緋色の鱗を持つ幻竜が夜空をたゆたい、ぼふり、と雲の切れ端を吹き上げて空の境界へと潜っていく。変異した幻竜は人だった頃の意識が薄まり、生みの親に従う。身体が慣れるまでエーテルの濃い場所で休んでね、と言ったから、そのとおりに雲の中へと潜って行ったのだ。
彼女からは、深い深い憎しみを感じた。誰かを憎む気持ちは、フェリシアにもよくわかる。だから叶えてあげようと思った。人の意識が薄れても、強く根付いた憎しみは消えはしない。今の身体が馴染んだら、好きにさせてあげようと思う。
フェリシアは、ヴェルスーズの近辺に漂う小さな浮島にいた。
直径一キロにも満たない小さな島には苔がむし、青々とした木々がまばらに並んでいる。濃いエーテルを浴びて異常成長した木の幹は太く、風に揺れる葉は瑞々しい。
木の根元に腰を下ろし、フェリシアは空を見上げていた。半分ほど欠けた月の周りに散らばった星々が瞬く光景は、吸い込まれそうなくらいに綺麗。
静寂に満ちた空に見惚れていると、夜色のキャンバスに小さな赤い竜が映り込む。ふわふわと近づいて来た竜の小さな前足には、紫色の果実が一つ抱えられていた。
「見てみて! フェリシア~」
まん丸の目を輝かせて、魂の竜が得意げにそれを差し出してくる。見たことのない果物だった。たぶん、エーテルの影響で成長が促進され、突然変異したものだろう。
七神竜の加護に守られた空の大陸では有り得ないことだけれど、その力は空の世界全域に完璧に及ぶわけではない。大陸から離れればそれだけ加護は弱まり、エーテルの影響を受けやすくなる。草木は特にエーテルの濃度に敏感だから、異常成長しやすいのだ。
人の手を借りずに育った果実は変わった形をしていたけれど、表面はつやつやで美味しそうと言えなくもなかった。ただ、命に別状がないかどうかは別の話。
「美味しそうだよぉ?」
邪気なく微笑む魂の竜に変わらないなあと思う。悪気はないのだ。ただ、常識がない上に普通ならわかることを考えるだけの頭が足りないだけ。キラキラと期待を込めた瞳で見上げられたフェリシアは、困ってしまう。
「ありがとう、魂の竜。でも、今のわたしは味覚がないから……」
普通の人は食べたら死んじゃうと思うよ、とは言わずにそれだけ伝えた。
「あ、そっかあ……」
しょぼん、と肩を落とした竜は果実を地面に置いて、自身もそのまま座り込む。苦笑いして、フェリシアはその頭を撫でた。鱗はガサガサだし、撫で心地はあんまりだ。
しばらくそうしていると、意識がふっと遠ざかりそうになった。眠りの中に引きずり込まれるような感覚を、かぶりを振って遠ざける。何だか、フェリシアの魂はこの肉体にあまり馴染んでいないような気がしていた。そもそもが魂を移す、なんて初めての経験だから違和感があるのは当然のことかもしれないけれども。
創造の書は、空の竜が創作した聖歌だ。
フェリシアの魂を器に定着させる特別な歌。
しかし、歌い手の魂を壊し別人の魂を定着させる、というのは神の理に反してもいた。神は空の竜が創造の書を人に伝えることを許さなかったのだ。
だから空の竜は段階を踏んだ。まず創作した創造の書を編曲し、効果範囲内の幻妖種を殲滅する聖歌に作り変えた。そしてスタンフォード家に調律の才を与え、いつか再び創造の書が完成する日を待つことにしたのだ。
どのみち、神曲聖歌の力が完成するのには長い年月がかかるから、都合がよかったとも言える。
魂の竜の話では、フェリシアが眠りに就いてから九百年以上もの歳月が経過しているらしい。フェリシアの感覚では自分が眠ったのはつい昨日のことのようなのに。何だか不思議な気分だった。
フェリシアを知っている者は、もう七神竜しか残っていない。そのことは別にどうだっていいけれど。
――目が覚めたら、スタンフォードの後継と旅をするんだよ。きっとそのときには世界は君に優しくなっている。楽しい旅になると思うよ。
フェリシアが眠る前、空の竜はそう言っていた。それなのに。
「わたしは、もう要らないの……?」
この世界をあるべき姿に正すこと。それが七神竜が創ってくれたフェリシアの役目。でも、長い年月の中で変わってしまったのだろうか。
「何言ってるのさ、フェリシア。フェリシアがいないと、オルラントは救われないんだよお?」
「……うん。でも、シオンは……」
ごめんと言って、彼はフェリシアを拒絶した。どうしてフェリシアの手を取ってくれなかったのだろう。この身体の持ち主のことで怒っているのだろうか。フェリシアだって罪悪感がまったく無いわけでもない。けれど、レンハイムの血はこの為に継がれてきたのだし、器となった誰かはもう居ないのだ。
彼にはフェリシアと来る以外の選択肢はないはずなのに。
「気にする必要ないよぉ、あんな大罪人のことなんてさ~」
魂の竜ののんびりとした声は、フェリシアを安心させるには足りない。
「空の竜に、会いたいな……」
他の神竜のことだってもちろん恋しい。でも今は空の竜に一番会いたい。世界のことなら何だって知っている彼に大丈夫だよと言ってもらえれば、安心できるから。
「それは……」
魂の竜は困ったように顔をしかめる。
「わかってる。……無理だよね」
空の竜の本体は帝国の地下で夢の中。その意識はスタンフォードの長子の夢にしか介入することができないから、フェリシアが会えるのはまだまだ先のこと。
曇った魂の竜の顔から視線を空へと滑らせる。星空は、手を伸ばせば届いてしまいそうなくらい近い。
「空の世界は綺麗だね、魂の竜」
「うん。でも……」
物言いたげな竜にわかってる、ともう一度告げて、フェリシアは満天の夜空を見上げ続けた。
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