迷子の幼子のように。途方に暮れた顔で水面を見下ろすシオンは、どうしていいのかわからないのだろう。
心許なさそうなその横顔は、初めて逢った日の彼を思い起こさせた。
どうしてルクレティアを空の旅に誘うのか尋ねたとき、彼は言った。ルクレティアが隣にいれば、最後まで投げ出さずにいられる、と。
何を思ってそんな考えに至ったのかはわからないけれど。あのときのシオンの言葉が真実なら、彼を支えるのはルクレティアの役目だ。
シオンと過ごした時間は一年と半年ほど。それが長いのか短いのかは、判断が難しい。シオンはルクレティアの一番の理解者で。彼女の心の機微にとても聡い。反対にルクレティアは、目の前のシオンにどんな言葉をかけるのが正しいのかすら、見出せない。
正解はわからないけれど。ルクレティアは自分の中にあるシオンを勇気付けたいという想いを、精一杯言葉に変える。
「あのね、シオン。わたし、シオンと旅をして色んなことを知ったわ。空の世界は綺麗だけど、不安なことがたくさんある。理由のある嘘と、ない嘘を付く人がいる。シオンに簡単にできることは、他の人にとってはすごく、難しい」
「…………」
シオンは自信を失くしてしまっているようだけれど。彼の才能は特別なもの。誰にもできないことがシオンにできるのは事実で、今はその彼の力が必要なのだ。
「魂の竜を目覚めさせないと、ロゼリアのお姉さんが殺されてしまうわ」
「…………」
「シオンは、ロゼリアが嫌い?」
「そんなこと、ないよ」
ようやく返ってきた答えに安堵しつつ、ルクレティアはロゼリアとの会話をなぞるように、告げる。
「シオンの怖い気持ちは……わたしにはたぶん、わかってあげられないと思うの。でも、できることがあるのにやらなかったら、後悔することになるってことは、わたしにでもわかるわ。シオンの苦しいことが増えるのは、わたし、哀しいわ」
「……魂の竜に聖歌を捧げることは、あくまで僕の憶測だよ? あっているかどうかもわからない。それに、もし成功しなかったら? 単に聖歌が気に入らなくて、目覚めてくれない可能性だって考えられるよ」
ルクレティアの知っている調律師としてのシオンは、ロゼリアと出逢ったときのように、普段の穏やかさが嘘みたいに不敵で自信たっぷりだった。
けれど、独創楽譜の件になると打って変わって弱気だ。その原因が彼の悲しい過去にあるのは理解できた。それでも、やっぱりシオンには前向きな気持ちになって欲しい。彼に再び自信を取り戻してもらいたくて、ルクレティアは真っ直ぐに言う。
「わたし、シオンの聖歌が好きよ」
彼は過去に作った聖歌を時間をかけて一つずつ、ルクレティアに教えてくれた。歌声以外に何も持っていなかったルクレティアにとって、シオンがくれた聖歌は、かけがえのない宝物だった。
のろのろと寄越された翡翠色の双眸と視線が交わると、ルクレティアは微笑んだ。
「歌うこと自体も好きだし、シオンのことも大好き。こんなにたくさんの好きが詰まっているのに目覚めてくれなかったら、魂の竜は見る目がないわ」
実際には聞くわけだからちょっと表現がおかしいかもしれないけれど、適当な言葉が出てこなかったのでこの際気にしないでおく。
ようやくルクレティアを見てくれたシオンの顔には、わずかに赤みが差しているようにも見えた。
単に夕日のせいかもしれないし、もしかすると、ルクレティアの真っ直ぐな言葉に珍しく照れているのかもしれない。
うろたえたように、ほんの少し泳ぐ瞳はいつもは大人びているシオンを年相応に見せて、ルクレティアは悪戯っぽく瞳を細めた。
「それからね、一つだけ訂正しておかないといけないことがあるの。シオンはずっと、勘違いをしているわ」
「勘違い……?」
「わたしが好きなのは、シオンの作った聖歌なの。聖歌なら何でもいいわけじゃないもの」
シオンの目が、大きく見開かれた。傾いた日を孕んで輝く彼の瞳は宝石みたいに綺麗だ。
予想よりも大きな反応が返ってきたことをルクレティアは不思議に思ったのだけれど、伝えたい言葉が他にあったのでまあいいか、と思い直す。
「わたしは、シオンの作る楽譜を信じてるわ。シオンは、わたしの歌う聖歌を信じてはくれないの?」
ルクレティアは聖歌を歌うために造られた機械人形なのだ。かつてシオンが自らの聖歌で大切な人を傷つけてしまったような最悪な事態は、起きようがない。
