「ありがとうございます。もう、平気です」
しばらく、俺に身を預けていたジネットが俺の胸を押して体を離す。
「あっ、すみません。濡れちゃいましたね」
俺の肩口が髪に触れて濡れていた。
「いいよ、これくらい」
「いえ、でも……あの、乾かさないと」
無駄なのは承知の上なのだろうが、濡れた服をジネットがぽんぽんと手で叩く。
俯いて、濡れた服をじっと見つめて。
……耳が真っ赤なんだが。
乾かそうとしてるんですよ~ってフリして、恥ずかしいから必死に顔を逸らせてるって丸分かりでこっちが恥ずかしいんですけど!
「あ~……、落ち着いたなら、もう寝てくるか?」
「いえ、お手伝いします」
「今しなくても、お前は朝一番で起きて仕込みをするんだろ?」
「それはそうですけど……」
顔を俯けたまま、視線だけが俺をちらりと見上げてくる。
「ヤシロさんと一緒にお料理できる、貴重な機会ですし……」
料理くらいいつでもしてやるってのに……
「じゃあ、包むのを手伝ってくれるか?」
「はい」
五十人前程度の餃子のタネがあるが、ジネットがいれば何十分もかからないだろう。
「少し待ってくださいね。雫が垂れないように髪をまとめます」
濡れた髪を後頭部に集めて、紐で縛ろうとするジネット。
「待て待て。濡れた髪を縛ると傷むぞ」
キューティクルは濡れると弱くなる。
髪が傷付いたり、切れたりしてしまう。
濡れた髪をまとめるなら、ケープのように肩にかけているタオルを使えばいい。
「ちょっといいか? 髪、触るぞ」
「は、はい……あの、改めて言われると、恥ずかしい、の、ですけども……」
「……ん。以後気を付ける」
「……はい」
さっきまでぽんぽんされてたのも恥ずかしかったとぶっちゃけられたのかな、これは?
悪かったな、考えなしで。
……以後気を付けるよ。
ジネットの長い髪をタオルでくるんでまとめ、持ち上げてバスタオルを頭に巻き付ける。
女子が風呂上がりによくやるヤツだ。
「あ、これ。ネフェリーさんがお風呂上がりにやっているヤツですね」
「……なんでネフェリーが?」
あいつ、髪ないじゃん。
え、もしかして、俺がトサカだって認識してるアレ、髪なの?
「ノーマさんもされていたんですが、わたしは上手に出来ませんで」
「巻き方さえ覚えれば簡単だぞ」
「そうなんですか? オシャレな人しか出来ないのかと思っていました」
「んなこたねぇーよ」
ヘアアレンジでもあるまいし。
「では、あとでエステラさんに見せてきますね。……あ、もう眠ってしまわれたでしょうか?」
「いや、ルシアに絡まれてると思うぞ」
「ほどほどにして休んでいただきたいですね。お疲れでしょうから」
お前が戻ってくるのを待ってるんだろうよ。
まぁ、待つのはあいつらの勝手だから好きにさせればいいだろう。
「あの、似合いますか? 変じゃないですか?」
初めてのタオル巻きが嬉しいのか、ジネットがくるりと背を向けて俺に意見を求める。
背を向けても、振り返っても、どうしてもうなじに視線が行ってしまう……
「人前に出ていく格好じゃないから、似合っているというのかどうかは微妙だが、変ではないぞ」
「ならよかったです」
「で、まぁ、一つ注意点というか……忠告なんだが」
「はい。なんでしょう?」
まーったく無自覚で無防備な顔に少しめまいがする。
お前には、自覚というものが足りない。
「首回りが、すごく……その、露出してるから、あんまり他人に見せるようなもんじゃない……ってのは、一応覚えておいた方がいい」
「え…………あっ」
自身の首に触れ、ジネットが頬を染める。
「そう、ですね……すみません」
「いや、普段でも、髪をアップにしているヤツは多いから、それがそのままイケナイというわけではないんだ。ただ、まぁ…………気を付けろ」
「……はい」
なんだろう、この空気!?
いや、俺がやったことなんだけど!
でも、濡れた髪に小麦粉を付けるのも、餃子に髪から雫が落ちるのもダメじゃん!?
仕方ないじゃん!?
「あぁ、やっぱ、準備は俺が一人で――」
「いえ、お手伝いします。これくらいなら、きっとすぐ終わるでしょうから」
……うん。
マジですぐに終わらせそうだよな、ジネットなら。
冷凍餃子メーカーが欲しがるくらい手際がよさそうだし。
「それじゃ、始めるか。俺もこのあと風呂に入るし」
「あ、そうですね。では、頑張りましょう」
言って、二人で手を洗い、餃子の下拵えを始める。
俺が生地を丸く薄く伸ばし、ジネットが次々に包み込んでいく。
「速ぇなぁ、相変わらず」
「ヤシロさんみたいに綺麗には出来ませんけれど」
「いや、メッチャ綺麗だろ」
「ヤシロさんのは、ここの丸みが綺麗なんです。なかなかマネ出来ません」
「俺、そんなとこの丸みとか意識したことないんだけど?」
「では、無自覚ですごいことをしているんですね。職人の域ですね」
いや、俺は餃子職人になったことはないんだが。
なんというか、元祖とか始祖ってのに対する盲目的な好感を抱いているように感じる。
俺のやり方が一番正しくて至高だ、みたいな?
