正面から見れば、校舎裏にひょっこりと頭頂部だけ顔を出しているように見える小山の頂上。
そこでたった1本、川辺付近で見た通常サイズの木とは比べ物にならない大きさで存在感を放っている大樹の真下に、俺と空は息も絶え絶えになりながらも寝転がった。草のクッションは体を抱擁するようで、地面の適度な暖かさが心地よい。
最後まで全力で走り切ったせいで心臓が破裂しそうなほど素早く脈打ち、血の鼓動がはっきりと感じられる。体力の限界が近い。
「はぁ、はぁ……空、速いじゃないか」
「ふぅ、ふぅ……大地くんこそ」
先にスタートした空に追いつこうとして走ったが、僅かな差で負けた。
少しの悔しさと満たされた感覚が心を包み込んでいる。
「こんな風に走ったの、初めてだ」
「私も。風が気持ちいー」
空が体を大の字にして、全身に風を浴びていた。
俺もそれに習うと、火照っていた体の芯がひんやりする。
しばらくして体が落ち着いてから、2人で天井に流れる空を静かに見上げる。
青が引き延ばされて見慣れた空に安心する。小地球の天井に映し出されたハリボテなのを知っているけれど、いまの俺にとっては本物にも等しい。
「昔もこんな風に走って、疲れたら青空を見上げることもあったのかな」
その人たちは、きっと自由に気ままに本物を見上げていたのだろう。未来では、虚像を見ることになるなんて思いもせずに。
ふと疑問を口にしたら空が姿勢を変えずに反応する。
「あったと思うよ。地球に緑があって、人の営みがあって、空があって、世界が平和な頃は」
「いいなぁ、そういうの」
「なに言ってるの、私たちが取り戻すんだよ」
「そっか。そうだよな」
「うん、そう」
一層強く吹いた風に身を任せて、2人で口を開かない時間が過ぎる。
なにか喋らなければ、とは思わない。ぼーっと空を見上げるだけなのもいいものだ。これがほんの少しばかりの平和であることを認識できるのだから。
長いような短いような、穏やかな時間にそっと隙間を差し込んだのは空だった。
「ねぇ、大地くんはどうしてスカイナイトに乗ろうと思ったの? 命の危険もあるのに」
「人を守りたいから、かな」
「かなって」
「いろんなところを旅してきて、たくさん優しくしてもらった。その人たちに恩返ししたいからさ」
「だから守りたい、立派だね」
「そう言ってもらえるのは嬉しいな。でも、スカイナイトに乗るのはそれだけでもないんだ──」
俺は右手を空に掲げた。天井の空より、もっと向こうの閉ざされた空に向けて。
宇宙の静謐な空間に存在していた、懐かしさを覚えるものに。
「──月ってやつに行ってみたい」
「月って、空の向こう側にある天体だよね」
「天体ってのがよくわからないけど、たぶんそう。空で光る、あの場所に行かなきゃならない気がするんだ、俺は」
それはスカイナイトで月を初めて見た時に、心の奥底に突然として現れたものだ。
理由なんてわからない。でも、そこへ行きたいと心が叫ぶ。
強迫観念にも似た、絶対に成し遂げなければならないことだとわかってしまうから。
「運命ってやつなのかな。じゃあ、空食から地球を取り戻せたら手伝うね」
「結局はそうなるか」
「うん。まず地球を守らなきゃ、なにも始まらないし、始められないよ」
空の横顔をちらっと見る。
守ることを語る姿からは、覚悟を秘めた人だけができる鉄のような意思が垣間見えた。空がその覚悟を培ってきた事情もあるんだろうな。
「空は、いつ頃からスカイナイトに乗ってるんだ?」
「何歳だったかな……12才ぐらいだったと思う」
「そんな歳から乗ってるのか」
戦いに相応しい年齢なんてわからないが、幼いのではないだろうか。いや17歳でスカイナイトに乗っている俺たちも、昔からしたらおかしいのかもしれないけど。
空は遠い過去を懐かしむように、微笑んだ。
「私が樹里さんや調さんに拾われたのが、同じ12歳の頃なんだ」
「拾われた?」
「小地球が空食に襲われて、逃げ惑って、両親からはぐれて泣いてた私を保護してくれたのが、樹里さんだったの」
「ご両親は見つからなかったのか?」
「うん。その小地球は人がとても多くてね、混乱の中、散り散りに逃げていったから、どこに行ったのか、ぜんぜんわからなかった。樹里さんや調さんは手を尽くして探してくれたんだけどね」
「それ以来、ずっとここにいるのか」
「そういうこと。そのあとも色々あったんだけど……ね。最終的に私が乗るって言ったの」
空は途中で言葉を詰まらせて、過程をぐらかすように言い終える。
空が拾われたのは5年前で、その時すでに樹里さんや調が行動を開始していたのなら、スカイナイトも稼働していたのだろう。でないと空食に襲われた人間が生きていられるはずもない。
格納庫で忘れるようにされていた黒いスカイナイトを思い出す。きっとあれのパイロットは──。
