「ティア、障壁を張って。その後に大規模な術で一気に倒そう」
幸い、こちらは幻竜を倒せる楽譜を所持している。数は多いがさしたる問題でもない。彼女が長い聖歌を歌うために、身を守る障壁を創生するあいだだけシオンが時間を稼げればいい。
剣を抜いて身構えると、ルクレティアの声が鼓膜を震わせた。
【此に捧げるは光の書。賢人たるアナティウム、が……?】
「ティア……?」
尻すぼみになっていく歌声に振り返ると、ルクレティアが喉を抑え、苦しげに眉根を寄せていた。どうしたのか尋ねる前に、ふ、っと影が落ちた。
振り返ると、竜の一匹がふたりを切り裂かんと、太い前足を振り上げた。
咄嗟に剣を水平に持ち上げ、刻印にエーテルを注ぎ込み、その鼻面に剣閃を叩き込もうとする。
蒼い刀身が輝きを放つと、エーテルはシオンの意志を無視して刃に転化され、伸びた閃光が手近な水晶にぶつかり、中途から結晶を両断した。
思いもよらぬ感覚に戸惑う余裕もなく、巨大な水晶が倒れた衝撃で砂埃が舞い、視界が遮られる。
りいぃいん、と。地面に落ちた水晶が砕ける甲高い音が響いた。
意図したことではなかったが、僥倖ではあった。竜がたじろいだその隙をついて、ルクレティアの手を引いて幻竜から遠い位置に突き出た岩陰に隠れる。
「ティア、どうしたの?」
声を潜めて尋ねると、ルクレティアは困惑で曇った瞳を揺らして、言う。
「エーテルが、うまく操れないの」
眉をひそめたシオンは、だが、すぐにその理由に思い至った。目の前を漂う青白い粒子。視認できるほどに濃いエーテル場。
「そうか、エーテル濃度が高すぎて聖術の感覚が狂うのか……っ」
先ほどのシオンと同じように、ルクレティアもまた、周囲のエーテルに感覚を狂わされているのだろう。
聖歌は、ただ歌えば術になるわけではない。独自の感覚でエーテルと感応し、術のイメージを現実のものとするのだ。これだけ濃いと、エーテルへの感応が阻害され、術式が構築できないのだろう。
煙る視界の先では、鋭い赤の双眸が獲物を求めて揺らめいている。幻竜は膂力は優れているが、五感は鈍い。
ふたりの姿を見失っているようだけれど、入り口を塞ぐように佇む一匹が厄介だった。聖術が使えない以上、逃げる他に道はない。
奥地に未だ座り込む黒竜が襲ってこないのは幸いだけれど、退路を確保しようにも微動だにしない入り口の幻竜がどうしようもない。
シオンひとりならともかく、ルクレティアはあまり身体能力が高くない。無茶な真似はさせられなかった。
かなりまずい状況のなか、一つだけ脳裏を掠めた考えもあった。
神曲聖歌は、事象の改変にエーテルを必要としない。終末の書は厳密には神曲聖歌ではないけれど、神の力の一端を込められた楽譜であることには変わりない。幻妖種を一瞬にして消滅させてしまう強力無比な術。それは、幻竜とて例外ではない。
――だが。
「……シオン。終末の書を試してみるのはどうかしら?」
ルクレティアもまた、同じことを考えていたらしい。シオンは、彼女からの提案にすぐさま頭を振った。
「駄目だッ!」
反射で出てしまった言葉は自分でもびっくりするほどに強い語気になってしまった。びくりと肩を震わせたルクレティアに、はっと我に返る。
「あ……っ、怒鳴ってごめん。でも、帝国で言ったように今の終末の書はきみが歌うべきものじゃないから。たぶん、うまくいかないと思うんだ」
「そう……そう、よね」
終末の書を成功させられなかった過去を彼女は気に病んでいる。傷口をえぐるような真似はしたくなかったけれど、あの曲を彼女に歌わせるわけにはいかないのだ。
翳ったルクレティアの瞳がぱちりと瞬き、シオンを見上げてくる。
「……あのね、シオン。それならわたしが」
「囮になるのは駄目だからね」
彼女の考えていることなんて手に取るようにわかる。なので機先を制すると、ルクレティアがでも、と抗議の声を上げる。
「わたしは機械人形だもの。死んだりしないし、怪我だって人と違って聖術で治せるわ」
「そういう問題じゃないよ。とにかく駄目だから」
聖術で肉体を造られたルクレティアはある意味では不死のようなもの。けれど、到底受け入れられる提案ではなかった。
シオンにとってのルクレティアは、決して人形などではないのだから。
すげなく却下されたことが納得できないのか、ルクレティアは尚も言い募ろうとする。
すると、ひゅん、と空気を切り裂くような音を鼓膜が拾い上げた。気づいたシオンはルクレティアを抱え込み、慌てて地面に身を伏せた。
視界の端でしなった竜の尾が突き立つ岩に叩きつけられ、破片と埃が降り注いでくる。
「シオンっ! 後ろっ!!」
ふたりを踏み潰さんと振り下ろされた後ろ足をルクレティアを抱きしめたまま転がってかわし、身を起こすと息をつく間もなく襲い来る爪を剣で受け止め、流す。凄まじい膂力に、わずかな攻防でシオンの息はすっかり上がってしまう。
空の上で一戦交えたときは思わなかったけれど。聖術が封じられただけで手も足も出ないのだから、幻妖種という存在はやはり、人類にとって恐ろしいものだ。
無造作に払われた尾を身を低くして避けたところで、ルクレティアの小さな悲鳴が聞こえてきた。
慌てて振り返ると、入り口を塞ぐように立っていた竜がいつのまにか距離を詰め、鋭い爪をルクレティアに向けて振り下ろさんとしていた。
「ティアっ!」
小柄な体躯を押し倒して庇いに入ったが、かわしきることはできなかった。鋭利な爪が左腕を掠める。袖がすっぱりと切れ、ぱっくりと裂けた肌から血が滲んだ。痛みに流石に顔を歪めてしまう。
竜の足音が近づいてくる。
「シオンっ!」
腕のなかでティアが悲鳴を上げる。
――しまった。
前方にも後方にも竜がいる。一方に気を取られれば、ルクレティアが危ない。身動きが取れずにいると。
ぱあんっ、と。
突然、銃声が響き渡った。シオンが顔を上げると、竜の顔に命中した弾丸の先端が弾けてぱしゃり、と何かの液体がかかる。
立て続けに銃声が響き、もう一匹の竜にも同様に。
場に甘いにおいが満ちた。それは、ヴェルスーズへ来てからすっかり馴染みとなった香り。シルヴァリーの花のにおいに間違いなかった。
殺気立っていた竜の瞳の熱が引き、地面を踏みしめる二本の後ろ足がよろよろと頼りないものになる。
いきなり様子の変わった幻竜に唖然としていると。
「何を呆けている! 今のうちにこちらへ!!」
聞き覚えのある声だった。入り口に立って銃を構えていたのは、キャラメル色の髪を一つに結わえた凛々しい少女。 露店で出逢ったあの女の子に間違いなかった。
どうしてここに、なんて尋ねている暇はない。
慌てて身を起こしたシオンは、ルクレティアの手を引いて、出口へ向かって走った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!