ルクレティアと呼び掛けた途端、糸の切れた人形のように倒れた小さな身体を、シオンは慌てて抱き止めた。
応えてくれるだろうか。あの地下部屋でシオンと再会する以前から、ルクレティアは彼女の名前を知っていた。
その、唯一残った記憶の欠片に縋るしかない。
心臓の音がうるさいくらいに鳴り響き、胸が痛くなるような凄まじい緊張の中で。長い睫毛が震えた。
「シオ、ン……?」
吐息混じりの囁きに、シオンの胸が詰まる。ぼんやりとした瑠璃色の瞳の奥に灯る無垢な色は見慣れたもの。
腕の中にいるのは、間違いなくルクレティアだ。泣きたくなるような安堵を堪えて、シオンは微笑む。
「おはよう、ティア。気分はどう?」
ぱちりと瞬きをしたルクレティアは、
「え? わたし、どうして……? あの聖歌を歌ったら、わたしは消えてしまうって……?」
シオンは眉根を寄せた。彼女がどうして創造の書を歌ったのか。その経緯はわからないけれど、どうやら結果を知っていて歌ったらしい。
責めたくなる気持ちを押し殺す。すべてを話さなかったシオンが悪いのだから。一度深呼吸して気持ちを切り替え、おろおろと揺れる双眸を見つめて言う。
「ごめん、ティア。ゆっくり話してる時間がないんだ。魂の竜は持っているかい?」
きょとんと目を丸くしたルクレティアがローブをまさぐると、ケープの内ポケットから緋色の石が転がり落ちてきた。
床に転がったそれを、シオンは拾い上げる。冷たい石の感触。緋色の輝きは沈黙を守っていて、魂の竜が姿を見せる気配はない。
印章をかざして譜面を呼び出したシオンは、ウエストポーチから事前に用意していた真っ新な譜面石を取り出した。
「ねえシオン、ロゼリアはどこ? 一緒じゃないの……?」
不安そうに尋ねてくるルクレティアに、シオンはロゼリアの現状を手早く説明する。事態を把握するにつれて、愛らしい顔が曇りを帯びていった。
「わたしが、創造の書を歌ったりしたから……」
「ティア。誰のせいとか、ああしていればとか、後悔するのは後にしよう」
元を正せば、ずっと真実を伏せていたシオンが悪いのだ。だが、今は自責の念に駆られている場合ではない。とにかく、時間がないのだ。ヴィンスたちのことも心配だし、手をこまねいていれば帝国軍が焦れて動くかもしれない。そうなれば、ロゼリアは幻竜として処分されることになる。
「僕は今から魂の竜を編曲する。君が歌って、ロゼリアを助けるんだ。できるかい?」
魂の竜の加護を持たないルクレティアには、魂の竜が創作した曲は歌えない。だが、シオンが編曲してしまえばそれは魂の竜ではなく、シオンの曲になる。
シオンの目標は神曲聖歌を完成させて、ルクレティアが歌えるように術の効果はそのままに、聖歌を編曲すること。神曲聖歌をルクレティアが歌えれば、フェリシアの目覚めは必要なくなる。
一つの器に魂が二つだなんて、空の竜ですら想定していなかったあり得ないこと。天秤がどちらに傾くかも、何がきっかけで揺れ動くかもわからないのだ。今回は上手くいったとはいえ、今後もルクレティアの意識が残るとは限らない。できることなら、シオンはフェリシアには眠ったままでいて欲しい。
そして、神曲聖歌を編曲するのであればその一端を担う魂の竜の編曲くらい、できなくてはならない。こんな形になってしまったとはいえ、シオンにとっては避けては通れない道だったのだ。
そしてそれは、ルクレティアにとっても。
シオンの眼差しを受けたルクレティアはにっこりと笑い、大きく頷く。
「うんっ!」
返事には、不安も迷いもない。
ロゼリアを救う聖歌をシオンなら創れると、ルクレティアは疑っていないのだ。名前以外の何も憶えていなくても。彼女はシオンの調律師としての腕を疑ったりしない。
ルクレティアからの信頼に応えるために、シオンはエーテルの粒子で構成された楽譜へと手を伸ばした。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
シオンが去ってからどのくらいの時間が過ぎたのだろう。ほんの数十分ほどだと思うのだけれど、ヴィンスの主観ではもう数時間も戦い続けているかのようだ。
陽気な広場は地面の至る所が抉られて、青々とした芝はもはや見る影もない。荒れ地と化していた。
巨体に似合わず素早い竜の動作を冷静に観察し、その癖を頭に叩き込んで攻撃を先読みして回避する。叩きつけられる尾も振り下ろされる爪もそうして躱しながら、ヴィンスは正直な感想を呟いた。
「このままだとキッツイな。保たねぇぞ……」