薄々とは気づいているけれど、踏み込むべきではないのだろう。一旦忘れることにして、言葉の続きを促した。
「怖くなかったのか?」
「もちろん怖かったよ。でもスカイナイトで飛べて、この閉ざされた空を取り戻せて、みんなを守れるならいいと思ったんだ」
「強いんだな、空は」
恐怖に負けず、抗う心を持って空は戦っている。
俺はただ心のまま、守りたいと思っているだけだ。
「私は全然強くなんてないよ──なに一つ、この手で守れないんだから」
ふっと空の表情に影が差した。まただ。時折、空は苦しみに耐えるような表情をすることがあった。
潰れないために、空回りする口をがむしゃらに動かしているようにも思えてならない。
そんな表情を放っておけるほど、俺は我慢強くなかった。誰かに助けられた分、誰かを助ける、なんて恩人からの受け売りなんだけど。
「空。俺は新参者だし、まだ信頼もなにもないだろうけど……なにかあったのか?」
「えっ!? なにもないよー、やだなー」
そんな顔してて、なにもないわけないだろ、と言いたいところだが。
あはは、と愛想笑いをしながら空は肺筋を使って勢いよく起き上がった。
聞かせてもらえるような雰囲気でもないみたいだ。
「さ、そろそろ休憩おしまい! 走りながら戻ろ」
「……そうだな」
釈然としないまま起き上がろうとした時だった。
空気を震撼させる激しい音が、身体中を痺れさせるように駆け抜ける。
「警報……!」
空がいち早く反応し、続いて小地球全体に体全体を震わすような大波さんの声が響く。
「空さん、大地さん、空食が壁を破って進行しようとしています。至急、校舎に戻ってくださいっ」
「緊急事態みたいだね、急ぐよ」
と言って、空は校舎と逆方向に走り始めた。
おおい、どこにいくんだ。
「そっちじゃないだろ!?」
「大丈夫、ついてきて」
先輩の言葉は素直に聞くべきだし、ついていこう。
空は大樹に手を添えて、上下に動き始めた。隠されているものを探しているような動きだが、ただ表面を手でなぞっているだけだ。
人が3人は整列できそうな太さがある大樹だけど、それ以外には特筆するべきようなものはない。
「ここに、なにかあるのか?」
「あった! これこれ!」
大樹の表面を空が手で押し込むと、ガコンとなにかがハマったような音がした。同時に大樹の外側が激しく振動しながらスライド式の扉のように開いた。
まず蓋をされたように閉じ込められていた光が漏れ出て、次に銀色の壁が覗けた。
明らかに自然のものではない。
中身が機械化されている幹の中には円形の空洞があり、人が乗るためのものだろう床があった。
調は俺が驚いて口を開けていたのを察して、人差し指を立てながら。
「エレベーターって言うの。移動用に使うものだよ」
空がすったか手早く乗り込むので、俺も続いた。
中の安定性は保たれているようで、2人が乗り込んでも床は固定されたように動かない。
「小地球は広いからさ、調さんがいつでも校舎に戻って来られるようにって作ったんだ。木をベースにしてるのは、カモフラージュにいいでしょうって」
開いていた扉が自動的に閉まり、エレベーターが動き出した。下に向かっているのだろう。体の中にあるものが滑り落ちていくような感覚が広がるのは奇妙なものだった。
にしてもカモフラージュって。
「知ってる人間しかいないのに隠す必要あるのか?」
この小地球はスカイナイトのことを知っている人間で構成されているのだし、正体を隠したりしているわけでもないだろうに。
調はよくわからないけど、と前置きして。
「そのほうが秘密基地らしいって言ってたよ」
「なるほど、調らしい……のかもな」
秘密基地なんて遊び心のあるところが。
空もそう思ったのか、笑いながら同意してくれる。
「確かに調さんらしいかもねぇ。さ、ついたよ!」
再び扉が開くと、そこは職員室──もとい司令室だった。
距離としては、丘から校舎までは走って10分のところをおよそ2分で到着したのだから驚く。
このエレベーターというのも、以前の人間たちが作った文明の利器なのかな。
「便利なもんだ」
「でしょ? 今度、他に設置してあるところも教えたげる。樹里さん、すぐに出ます!」
空は軽快に走り出しながら、司令室の巨大モニターの正面にいる樹里さんに声をかける。
「わかった。……すまないが頼む」
樹里さんの言葉には、またも躊躇うような間があった。
空が走っていった方向を何度も心配そうに確認してから、俺に向いた。
「大地、君は待機していてくれ」
「空はさっき発進したばっかりじゃ?」
「……君は訓練を受け始めたばっかりだろう。近頃は空食が壁を破る速度が早まって、日に2度の出撃もそう珍しいことじゃない」
だから心配するな、と樹里さんは言外に込める。それは自分を納得させようとするものでもあったように思えた。