はっきり言ってジネットの方がうまいからな?
「よし、俺も包もう」
「もう生地を伸ばし終わったんですか? 速いです」
「これは慣れだからな」
「わたしも、生地の伸ばしを練習しなくては」
「いや、もう十分だろうに……」
お前はもう達人の域に達してるっつーの。
「うりゃ、うりゃっと」
「やっぱり上手ですね」
「そーでもねぇよ」
「いえ。あ、ほら、ここです。ここが、火が通るとパリッとして得も言われない食感になるんです」
「え……そんなとこまで見据えて餃子包んでんの、お前?」
正直、食感とかまで考えてなかったわ。
やべぇな。
完全に無意識だから、なんかの拍子で妙な手癖がついたら戻せる自信がない。
「あの頃の包み方をしてください」とか言われても再現不可能だぞ、これ。
「あの、ヤシロさん。ありがとうございます」
ふいに礼を言われ、ジネットへと視線を向ける。
少し照れたような、ふんわりとした笑みが俺を見ていた。
「わたしのことを気にかけて、待っていてくださったんですよね?」
まぁ、正直に言えばそうだが。
全員の前で『湿地帯の大病』について話した時、ジネットは確かに反応を見せていた。
だが、デリアやパウラたちが大きく感情を揺らしたため、ジネットは自分の中の違和感やもやもやを隠した。
それをそのままには出来ないと思ったのは事実だ。
「ま、タイミングが合ったからな」
ジネットが他の連中と一緒に風呂に入るのではなく、あとから一人で入ったこと、俺一人が一階で寝ることになったこと。
タイミングが合ったのだ。
そうでなければ、明日の朝にでも早起きして話をするつもりだった。
今夜のうちに話が出来てよかった。
すっきりしてから眠った方が、夢見はよさそうだしな。
「この辺も、もっと賑やかだったんだろ?」
「そうですね。人はたくさんいたと思います。でも、お店があるわけではなかったので、大通りのような賑やかさはありませんでしたよ。日中はみなさんお仕事をされていましたし」
「けど、朝や夕方にこの辺を歩けば、顔なじみが挨拶してきたんだろ」
「……そうですね。今思えば、みなさん、小さかったわたしをとても気にかけてくれていたのだと分かります。感謝が足りていなかったかもしれませんね、わたし」
「いや、十分だろう」
今でもここで陽だまり亭を続けているんだ。
『湿地帯の大病』を恐れてこの場所を去ってしまった連中は、きっとありがたかったと思うぞ。あの頃から変わらないものがずっとここにあるってことが。
「もうすぐ、この辺も変わる。もっと賑やかになっていくぞ」
「はい。そう思います」
器用に餃子を包み、ジネットが楽しそうに笑う。
「あの頃とは違う、新しい景色になるんでしょうね。わたしは、それがとても楽しみです」
あの頃に戻りたいと、思うこともあるだろう。
それでも、ジネットは新しい景色を楽しみだという。
「この辺りがどのように変わろうとも、ヤシロさんやみなさんと、こうして毎日楽しく生きていける、そんな街であればいいなと思います」
とてもうまく包まれた餃子が皿に乗せられる。
……だな。
こんな料理、その頃にはなかったもんな。
変わらずここに建つ陽だまり亭。
けれど、店長も変わって、従業員もメニューも常連客も変わった。
どちらも陽だまり亭で、これからどのように変化しようと、やっぱりここは陽だまり亭なのだ。
「ま、あんま変え過ぎて、今年のハロウィンで祖父さんに叱られないように気を付けないとな」
「それはないですよ。お祖父さんは、新しいものが大好きでしたから」
今年のハロウィンに、また会える。
そんな確証もないことが、当たり前に感じる。
その時に、また大口を開けて笑ってくれればいいなと思う。
俺は、最後の餃子を包み、皿に乗せた。
生地もタネも使い切った。
「分量ぴったりですね。さすがです、ヤシロさん」
「たまたまだ。それより、やっぱお前の方がうまいだろ、これとか」
「いえいえ、これなんか、わたしではとてもマネ出来ない絶妙のバランスで」
「え、これ、形悪くないか?」
「それが、熱を通すとこのあたりがぷくってしてきてですね――」
そんなとりとめもない会話をしながら、ジネットの笑顔がいつもの柔らかさに戻っていることを確認して、ほっと息を吐く。
これで、俺も安心して眠れそうだ。
しばらくどちらの餃子が美しいかを言い合った後で、ジネットは二階へ上がっていった。
俺は俺でさっと風呂に入って汗と疲れを流した。
ぬるめの湯は、疲れた体にちょうどよく、その日はよく眠ることが出来た。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!