――時間は、少しだけ巻き戻る。
ロゼリアは、目の前の光景に困惑していた。
ルクレティアが気を失って床に倒れている。聖歌を歌い終えた直後に意識を失くし、倒れてしまったのだ。
ぐったりとまぶたを閉ざしたルクレティアは、ピクリとも動かない。
ルクレティアに創造の書を歌わせるなんて、計画にはなかった。
ロゼリアは途方に暮れてしまう。
ルクレティアを連れて来たのは、エリックがシオンと話したがっていたからだ。そのあいだ、この部屋に閉じ込めておけばいいだけで。ロゼリアは彼女を案内したらすぐに立ち去るつもりだった。
魂の竜を手に入れた時点で、ロゼリアの目的は達成しているのだから。
創造の書に纏わる事実なんて、話すつもりはなかった。ロゼリアには関係のないことだから。しかし、どうしても許せなくなったのだ。見つめてくる瞳があまりにも無垢で。どうしようもなく、自分が醜く、惨めに思えてしまって。
考えてしまったのだ。ルクレティアの言うように、シオンが本当に彼女を慈しんでいたら?
もはや人間ではない彼女ですら、他人に愛してもらえるのに。両親に疎まれ、たった一人の味方だった姉を殺してしまったロゼリアは――。
だからルクレティアに、真実をぶつけた。彼女のシオンへの信頼を踏みにじってやりたかった。その結果、事態は思いもよらぬ方向へ転がろうとしていた。
ぴくりとまぶたが震えた。絹糸のような銀髪がさらりと揺れ、華奢な体躯がみじろぐ。
「ルクレティア……?」
身を起こした彼女と目が合う。瑠璃の双眸はどこかぼんやりとしていた。
「わたし……どうして……」
紗の掛かった瞳がゆっくりと焦点を結ぶ。
「わたしを目覚めさせてくれたのは、あなた?」
その問いで、ロゼリアは漠然と状況を悟った。
「……フェリシア、なのか?」
「わたしのことを知っているの? 見たところ、帝国じゃないみたいだけど……もしかして、空の世界?」
窓の外を流れていくちぎれちぎれの雲を見つめた少女――フェリシアは、ロゼリアへと視線を戻して不思議そうに尋ねてくる。
「あなたはだれ?」
「私は……」
ロゼリアは言葉に詰まる。ふと、フェリシアが瞳を瞬かせた。かくりと首を傾げる。
「あら? もしかして神曲聖歌を持ってる?」
ぎくりとした。腰に巻かれたポーチにはルクレティアから奪った魂の竜が入っている。ロゼリアが答えずにいると、フェリシアがそっと目を閉じた。
「この気配は……」
ぱちり、とまぶたが持ち上がり、瑠璃の双眸が嬉しそうに煌めく。
「わかったわ、魂の竜ね!」
その瞬間。
ポーチの中の赤い譜面石が光をこぼし、ふわり、と宙に浮いた。まるで意志があるかのように。きらきらと輝いた石はフェリシアが手を差し出すと、その中に収まった。
ロゼリアは息を呑む。
「な……っ!」
「知らなかったの? 神曲聖歌は歌い手を選ぶのよ。あなたは嫌われてるみたい」
「返してもらう」
銃に手を伸ばすと、フェリシアがクロークの裾を揺らしてふわり、と近づいてきた。じっと見上げてくる瞳が憂いを帯びる。
「あなたの目からは、深い憎悪を感じる。魂の竜で何をするつもりだったの?」
「あなたには関係のないことだ。魂の竜を返してもらう」
銃口を突きつけてもフェリシアは怯みもしない。おかしそうに笑む。
「そんな武器、脅しにならないわ。この身体には意味のないものだもの」
ロゼリアはハッとする。
ルクレティアには人ではないと告げながら。すっかり失念していた。歯噛みすると、フェリシアはにっこりと微笑んだ。
「いいわ。わたしを目覚めさせてくれたみたいだし。お礼をしないとね。起きて、魂の竜」
フェリシアの声に、譜面石が一層強く輝いた。狭い室内に緋色の輝きが満ちると、
「フェリシア~~!」
光が収まったときには小さな赤い竜が宙にぷかぷかと漂い、そいつはフェリシアの胸へと飛び込んだ。
「会いたかったよぉっ! ごめんよ、オイラ、オイラ……っ」
「泣かないで。大丈夫よ。ちゃんとわかってるわ。それよりね、あの子の望みを叶えてあげようと思うの。手伝ってくれる? わたしに加護をちょうだい」
「うんっ」
こくこくと頷く竜を放し、フェリシアはたおやかに笑う。
「誇るといいわ。わたしの聖歌を聞けるんだもの。あなたはオルラントで一番幸運な女の子よ。たぶんね」
悪戯っぽく瞳を細めたフェリシアはすう、っと息を吸い込んだ。
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