周囲の目がいっせいにシオンに向けられた。肌に痛いくらいの視線が突き刺さって、シオンはすぐにでもこの場から立ち去りたい気持ちになる。しかし、邪気のない笑みを浮かべて手招きしてくるルクレティアに負けて、渋々と前に出る。
値踏みするような店主の琥珀色の瞳が見上げてくる。
「……坊主、資格を持ってるのか?」
「ここにありますよ」
首から下げたネックレスを引っ張り出し、差し出す。鎖につながった銀のプレートには、竪琴を構えた女性のレリーフが彫られている。教団が資格を与えた調律師の証明だ。これとは別に称号を表す方位磁石も持っているのだけれど、見せると悪目立ちしてしまうのでやめておくことにした。
「ふん、確かに本物だな」
投げ返されたネックレスをシオンが再び首にかけると、店主はしぶしぶと言った具合で頷いた。
「まあ、資格持ちだってんなら、買取手数料だけでいいぜ。教団に喧嘩を売るような真似はごめんだからな」
あっさりと手のひらを返した店主に少女は悔しそう唇を噛む。その心中は推し量れたので、なるべく穏便に済むように、シオンは柔らかな笑みと共にやんわりと声をかけた。
「どうする? 僕でよければ、確認するよ?」
気の強そうなもえぎ色の瞳は悩むように揺らめいていたが、
「……ああ、頼む。だが、買取書の鑑定人は私の名前にしてもらう。いいだろうか?」
正規の店であれば難しい注文だけれど、シオンはただ楽譜が正しいかを判断するだけなのだから、この露店ならばそのくらいの融通は利くだろう。
頷きを返すと、少女から譜面石が渡された。ひんやりとした冷たい石の感触は馴染んだもの。
印章をかざして楽譜を呼び起こし、エーテル濃度の数値から調整されている音を判断しつつ、記憶している楽譜との整合性を確かめていく。
「焔の書の一の四番、かな……」
すでに発見されている既存の楽譜。一番は階位を。四番はマリステラに登録された順番を示している。希少性は低いけれど、階位が高いのでかなりの高値で売れるはずだ。
「これ、君が調律を?」
「もちろんだ。知りあいから譲ってもらった石だが、鑑定も調律もやったのは私だ」
「へえ、すごいね」
エーテルによって宙に投影された楽譜を垂直にスライドさせて旋律と詩を確認しつつ、感心する。
これだけの腕があるのなら資格をもらえそうだけれど、マリステラまでの航界には危険が伴う。もしかすると家族が反対していたりするのかもしれない。
ひととおり確認を終えたシオンは譜面石を少女に返し、店主に頷いてみせる。
「問題ないですよ。間違いなく、第一階位の焔の書です」
「間違いなく、ねぇ」
店主は意味ありげに呟いたあと、少女を見やった。
「言っておくが、楽譜に欠陥があったら罰金はきっちり払ってもらうからな」
「いくらだ?」
「十万ゼニーだな」
「なっ、いくらなんでも高すぎる! そんな金額ありえない!」
シオンもあまりに法外な値段に目を丸くする。ふた月は生活するのに困らない金額だろう。少女が売ろうとしている譜面石の相場の半分ほどの値だろうか。
「偽者を掴まされたら罰金があるのは道理だろうよ。嫌なら他を当たるんだな」
足元を見られている少女は、悔しそうに唇を震わせる。それから、シオンをちらりと見やってきた。その眼差しの鋭さは、睨んできた、が正しい表現になるかもしれない。
「……腕は確かなんだろうな?」
「シオンより腕のいい調律師なんてどこにもいないわ」
シオンが答える前にルクレティアがきっぱりと言い切ると、少女は胡乱な面持ちになる。
「そんな風に推されると、逆に信憑性が薄れるんだが」
少女の疑わしげな瞳に、ルクレティアはちょっと納得いかなそうに眉根を寄せたが、食ってかかるようなことはしなかった。
「大丈夫よね……シオン?」
彼女がシオンの調律師の腕を疑うとは思えないので、たぶん万が一の何かが起きた場合に少女が困ってしまうのを懸念しているのだろう。
シオンはちらりと店主の様子を窺った。口元にはにやにやとした笑みが浮かんでいて、懊悩する若者をからかって楽しんでいるようにも見える。
「ごめん、ちょっといいかい?」
少し考えてからシオンはルクレティアの肩を抱いてその場から離れ、少女にもそう断って、付いて来てくれるように手招きする。
「なんだ?」
「その楽譜の鑑定と調律だけど、僕も君と同じで自信があるよ」
シオンからしてみれば、息を吸うのと同じくらい簡単な作業なのだ。間違えるはずもない。しかし――。
