アルテウス行きの飛行船の航空券は無事に入手でき、四人は明日、ヴェルスーズを発つことが決まった。
ルクレティアは宮殿の医療室を訪れていた。個室のベッドに寝かされたロゼリアは点滴のチューブに繋がれ、憎悪に燃えていた瞳は固く閉ざされている。
レースのカーテン越しに差し込む陽光に照らされた顔は仄白いけれど、寝顔は健やかに見えた。
今日もロゼリアは、目を覚ましてはくれない。
「ロゼリアの様子はどう?」
ノックと共に入室してきたシオンに首を横に振ってみせると、彼はそう、と悲しげに瞳を伏せた。
「女王さまと、お話はできた?」
「うん。ロゼリアのことは責任を持って見てくれるって」
シオンにはやるべきことがある。それはオルラントの未来に繋がる、とても大事な役目。だからずっとヴェルスーズに留まることはできない。
シーツの上に力なく投げ出されたロゼリアの手をぎゅっと握って、ルクレティアは心の中でロゼリアが無事に目覚めてくれますように、と祈った。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
宮殿を出ると、正午を告げる重い鐘の音が聞こえてきた。陽射しはポカポカと暖かく、大通りは活気に満ちている。
雑踏の中をいつものように、シオンと並んで歩く。昼食時だからか通りにはいつもは見かけない食べ物の露店が並んでいて、シルヴァリーの香りをかき消すような、肉の焼けるいい匂いがふんわりと漂ってくる。
宿で二人の帰りを待っているエリアナとヴィンスはお腹を空かせているかしら、と思った。
「ティア。目が覚めてから、何か前と違うことはないかい?」
キョロキョロと視線をさまよわせるルクレティアに、シオンはふと、そう尋ねてきた。
すぐにフェリシアのことを心配しているのだとわかった。ルクレティアは首を横に振る。自分の中で別の少女の魂が眠っている、なんて実感がなく、ルクレティアはルクレティアだ。
「……そう。何か異変があったら、すぐに言うんだよ?」
柔らかな面差しが心配そうに曇るので、こくりと頷く。
シオンはフェリシアのことを懸念しているみたいだけれど、目覚めてからのルクレティアには他に不安に思うことがあった。
「シオン」
意を決して、隣を歩く彼の横顔を見上げる。
「あのね、シオンはわたしが昔のことを何も憶えていなくて、悲しい気持ちになったりしない?」
シオンはティアはティアだと言ってくれたけれど、ルクレティアはそのことが心配だった。多くの思い出を共有してきた幼馴染が何も憶えていないのだ。それはとても悲しいことなのではないだろうか。
シオンは嘘が上手だ。なので、彼の心の揺れを見逃さないように澄んだ翡翠の瞳をじっと見つめる。
「悲しいというか……寂しくないって言ったら嘘になる、かな」
凝視が効いたのか、苦笑気味にシオンはそう答えた。彼の言葉に、ルクレティアはやっぱりと思い、しゅんと肩を落としてしまう。
ルクレティアだってシオンとの思い出を憶えていたかった。けれど、真実を知った今でもルクレティアの記憶に残る最初のシオンは、あの地下部屋での彼だった。
シオンはルクレティアの一番の理解者で、心が読めるんじゃないかと思ってしまうくらい。でもルクレティアは違う。シオンが何を考えているのか察することは、とても難しい。
過去の自分は違ったのだろうかと思うと、もどかしくて悲しい気持ちになる。
欠けてしまった記憶を取り戻すことができればいいのに、と思う。けれどそれは無理なこと。仮にシオンに過去の思い出話を残らず聞いたって、それがルクレティアの記憶になるわけでもない。失ってしまったものを取り戻すのは、とても難しい。
「ティア」
舗装された石畳を見つめて歩いていたルクレティアは、呼びかけに顔を上げる。
「あそこ、憶えているかい?」
ふと足を止めたシオンが指差す先には、煉瓦造りの大きな橋がある。忘れるはずもない。シオンが初めて過去を打ち明けてくれた場所なのだから。頷くと、シオンは静かな声音で続ける。
「あの橋でティアと話したとき、僕は聖歌を作るのが……怖くて堪らなかった。創造の書のときと同じように、完成した聖歌がどんな結果をもたらすのか不安だったから。でも、あのとき君が言ってくれたこと、憶えてる?」
「憶えているわ。でも……」
シオンの言いたいことがわからずに戸惑いを隠せないでいると、彼はくすりと笑んだ。
「君が好きなのは僕の作った聖歌で、聖歌なら何でもいいわけじゃないって――あの台詞、前にも言われたことがあるんだよ」
ルクレティアは目を瞬かせる。
「君はいつだって僕を信じて、僕の欲しい言葉をくれる。だから僕は記憶の有る無しは、大した問題じゃないと思うんだ。僕にとって大事なのは、ティアがここに居るってことだよ」
そう言って、シオンが手を差し伸べてくる。帝国の地下部屋でルクレティアを連れ出したときのように。おずおずとその手を取ると、
「僕はティアがティアらしく居てくれれば、それで十分だよ」
夕暮れ馴染む橋の上で見せてくれたのと同じ、屈託のない笑顔でシオンはそう言って、また歩き出す。手を引かれるままに、ルクレティアは彼の後をついて行く。シオンはそれ以上何も言わなかった。
彼はこのままで構わないという。でもルクレティアがシオンの立場であれぼ、やっぱり寂しいと感じてしまう気がする。
「ねぇシオン。アルテウスまではどのくらいかかるの?」
「何事もなければ五日くらい、かな」
どうしてそんなことを尋ねるのかと不思議そうな顔になるシオンに、
「あのね、アルテウスに着くまでのあいだ……わたしにまた、シオンの聖歌を作ってくれる?」
マリステラに滞在しているあいだ、ルクレティアはシオンの創作した聖歌をたくさん教わった。それは、以前のルクレティアの為にシオンが創作したもので、曲の一つ一つに二人の思い出が詰まっていたはず。そのどれも、ルクレティアは思い出せない。
欠けてしまった記憶がどうあっても埋まらないのなら、新しく築いていくしかない。
ルクレティアは以前に負けないくらいたくさんの、シオンとの思い出が欲しい。そしてそれが聖歌に関わるものなら、ルクレティアはより深く、心に刻みつけておけると思うのだ。今度こそ、彼のことを忘れてしまわないように。
繋いだ手をルクレティアがぎゅっと握ると、シオンはもちろん、と微笑んだ
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