何よりも、シオンの聖歌が届かないなんてこと、ルクレティアはありえないと思う。魂の竜の意識に響かなかったのなら、それはきっと歌い手であるルクレティアの問題。
でも、シオンが同じように彼女を信じてくれるのなら。ルクレティアは自信を持って歌える。
「…………」
場を満たしたのは遠くで響く喧騒を際立たせるような、沈黙だった。
それがあまりにも長く続いたものだから、だんだんと居たたまれなくなってきたルクレティアは、おそるおそるシオンを上目遣いに見上げた。
「あの、シオン? やっぱり、こんな励まし方じゃダメかしら……?」
ルクレティアの何の根拠もない自信では、シオンを勇気付けることなんて無理だったのだろうか。
蜂蜜色の柔らかな髪を、優しく吹き抜けていく風に遊ばせて。
そっと俯いたシオンが、肩を震わせた。
「ふ、は、はは……っ」
次に顔を上げた時、返ってきたのは少年めいた無邪気な笑い声。何の含みもない、弾けるような笑い方だった。
屈託なく笑うシオンにびっくりしたルクレティアは、彼の滅多にない笑顔が見れた嬉しさよりも、笑われたことへの恥ずかしさが勝った。
「どうして笑うのっ? わたし、一生懸命考えて、シオンに元気になって欲しくて、それで……っ!」
「ご、ごめん。ちゃんと伝わっているよ? ありがとう。ただ……嬉しかったんだ。ティアはやっぱり、ティアなんだなって」
シオンはそう言って、はにかんだように笑う。
「忘れていたよ。そうだよね……最初から、そうだった……」
自分自身に言い聞かせるようにそう呟いた後、シオンはルクレティアに向けて微笑んだ。常の優しい笑顔とどこか違う。誰もが見惚れるくらいに綺麗な、蕩けるような甘い笑みだった。
「僕も信じてるよ、ティアのこと。僕が調律師になったのは、血筋のため何かじゃない。……君に惹かれたからなんだから」
後半の言葉は囁くようなもので、ルクレティアの下までは届かなかった。
何と言ったのか聞き取れなくて首を傾げた彼女に、シオンはくすりと笑みを零した。
「そろそろ宿に戻ろうか。帰って、聖歌を作らないと」
「うんっ」
ルクレティアがぱあっと、溢れんばかりの笑みと共に勢いよく頷くと、シオンはまた微笑んだ。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
シオンと並んで宿への道を辿りながら、ルクレティアはふと、彼の横顔を見上げた。
今日のシオンとの会話を反芻して気になったことがあったのだけれど、尋ねていいものなのだろうか。
「何?」
視線に気づいたらしいシオンが促すように瞳を細めた。何となく、彼との距離が今までよりも近づいた気がしたルクレティアは、この際だからと尋ねてみることにした。
「もしかして、シオンが神曲聖歌を探しているのは、フェリシアさんを生き返らせたいからなの?」
どんな願いだった叶うのなら、死者を蘇生させることだって不可能ではなず。シオンは無欲な人だし、彼の叶えたい望みなんてそのくらいしか思い浮かばなかった。
目を丸くしたシオンは、すぐに頭を振った。
「違うよ。言っただろう? 僕の隣にはティアがいる。僕にはそれで、十分だよ」
「嘘かもしれないわ」
ルクレティアの切り返しに、シオンは不服そうに眉根を寄せた。
「それも、言ったじゃないか。ティアをあの部屋から連れ出してから、僕がきみに付いた嘘はないって。これからもそうだよ」
飛行船でのシオンとの会話はルクレティアだってきちんと覚えている。
だからこれはほんの意趣返し。ルクレティアの精一杯の言葉を笑ったシオンへの。
「本当かしら?」
「本当だよ」
ルクレティアがわざと疑わしげにシオンを見上げると、珍しく拗ねたような顔が見えた。
今日のシオンは何だか子供っぽい。そのことがルクレティアは不思議と嬉しかった。
とと、と。シオンより一歩前に歩み出たルクレティアは、頭一つ分ほど上にある彼の顔を、覗き込んだ。
「ねえシオン。聖歌は作れそう?」
ぱちり、と目を瞬かせた彼は、
「さあ、どうかな?」
頼りない返事に反して、その顔には晴れ晴れとした笑みが浮かんでいる。
それが、シオンの答えだっ
読み終わったら、ポイントを付けましょう!