殺意で淀んだ金緑の双眸には苛立ちがチラついている。儘ならない現状に焦れているのかもしれない。状況は拮抗しているが、ヴィンスの体力とて無限ではない。槍を持つ握力の衰えと四肢の踏ん張りが利かなくなってきている自覚はあった。
ヴィンスの槍は刻印武器。しかし、その力は一度も使っていない。イスシールの技術の粋を込められた武器が発現させる聖術は強力だが、相応に燃費が悪く、ヴィンスの体力をごりごり削る。そのため、こういった足止め目的の長期的な戦闘には不向きなのだ。
振るわれた前脚を横に跳んで避けようとすると、盛り上がった地面に足を取られ、ヴィンスの態勢が崩れた。彼の腕ほどの太さがある爪が脳天を引き裂く前に、槍で何とか受け止める。凄まじい膂力に筋肉が悲鳴を上げた。長くはもたない。
ヴィンスを援護するように、銃声が上がった。が、弾は幻竜から大きく逸れる。集中力が鈍って来たのだろう。ガリアンの疲労も濃い。
ヴィンスは舌打ちと共に槍から手を離し、その場から大きく距離を取った。丸腰の彼を、丸太ほどもある尾が追撃してくる。手慰みのように横に払われる尻尾を身を沈めて躱したところで、再び銃声が。
今度は当たる。シルヴァリーの花粉によって酩酊状態の竜を横目に槍を拾い上げ、ヴィンスは呼吸を整える。
「無理だろ、これ……」
額から噴き出す汗を拭いつつ、つい本音がこぼれ落ちてしまった。
正直なところ、さっさと離脱してしまいたい。こんなところで死ぬわけには行かないし、ルクシーレが滅んだとしてもそれもまた一つの運命。何のゆかりもないこの地を守るために命を張るだなんて、冗談ではない。だからさっさと逃げてしまいたい。それがヴィンスの考え。
――だが。
ヴィンスは離れた位置に控えている幼馴染を見やった。
趨勢を見守っているエリアナの目には不安はあれど、恐れはない。彼女にはこの場から離れる、という思考はないらしい。出会って間が無いシオンが戻って来ると信じているのだろう。幼馴染はお人好しだから、損得なしにシオンの力になってやりたいと思っているに違いない。
ヴィンス自身シオンの人柄は信用してもいいと思えたが、それとこの場に留まるのは話が別。それでも彼に誠意を見せることで光明の竜に辿り着くことができるというのなら、命を懸けるしかない。
ヴェルスーズのために張る命など持ち合わせていないが、イスシールの安寧のためならば話は変わる。
――死んだら恨むぜ、光明の竜。
故郷の守り神への悪態混じりの祈りが通じたのだろうか。
正気を取り戻した幻竜とヴィンスを隔てるように、青い剣閃が走った。エーテルの粒子で構成された刃は両者の間を駆け抜け、青空へと吸い込まれていく。
振り返ると、階段を駆け上がってきたのか、肩で息をしているシオンが剣を振り切った格好で立っていた。その隣には小柄な銀髪の少女の姿がある。彼女がルクレティア、だろうか。大きな瑠璃の瞳は幻竜を見据えると、翳りを帯びた。だが、すぐに決然としたものへと切り替わる。
「ごめん! 待たせたっ」
剣を構えたシオンがルクレティアから離れ、ヴィンスの隣に並ぶ。竜は警戒しているのか、威嚇の態勢を取るだけで仕掛けては来ない。
「おい、いいのかよ」
視線でルクレティアを示す。これから彼女は聖歌を歌い、無防備な状態になる。間合いの外とはいえ、竜が動けば危険だ。側を離れるのは得策ではないはず。
穏やかな色を讃えた翡翠の瞳と目が合うと、
【此に捧げるは、流転の書】
涼やかな歌声が、静寂に波紋を投じた。
【空の竜に選ばれし守人が創りし――転訛の唄】
伸びやかで、甘やかで、どこまでも優しい音色の唱歌。
初めて耳にする聖歌のあまりの美しさに、ヴィンスは驚いた。エリアナとガリアンも目を見開いている。
視線の先でシオンが微笑んだ。どうだ、と言わんばかりに。自慢げで、不敵な笑み。時が止まったかのような錯覚を生み、それは竜も同じだった。
牙も爪も襲っては来ない。獰猛な瞳は食い入るようにルクレティアを見つめている。
【――古より伝わりし旋律は、彼の為に。織りなす現は夢幻のものに】
歌が紡がれるごとに殺意が萎み、終いには竜は身じろぎすらしなくなる。まるで、圧巻の歌声に魂まで呑まれたように。
【穢れし魂に、救済を。終わりの世界に再びの灯火を――】
眩いほどの光がその場を染め上げ。光が収束したときには、竜の姿はどこにもなく。
真っ白なブラウスと花のようなフレアスカートに包まれた少女が、倒れていた。
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