宿を飛び出したルクレティアは、すぐに途方に暮れてしまった。広い通りを挟むように並び立つ塔のような建物で構成された街並み。行き交うのはたくさんの人の波。
夕日で照らされたルクシーレの街は広いのだ。シオンをどうやって見つければいいのか。右か、左か。それすらもわからなくてルクレティアが懊悩していると。
「ティア?」
馴染んだ声がすぐ横からかかって、ルクレティアは危うく飛び上がりそうになってしまった。
振り返ると、白のチュニックに焦茶色のズボンという軽装のシオンが、不思議そうにルクレティアを見ていた。
「ど、どうして居るのっ?」
彼が宿を出て行ってしまってからそれほど時間は経っていないはずだ。心構えもできないままに予想外の遭遇を果たしたルクレティアは、驚きを隠せなかった。
「少し歩こうかとも思ったんだけど、ティアが……」
そこまで言って、シオンは口を噤んだ。
「なあに?」
「……いや、ティアの方こそ。どうしたんだい?」
「あのね、……えぇと、……」
シオンと話をしようと思ったのだけれど。こんなところで切り出すのもどうなのだろう。繊細な話をするには周りの雑踏が気になった。
すれ違う人たちを視界の端に置いたルクレティアは、続きの言葉を躊躇ってしまう。
そんなルクレティアの様子から何かを察したのか、シオンがふと思いついたように言った。
「そういえば、ルクシーレに来てからティアと二人で街を見て回ったことはなかったよね。散歩でもする?」
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
ぽつり、ぽつり、と灯った街灯に控えめに照らされた街には、どこかから流れてくるシルヴァリーの甘い香りが漂っていた。
二人のあいだに会話はなかった。いつもはおしゃべりなルクレティアが黙り込んでいるからなのだけれど、不思議と気まずい想いはしなかった。
銀髪をふわりと煽る風は暖かく、時間はゆったりとしていて、落ち着く気すらした。
煉瓦造りの大きな橋まで来たところで、ルクレティアはふと足を止めた。
橋の下では夕日を受けて輝きをこぼす穏やかな川が流れている。
「この川も、神曲聖歌で創られたものなのかしら?」
「イレ川はルクシーレの北のヴェチア湖っていう大きな湖と繋がってるんだよ。……伝承では、ヴェチア湖は神曲聖歌で創られたものだって伝えられているけど。でも、実際のところはどうなんだろうね」
立ち止まったシオンは、橋の上からゆったりとした水の流れを見下ろして苦笑を浮かべる。
夕日に染まる横顔からは、憂鬱さがはっきりと見て取れた。
シオンを傷つけてしまうから、彼の隠し事には踏み込んではいけないと考えていた。この街に来てから、シオンの過去に触れそうになるたびに、彼は悲しそうな顔になった。
だからルクレティアは避けてきたけれど。吐き出すことで昇華できる想いだってあるのかもしれない。
ロゼリアからもらった励ましが萎えてしまわない内にと、ルクレティアは意を決して口を開いた。
「ねぇ、シオン。シオンが聖歌を作りたくないのは、ロゼリアの言っていたフェリシアさんが関係しているの?」
不意打ちのように切り出して逃げられてしまうかな、と思ったら、顔を上げたシオンはルクレティアを見て、心底驚いたように目を見開いた。
「シオン?」
食い入るように見つめられて怪訝な面持ちになると、彼は我に返ったようだった。
「ああ、いや。ティアは……何も思わない?」
「え、わたし? いまはシオンのお話よ。誤魔化したらダメなんだから」
シオンが話題を逸らそうとしていると思ったルクレティアが目を三角にすると、彼はしばらくの沈黙のあと、そっと息を吐いた。
「……ごめん、そうだよね」
「帝国の人よね?」
「まあ、そうかな」
「シオンの一番好きな人?」
ロゼリアの言っていた恋人というのは、つまり、そういうことだろう。
黄金色に輝く水面をまた見つめた彼は、懐かしそうに双眸を眇めた。
「恋人って意味での好きなら、僕にもよくわからないな……。でも、大切って意味でならそうだね。すごく大事な人だよ。何て言うのが当てはまるんだろう? 一緒に居ると安心する……いや、違うか。居て当たり前なんだ、僕にとっては」
それくらい、シオンにとっては身近な人。ロゼリアと話をしたときは気にならなかったけれど。シオン本人の口から聞くと、何だか寂しい気持ちにさせられた。
よくわからない自分の感情に内心首を傾げつつ、ルクレティアは尋ねる。
「その人が側に居ないから、シオンは苦しいの?」
一生懸命シオンの言葉の意味を汲み取ろうとして至った結論。
しかし、返ってくるのはゆるやかな否定の仕草。
「……違うよ。ティアが居てくれるだろう? 僕はそれで十分だよ」
「う、うん? それなら、ええと……どういうことなの?」
まったく意味がわからなくて、ルクレティアの頭は疑問符でいっぱいだ。
シオンにとって、フェリシアという女性はとても大切な人。でも、ルクレティアが居るから問題ないと、彼は言う。
それなら、シオンを苦しめるものは何なのだろう?