「でも樹里さんは、空を戦わせたくないんじゃないですか」
「ん、空から聞いたのか?」
「樹里さんの妙な間と雰囲気からそうじゃないかと」
「だから気づかれますよって言ったじゃない、樹里は隠し事が苦手なんだから」
オペレーターとして、小型モニター前で椅子に座っている大波さんが言った。
聞いた途端、樹里さんが苦渋に満ちた顔をする。わかっていても隠し切れない。樹里さんは存外、表情が外にでてしまう人なのかもしれない。
「そうは言っても、苦しいことを強いているのは変わりませんから」
「スカイナイト二号機-レーヴァテイン-発進準備完了!」
言葉を交わしている間に空の発進準備が完了し、巨大モニターに表示されているスカイナイトの立体モデルが待機している。
「発進シグナルを確認しました。樹里さん」
樹里さんが苦渋に満ちていた顔をさっと引き締めて、凛々しい目つきを取り戻すと、モニター状に示されている情報を伝える。
「目標は小地球002に向かって降下してくるはずだ。先の戦闘より小地球付近で戦闘することになる……くれぐれも注意してくれ。スカイナイト、発進!」
「……わかりましたっ。発進!」
スカイナイトの立体モデルがモニターから消失し、スカイナイトが視認している映像にモニターが切り替わった。
スカイナイトが黒色だけで構成された空を駆け始める。
モニターに小さく表示されている、空食の落下予想地点に一直線だ。
「送り出すだけというのも、辛いものだろう」
樹里さんがモニターを凝視しながら聞いてくる。
視認できる情報はひとつも見逃さないという目だ。
「俺が戦いにいければって思いますよ。訓練もまともにやってませんが」
「君は戦うことが怖くないのか? 戦闘だ。負ければ当然死ぬ」
初戦は、高揚感が優っていたこともあって恐怖心はなかったけれど、死ぬなんて考えたこともなかったわけで、確かなことは言えない。
前にできたから次もできる、なんて言えるほど自信家でもないが、でも──。
「怖いと思いますよ。負けたら、人類の終わりなんですよね」
「確かにそうだが……自分の命は勘定に入っているのか? スカイナイトが負ければ、それは人類が空食と戦う手段を失うことを示しているが、自分の命が失われることもまた同意義なんだ」
俺が自身の命を大切にしているのか、という問いかけだった。
死ぬのは怖い。
俺の心に灯る大切な何かも、記憶もないまま消えてしまうということだから。
何者にもなれず消えてしまうのは、耐え難い後悔になるかもしれない。
けれど、それは俺だけの事情で。俺は助けてくれた人がいるからいま、ここにいられる。恩を受けたことを知っているから、少しでも守れたらと思う。
「俺は色々な人に手を貸してもらって、記憶喪失でも生きてこられた。こんな繋がりのない時代でも。自分の命を軽く見るつもりはありません、だからこそ俺の命を繋げてくれた人に恩を返したいんです」
「感謝されるとは限らないし、殆どの人は守られていることに気づかないものだぞ?」
「それでも、恩を返せるならいいですよ。できることを何もせずに終わってしまうより、よっぽどいい」
恩返しと言いつつも、やっていることは相手に気づかれることのない自分のしたいことってのは、自分勝手なのかもしれない。
やらないよりは、マシかもしれないけど。
「君は、お人好しか?」
「自覚はありませんけど……いけませんかね?」
言うと、樹里さんは固く結んでいた口をほろっと緩めた。
安心した、とその和らげな表情が語っている。
「お人好し、いいじゃないか。私たちは何かを得るために戦ってるわけじゃない。敗北しても他人のせいにできないのが私たちだ。戦う理由が己の中にあるのなら問題ない」
樹里さんは、戦う理由を他人に委ねるな、と言っていた。
自分の中にある戦う理由が大事だと。
他人を理由にしてしまったら、それを理由にして免罪符にしてしまうかもしれない。
自分が理由なら、自分を責めるだけで済む。
それに戦う理由なら、恩返しだけってこともない。
「自分のことなら、恩返しの他にも月に行ってみたいですね」
「月か。遠いぞ?」
「スカイナイトに乗った時に、空から見えたのが綺麗で、なんだか月に呼ばれてる気がしたんです」
「呼ばれた気がした、か。ロマンチックでいいじゃないか。空を取り戻せたら私も手伝わせてもらおう」
「空も同じようなことを言ってくれました」
「だろうな。私たちの最優先は空食から空を取り戻すことだ。そのあとに目標があるのもいい」
「スカイナイトが目標落下地点に到着! 」
大波さんの声に、意識がモニターへ引き戻される。
樹里さんは綻んでいた口を固く結び直していた。
俺はここから応援することしかできないけれど、空、頑張れ。
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