「でも、譜面石をあの店で売るかどうかは考え直したほうがいいかもしれない」
「は? なぜ? 楽譜に問題はないだろう?」
「そうだけど、何かおかしい気がするから……」
やけに念を押してくる慎重さに、にやついた笑み。警戒したほうがいいと思う。
シオンの忠告に、少女は強く首を振る。
「そんなことを言われたって、資格を持たない私が譜面石を売れるのはこの店だけだ。引き下がるわけにはいかない」
「それならシオンに付き添ってもらって、きちんとしたお店で売ればいいんじゃないかしら?」
ルクレティアの尤もな意見にも、少女は首を縦に振らない。
「それもダメだ。それじゃあ、意味がないんだ」
シオンはルクレティアと顔を見合わせる。言葉から推測するに、何か事情があるのかもしれない。どう説得したものかとシオンが考え込むと、少女の鋭い瞳に侮蔑の色が浮かんだ。
「あなたは国家調律師なんだろう? あんな風に腕を疑われても何も感じないのか? 調律師としての矜持はないのか?」
店主が念を押すということは、シオンの腕が信用ならないと言われたようなもの。少女の言いたいことはわからないでもないけれど、問題はそこではないと思うのだ。
根が真っ直ぐな子なのだろう。
他人を疑わないという点ではルクレティアに似ているけれど、シオンを信頼してくれている彼女と違い、この少女は耳を傾けてはくれないから困ってしまう。出会ったばかりの他人なのだから仕方がないことではあるのだけれども。
「そういう問題じゃなくて……」
「とにかく、前金の免除に関しては助かった。だが、これは私の問題だ。これ以上は口を挟まないでほしい」
くるりと踵を返した少女は、制止を振り切ってまた店に戻ってしまう。店主に譜面石を差し出すその姿をじっと見つめたまま、ルクレティアがぽつりと溢した。
「大丈夫かしら……?」
「……どうかな。忠告はしたんだし、あの子の言うとおり僕らは部外者だから。後はもう、自己責任としか言えないよ」
ふたりが見守る先で、台の上に譜面石と、店のものらしき黒い銃が置かれた。立ち上がった店主が機械人形の背にあるスイッチを弄るのが見えた。
【此に捧げるは真理の書。賢人たるアナティウムが創りし調べの唄】
感情のこもらない歌声が街の喧騒に染み渡って伸びていく。
譜面石が青い輝きを零すさまを見つめていたシオンは、鼓膜を震わせる歌声のそれに、気づいた。
あ、と思った。
一音だけ音程が半音ズレたのだ。ただ、それだけ。それだけのことだけれど、些細なズレで術式が成り立たなくなるのが聖歌というもの。
――そういうことか。
店主の思惑を察したときには、もう手遅れだった。
少女や野次馬が遠巻きに眺める先でぱあん、と。甲高い音を響かせて、譜面石が砕け散った。
「嘘だっ? どうしてっ!」
少女は機械人形の音程のミスには気づかなかったようで、血色のよかった顔色は一気に蒼白になる。
「おいおい、どういうことだ?」
「やっぱり調律が違ってたんじゃねえのか?」
「資格を持ってるだなんて言っても、まだ子供ですものね。ありえるわ」
囁きはすぐにざわめきへ。少女は瞳を大きく見開いたまま、すっかり固まってしまっていた。
機械人形が聖歌を失敗することはありえない。きっと最初から端末にプログラムされていたのだろう。もしかすると、客を見定めて失敗するように操作していたりするのかもしれない。
しかし、機械いじりに関しては素人のシオンが確認することは難しい。そもそも、機械人形の仕組みすらまともに知らないのだ。
証拠はないし、一瞬の音程のズレに気づいた見物人もいないだろう。
「どうしてッ? 調律は正しかったはずだっ!」
「って言われてもなあ。石が砕けたってことは、楽譜が間違っていたってことだろうよ」
白々しくも男は肩をすくめるだけ。
可哀想だけれど、世の中というのは悪意で溢れ返っているのだ。社会勉強だと思って諦めるしかないだろう。罰金はどうするのかな、とシオンが成り行きを見守っていると。
「だが、そうだな。おまえさん、金を持ってるようにも見えねぇし十万は高えよなあ」
呆然と立ち尽くす少女を値踏みするように上から下まで見下ろした男は、名案を思いついたとばかりにその視線をルクレティアへと移した。
「そうだ。そっちの坊主を紹介したのはあんただったな? それなら責任は嬢ちゃんが取ってくれよ」
そう言って店主が指名したのは、ルクレティアだった。
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