混乱するルクレティアを見て、シオンは淡く笑んだ。今にも消えてしまいそうなくらい儚げな、弱々しい笑顔。
「きみも何となく察していると思うんだけど、僕は帝国で終末の書の編曲をしていた。……フェリシアの声に合わせて歌いやすいように調律をして、より強力な術に改良していたんだ」
帝国でシオンが何をしていたのか。はっきりと打ち明けてくれるのはこれが初めてだった。
「それが、スタンフォード家に生まれた僕の役割。生まれてすぐ離宮に幽閉されて、物心ついた頃から終末の書の編曲を続けてきた。それで、フェリシアは――」
言いかけたシオンはルクレティアの反応を窺うようにそっと視線を滑らせた。首をひねると、彼はまた話し始める。
「彼女はレンハイムって家の子で、帝国では皇帝以上に尊ばれる特別な存在だった。彼女の役割は、ひと月に一度終末の書を歌って、帝国領の幻妖種を一掃すること。僕らは離宮で一緒に育てられて、お互いに役目を果たし続けていた。離宮から出してもらえることはほとんどなかったけど、意外と自由に過ごせていたから僕はその生活を気に入っていたかな……」
懐かしそうに頰を緩めたシオンの顔は、すぐに厳しいものへと変わった。
「状況が変わったのは、四年前。僕が創造の書を完成させた時に、すべては狂った」
「完成?」
「そう、完成だよ。空の竜が九百年のあいだずっと求め続けていた、完璧な楽譜。神曲聖歌の、創造の書」
以前シオンは、終末の書は神曲聖歌ではないと言っていた。そのことと何か関係があるのだろうか。
「二つの楽譜は、何が違うの?」
「僕にとっては大して変わらない。効果範囲がより広くて、歌い手の負担が軽くなるだけのものだよ」
それなら、何も問題はないのではないだろうか。ルクレティアのそんな感想を読んだかのように、シオンはまた首を横に振った。
「創造の書は、元々は空の竜が創った楽譜だ。僕はそれと同じものを偶発的に完成させただけ。でも、神さまの作った聖歌はね、人の手には余るんだ。僕の書いた創造の書は僕の想定していた術とはまったく違うものだった」
シオンが聖術の効果を見誤るだなんて、信じられなかった。そして、それは彼も同じだったのかもしれない。
「僕の作った聖歌は……彼女をひどく苦しめる結果に繋がった。いまでもあのときの悲鳴は、耳に残ってる」
「悲鳴?」
聖歌を歌って悲鳴を上げるとは、何が起きたのだろう。
ルクレティアが眉をひそめると、シオンは重苦しいため息を吐いた。しばらく躊躇うような沈黙を挟んでから、彼は言った。
「……僕の作った聖歌は、彼女を殺すためのものだったんだ」
ルクレティアは、息を呑む。
人を殺す聖歌だなんて、あまりにも酷い。その話が事実なら、彼は自らの手で大切な人を殺めてしまったということになる。
「殺すって、どうして? どうしてそんなことになるの?」
「それが、空の竜にとっては都合のいい結果だったから」
シオンの唇がほんのわずかに持ち上がった。柔和な面差しに自嘲の笑みを湛えた彼は、だが、すぐに苦しげに表情を歪めた。
「それ以来、僕は聖歌を作ることが怖くなった。完璧に計算して作った術でも、想定外の事態を引き起こすことがあると、思い知ったから」
シオンにしては珍しい、仄暗さを孕む声音だった。
「聖歌のことなら何でもわかると思っていたし、できないことなんてないとも思っていた。調律も復元も独創楽譜の創作だって。頭ではちゃんとわかっているんだ。予想外の結果に繋がったのは、僕が完成させたのは神曲聖歌の一つだったからだって。でも、万が一ってことも、あるから……」
「……だから、聖歌を作るのをやめてしまったの? 誰かを傷つけてしまうかもしれないから?」
シオンの隣に並んだルクレティアがそっとその顔を覗き込むと、彼は弱々しい笑みを浮かべた。
「行動にはね、責任が付きまとうんだよ、ティア。僕は、僕の作った聖歌が引き起こす事態の責任を負うのが……たぶん、怖いんだと思う」
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