「どうしてきみがここに?」
深部から出て通路を少し進んだところで足を止めたシオンは、前を行く少女を呼び止めた。
右側頭部で結わえられたキャラメル色の髪がはらりと揺れる。シオンを見返してくるのは金緑色の勝気な瞳。
間違いなく、露店で出逢ったあの女の子だった。
「おまえたちが兵の車に乗せられて東門から出て行ったのを見かけたから追いかけて来たんだ。この国の東にあるのなんて水晶谷くらいだし、あの荷物から察するに、ふたりとも旅行者だろう? もしかすると伝承を知らないんじゃないかと思って」
「伝承って、魂の竜のことかい?」
シオンが尋ねると、少女はあからさめに顔を歪めた。
「魂の竜? まあ、大雑把に言ってしまえばそうなるが、私が言いたいのはおぞましいこの国の風習のことだ」
――おぞましい?
想像もつかない話に戸惑っていると少女が嘆息した。
「やっぱり知らないんだな。聞きたいのなら、詳しい話を教えてやる。だがここを出てからでもいいだろうか。少し、息苦しい」
健康的な肌はほんのりと血の気が引いているように見えた。これだけの濃度なのだ。天上人とはいえ、立っているだけでもキツイだろう。
「ごめん、急いで出ようか」
シオンが先を促すと、つん、と上着の裾を引っ張られた。振り返ると、ルクレティアの大きな瑠璃の瞳が揺れていた。
「シオン、待って。腕の傷が……」
左腕を見下ろすと、袖は血ですっかり濡れて重たくなってしまっていた。意識してしまえば途端に痛みが押し寄せてきて、シオンは顔をしかめてしまう。
肩から下げていた鞄から慌てて小さな救急箱を取り出したルクレティアが少女に言う。
「わたしたち、怪我の手当てをしてから追いかけるわ。出口で待ってもらっていてもいいかしら?」
シオンの返事を待たずに発せられたルクレティアの申し出に、少女は頷いた。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
ルクレティアに応急処置として包帯を巻いてもらい、急いで洞窟の外へと出ると、日はすっかり傾き、藍と紅が混じった空が広がっていた。吹き付けてくる風は心なしか冷たい。
水晶谷から街までは徒歩でも二時間少々とのことだったので、三人はこのままルクシーレまで引き返すことにした。
ロゼリア・サージェント。
そう名乗った少女は、薄暗くなってきた夜道を照らすランプを片手に、話の続きをしてくれた。
「あの幻竜たちは、魂の竜を守っているんだ」
シオンは目を瞬かせる。
「幻竜が、魂の竜を?」
「事実かどうかは知らないが、昔からそう伝えられている」
俄かには信じがたい。幻妖種から人を救うために遣わされた七神竜を、どうして幻妖種が守るのか。
「それが、おぞましい話?」
シオンが隣のロゼリアの顔を覗き込むと、ランプの灯りに照らし出された顔には物憂げな色が宿っていた。目が合うと、少女は肩をすくめる。
「まさか。そうだな……ちょうどいい頃合いか。空を見てみてくれ」
頭上を見上げると、闇が濃くなってきた空に楕円形の月と、遠慮がちに瞬く星々が見えた。特に変わったところはない夜空。
「しばらく、月を気にしながら歩くといい。じきに意味がわかる」
ルクレティアと顔を見合わせ、街道を歩くこと数分。ロゼリアの言葉の真意はすぐにわかった。
白々と輝いていた月の色が徐々に変化し始めたのだ。楕円を描く月はまるで卵の黄身を徐々に浸食していくように。不浄のもののような色を思わせる禍々しい赤に染まり始めていた。
赤は不吉の象徴。見ているだけで不安を掻き立てられるような、そんな色だった。
「赤い月なんて、初めて見るわ」
ルクレティアと揃って息を呑むと、ロゼリアはため息混じりにぼそりと言う。
「あれは数年に一度、ヴェルスーズだけに起こる現象らしい。月が赤く染まるようになってから、十日後に丸くなる。その夜に、水晶谷に生贄を捧げるんだ。それが、この国の決まりごとだ」
「生贄?」
ぞっとする響きだった。
「ああ。若い女性を水晶谷に行かせ、幻竜にその身を捧げさせる」
「何のために?」
「幻竜から街を守るためだ。贄を捧げれば、竜たちは街を襲うことはない」
端的な答えだった。シオンは眉をひそめる。
「どうしてそんな風習が?」
「遠い昔に、魂の竜がそう求めたからだ。八日後がちょうどその贄の儀の日に当たる。おまえたちはよそ者だから、都合がいいと思われたんだろう。多少周期はズレてしまうが、竜はそこまで細かいことは気にしないかもしれないし、儀式が成功すれば儲けものとでも考えたんだろう」
女王の涼しげな顔を思い出したシオンは、騙されたことへの怒りよりも納得の気持ちの方が強かった。同時に、疑問も湧く。
「幻竜を退治しようとはしなかったのかい?」
幻竜は確かに脅威だが、聖歌を扱える聖術師の力を借りれば退治ることは決して不可能とも思えないけれど。
「おまえたちも実感しただろう? あの谷はエーテル濃度が異様に高い。どんな聖術も狂わされてしまうし、まず深部へ入ったものの意識が長くはもたない」
確かに、あの濃度で聖歌は歌えないだろうし、刻印武器程度の術では幻竜の強固な鱗に傷は付けられない。
だが、それはあくまで洞窟内の話。上手く幻竜を外へとおびき出せば話は変わるのではないだろうか。
そんなシオンの考えを読んだかのように、ロゼリアが続けた。
「あの親玉の竜はねぐらから絶対に出て来ない。そして他の竜は倒しても際限なく生まれる。幻竜の群れに街が襲われでもすれば、どうなるか。簡単に想像が付くだろう?」
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