
こいつは……
綺麗になりたいとか言ってテンション上げてたくせに、やっぱきちんと理解できてなかったか。
ちょっとお灸をすえてやらなきゃな。
「ここにいる多くの者が仕事をしているんだ。みんな都合をつけてここに集まっている。時間厳守でな」
「けど、アーシは…………んん~んっ! もういいだろう、うっせぇなぁ」
俺を無視して受講生の中に混ざろうとしたバルバラ。
謝りもしないのか……
「ヤップロックは酷いヤツだな」
「なっ!?」
バッと振り返り、俺の胸倉を掴むバルバラ。
「とーちゃんの悪口言うな!」
目が真剣な怒りに燃えている。
けど、知ったこっちゃない。
「お前に予定があるのを知っていたのに、仕事を押しつけたんだろ? 酷いじゃねぇか」
「違う! アーシが手伝うって言ったんだ! とーちゃんはもう行けって言ってた!」
そうだとしても、お前の行動によっては他人にそういう風に見られるんだよ。
お前が無茶苦茶する度に「しつけも出来ないのか」って評価を下げるのは保護者枠に収まっているヤップロックたちなんだってこと、こいつは本気で理解できてないのだろう。
「ホントのとこは、ど~だか分かんないけどなぁ?」
「ホントだっつってんだろ! しつこいなぁ!」
俺がしつこいんじゃない、お前が浅慮なんだ。
多くの者はここまではっきり言葉になんかしてくれない。みんな勝手に「あぁ、そういうことなんだ」と解釈して、お前に言い訳をする機会なんかくれない。
だから、そう思われないために言動を改めるべきなんだが……こいつにはまだ難しいだろうから、分かりやすく、分からせてやる。
「じゃあ、お前が、自分で、勝手に手伝ったんだな?」
「そーだよ! 分かったらとーちゃんのこと悪く言うな!」
「つまり、お前にとってパーシーなんかどうでもいい存在だってことか」
「はぁ!? そんなわけないだろう!? アーシは生まれて初めて本気で好…………ぅゎあああ! なんでもない! けど、どーでもいいわけないだろう!」
いっちょ前に照れたりしてるけどさぁ。
「けど、そのパーシーのために綺麗になるんだって言って、無理言って参加させてもらった体操教室なんか後回しでいいと思ったんだろ?」
ここで、バルバラが言葉に詰まった。
何かを言われれば脊髄反射で反論していたようなバルバラが、初めてヤバいことをしたかもしれないと思ったようだ。
「後回しってわけじゃ……仕事で……」
「やらなくていいって言われた仕事だよな? やらなくてもいいことを優先させて、自分から頼んでわざわざ参加させてくれたデリアを待たせたんだよな?」
「でもっ、間に合ったし……!」
「時間は過ぎていた。そのせいで体操がまだ始まっていない」
「それは、英雄がごちゃごちゃ言うからだろ!? もういいからさっさと始めようぜ!」
と、バルバラが言った直後、バルバラの後頭部に拳骨が落ちた。
「どぅっ!?」と、バルバラの鼻から息が漏れ、涙目になったバルバラが振り返る。
そこには、腕を組んだデリアが恐ろしい形相で立っていた。
「ここは、お前のための場所じゃない。始める時間はあたいが決めるんだ」
体操教室はデリアに任された場所だ。
責任者であるデリアを無視して、バルバラが「始めようぜ」なんて言っていい場所ではない。
「この教室はヤシロに頼まれたことだけど、あたいは仕事のつもりで真剣に取り組んでるんだぞ。遊びでやってると思ってたのか?」
「い、いや、そんなことは……全然」
「じゃあ、ヤップロックの仕事を邪魔するヤツがいたら、お前はどうする?」
「ぶっ飛ばします!」
「なら、あたいの仕事の邪魔してるお前を、あたいはぶっ飛ばしてもいいんだな?」
「えっ……?」
デリアに睨まれて、バルバラが顔色を青くする。
……うん。さっき一発ぶっ飛ばしてたような気がするんだが……あ、デリアのぶっ飛ばすって、本気で人が飛んでいく威力のことを指すのかな? きっとそうなんだろうな。
「時間厳守は社会人の鉄則だ。一分でも一秒でも、遅刻はするな。お前が川漁ギルドの新人だったらクビにしてる」
「そ、そんな大事なんですか……だって、ほんのちょっとだし……」
