ゆずらない強情な態度に、エレノアは再びため息を吐く。
「では、あなたは調律師としてこの空に何を還元してくれるのですか?」
尋ねると、シオンが首を巡らせた。
彼の視線は、正面に立つアナティウム像で止まる。像の両手には聖術刻印が刻まれた金属の台座が掲げられており、そこには空を思わせる青の輝きを放つ水晶――譜面石が組み込まれている。
シオンが譜面石を台座から取り外すと、聖堂を照らしていた炎がすべて消え去った。エレノアの視界は真っ暗な闇に包まれてしまう。
聖堂内の松明にくべられた炎は、マリステラの中枢に設置されている夢幻機関から供給されるエーテルを動力に、譜面石を制御装置として灯っていたのだ。石を外してしまえば聖術は成り立たたず、炎はたちまち消えてしまう。
「目覚めろ」
静寂と暗闇のなかでシオンが指輪の印章を譜面石にかざし、そう詠じる。途端に彼の手の中で石が輝きを取り戻し、ふわりと宙に浮いた。
それから、水晶を中心にして手のひらより一回りほど大きな長方形の立体映像が現れる。演算機の電子画面に似たそれは、エーテルの粒子が寄り集って形成された、五線に音符が並んだもの。つまりは、楽譜。
更にはシオンの手元に、文字を打ち込むための手のひら大の出力鍵が。彼の持つ指輪は鍵器と呼ばれる譜面石を加工して作られた装飾品だ。楽譜を書き込むための外部出力器の役目を果たす、調律師にとっては必需品とすら言えるもの。
譜面石には、特殊な聖術を用いて楽譜そのものが封じられている。
採掘される譜面石は初めから楽譜として完成されているものもあれば、長い期間放置されたことによって傷つき、内部情報が破損しているものもある。あるいは譜面石を残した故人があえて暗号化させているものすらも。
欠けた音色と歌詞を想像し、術として完成させることもまた、調律師の腕の見せどころというわけだ。
譜面石に封じられた楽譜の種類を鑑定できれば調律師としては最低限。復元もこなせれば一流。そして一から作曲と作詞を行い、独自の聖歌を生み出すことができるのは、選ばれた才能を持つひと握りの人間だけだ。
「何色がいいですか?」
薄い光のなかで、シオンがそう尋ねてきた。何を訊かれたのかすぐにはわからなかったけれど、彼がちらりと燭台に視線を向けたので、明かりとなる炎の色だと判断できた。
「虹色、なんてどうでしょうか」
いままで虹色の炎なんて見たことがなかったので試しに言ってみた。
聖歌を一から作るのと変わりない作業なのでけっこうな難題なのでないかと思ったのだけれど、シオンは特に悩む様子も見せずに鍵に指を走らせ、音符を書き換えていく。
「これでいい、かな」
一つ頷いたシオンが再び台座に譜面石を戻すと、ぼう、ぼう、と燭台に再び火が灯り始める。
先ほどは違う、今度の炎の色は指定どおりの虹色。というより、一つの炎の色がどんどん変化していく。赤から青。青から緑。緑から黄色、という具合に。炎の色はぜんぶで七色。
「……お見事です」
一流の腕を持つ調律師ですら数ヶ月は悩みそうな工程を数分で終わらせてしまった。久しぶりに目の当たりにしたシオンの才能はやはりとんでもない。
「ぼくが教団に提供できるのは譜面石の鑑定と復元。それから、帝国が独占していた楽譜の共有。それでどうでしょうか?」
悪くない条件だった。彼の調律師としての腕は超がつく一流。鑑定に手間取っている多くの譜面石が日の目を見ることができるだろう。だが、それでも足りないものがある。
「あなたの創作した聖歌は? 称号を与えるには、独創楽譜を提供することが絶対の条件です」
「独創楽譜は……」
シオンの顔がみるみる曇っていく。彼の力量ならば独創楽譜の創作は問題ないはずなのに、なぜそれほど苦悩の色を浮かべるのか。
「聖歌を作るのは、今は……」
弱々しく吐き出された言葉に戸惑いながら、エレノアは妥協案を提示する。
「新しく創作せずとも構いません。あなたが過去に書いた楽譜はいくつかあるはず。それを提出してくれれば問題ありませんよ」
「……それも、できません。……ぼくの楽譜は、彼女だけのものだから」
エレノアの脳裏に、少年と仲睦まじく語らう、プラチナブロンドの髪を持つ愛らしい少女の姿が浮かんだ。
「ずいぶんと、わがままですね」
ため息混じりにぼやいてしまうと、シオンは表情を引き締めて、決然とした口調で言う。
「それでも、猊下は認めて下さるはずです」
「なぜ?」
「ぼくが、スタンフォードの姓を持つ調律師だから」
スタンフォード。それは帝国で特別な意味を持つ姓。
「……シオン。あなたは特別な人間です。神に愛され、空の竜の加護を受けし人。けれど、神は自らに近づきすぎたものに容赦をしません。神曲聖歌を求めることは、あなたの神から与えられた才能を穢すことに繋がるかもしれない」
シオンの調律師としての才能は素晴らしい。これからいくらでも賞賛を浴びることができるのだ。見つかるかどうかも定かではない楽譜探しに時間を無為にするのはもったいない。
「それでも、見つけないと」
少年の目には焦燥と、張り詰めた色がない混ぜになっていた。危うい色だと思う。だからつい尋ねてしまった。
「フェリシアは、どうしているのですか?」
「…………」
シオンは何も答えない。ただ、ほんの少しだけ瞳に翳りが増したように見える。それが、答えのようなものだろう。
そもそもが、おかしかったのだ。
帝国を裏切る道を生涯選ぶことはないであろうあの少女の側を、彼女の片翼たるこの少年が離れるはずはない。
「……シオン。喪った人を取り戻すことを、神はお許しにはならないでしょう。過ぎた望みはあなたへの神の祝福を呪いに変えることになるかもしれません」
エレノアなりの、精一杯の忠告だった。シオンは凪いだ水面のような瞳に思案の色を浮かべ、今夜何度目になるかわからない、否定の仕草を取る。
「……ええ、そうですね。でも、そうじゃないんです。ぼくは、その呪いを解きたいんです」
エレノアにはよくわからない言葉だった。
シオンが神曲聖歌を集め、何をしようとしているのかはわからない。けれど、その意志が曲げようのないものだということは明らかだった。
「一年」
「え……?」
「一年のあいだ、このマリステラで調律師の仕事をなさい。その実績を功績として、あなたに空の称号を与えましょう」
シオンは迷うような顔をする。一年自由を奪われるということが納得できないのかもしれないが、これがエレノアのできる最大限の譲歩だった。
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