「『ほんのちょっとなら遅れてもいい』って、なんでお前が決めてるんだ?」
「……ぁうっ」
ここの責任者はデリアだ。
遅れてもいいかどうか、それはデリアが決める。ただの参加者が勝手に決めていいことではない。
「でも、まだ体操始まってなかったし……」
「納得できないなら出て行け。あたいの言うことを聞けないヤツに教えることは何もない」
きっぱりと言われて、バルバラの喉が変な音を立てた。
反論の言葉が出てこなかったのだろう。
「あたいはここの責任者だ。責任者は、この場所の秩序を守る義務があるんだ」
一人のわがままを放置すれば、その場所の秩序はあっという間に崩壊する。
「場を乱す者を排除するのも責任者の務めだ」
乱暴な物言いではあるが、デリアの意見は正しい。
ルールに従えない面倒なヤツの対応をするのも、除外された面倒なヤツに外であれこれ吹聴されるのも確かに厄介で面倒な問題ではあるが、だからと言って放置は出来ない。無法者のせいでルールを守っている他の者が不愉快な思いをすることが一番の問題だからだ。
きついことを言って矢面に立つのも、クレーマーに粘着されるのも本当に辟易するものだが、何も言わずに去っていってしまう者たちが出てしまうことの方が致命的だ。
そうだな。それはこの場にいる講師予定の連中にも教えておかなければいけないだろう。
「デリアの対応は正しい」
まぁ、少々攻撃的過ぎる点はトラブルの元になりかねないから、もう少し気を付けてほしいところではあるが、俺は支持したいと思う。
「これから先、何人もの受講生を相手にするようになると思うが、中には『金を払ってるんだから』とか『わざわざ来てやってるんだから』と自分を優遇しないことに不平不満を漏らす者が必ず出てくる」
そんな時に押し切られるなと、俺はその場にいる者に伝える。
「お客様は神様じゃない。王様でもないしご主人様でもない。極論を言えば『二度と来るな』と叩き出してもいい相手だ」
もちろん極論であり、講師側が横柄にしていいという意味ではないことをしっかりと伝えておく。
「俺の指導が気に入らないなら来なくていい」なんて横柄な態度を取っていることが発覚すれば即刻免許停止の上悪評を広げたということで違約金をむしり取る必要があるだろう。
「まぁ、結局のところ『適度に』って話になるんだが、客相手には何がなんでも絶対に我慢しなければいけない――なんてことはない。それだけは忘れるな。強硬な行動も手段の一つだ。その手段を取る前に一言相談してくれると助かるけどな」
これから講師になろうという女性たちは、騒動に戸惑ったような緊張した表情をしていたが、俺の話を聞いてほんの少しだけ強張っていた表情を緩めた。
「よかったです。……実はちょっと不安があって」
「実は、私も……職場の上司みたいな人が来ちゃったらどう対応しようって……」
パワハラやセクハラが当たり前な職場に在籍している女性は、その悪環境の中で否定や抗議をするための気持ちがすり減ってしまっているように見えた。
「自分さえ我慢すれば……」それが当たり前になってしまっていては、新しい事業なんて成功しない。
「言うべき時ははっきり言わなければいけないし、その前に分かりやすい警告を与えるのは必要だぞ」
こういうことをするとアウトですよ~というのを示しておく必要がある。
煙草を吸っていていきなり注意されれば不機嫌にもなるだろうが、その場所にあらかじめ『喫煙禁止』という表示がされていれば文句も言えないだろう。
「美容関連は効果に個人差がある。それを理解しない者からの抗議やわがままは多いだろう。対応に困ったら連絡をくれ。俺が『平和的に黙らせる』方法を教えてやるから」
俺の印象がどのように四十一区に広がっているのかは考えたくもないが、俺の提案に対して「あはは……」的な苦笑が漏れていた。
どうにも『平和的に』が信用されていないっぽい。……血は見ないんだから平和だろうに。
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