シオンとルクレティアが連れて来られたのは、街の北に佇む白亜の宮殿。磨かれた大理石の壁が陽射しを受けて煌々と輝く、美しくも荘厳な外観を持つ宮殿は、内装も洗練されていた。
少女は厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだと思ったのか、ウェルスーズの兵士の介入に早々に立ち去ってしまい、その事情は謎のまま。申し訳ないことをしてしまったけれど、成り行き上致し方ないと言えた。
荷物も剣も取り上げられ、謁見の準備が整うまで待つように言われたふたりは、応接間でくつろいでいた。
といっても、向かいのソファに座ったルクレティアはそわそわと落ち着きがない。
「そんなに緊張しなくても、取って食べられたりはしないと思うよ?」
見兼ねて茶化すと、ルクレティアはきょろきょろと部屋を見回して、心許なさそうに言う。
「……だって、こんなに豪華なお部屋は初めてなんだもの」
ビロードのソファはふかふかで、手触りも座り心地もすばらしい。大きな窓からはたっぷりと光が差し込み、壁の白さを際立たせている。
そよ風でゆれるレースのカーテンもテーブルにかけられたクロスの刺繍も品がよく、ふたりに用意された紅茶も茶菓子も高級品だ。
時折吹き込んでくる爽やかな風が心地よく、シオンにとっては居心地のいい空間なのだけれど、ルクレティアにとっては違うらしい。
「シオンは落ち着いてるのね」
「まあ、慣れてはいるからね。向こうではそれなりの身分だったし」
入口に例の騎士の青年が立っているので帝国の名を出すわけにはいかずに濁して答えると、ルクレティアはそうなのね、と相槌を打つだけ。
スタンフォード家は帝国で公爵の地位を戴いていた。
幼い頃から離宮に幽閉状態だったとはいえ、次代の担い手が生まれればシオンはお役御免となり、家督を継ぐことになるはずだった。なので、貴族としての教養と礼儀作法は徹底的に仕込まれたのだ。
ふたりのあいだで帝国に関する話題はほとんど上がらない。聞かれたら答えられる範囲で偽りなく話す覚悟はあるのだけれど、ルクレティアはシオンの出自に関することは尋ねてこない。気を遣ってくれているのか、単に興味がないだけなのか。たぶん、前者だろう。
部屋に侍女が顔を出すと、青年が一つ頷き、ふたりに声をかけてきた。
「お待たせいたしました。陛下の下までご案内致します」
促されて立ち上がると、青年がルクレティアを制した。そして、申し訳なさそうにつけ足す。
「陛下の御前には、シオンさまおひとりで、と言付かっておりますゆえ。あなたさまはこちらでお待ちください」
ルクレティアはすっかり緊張してしまっているし、ある意味ではありがたい。ただ、彼女をひとり残すのも懸念があった。
なぜ呼び出しを受けたのか。その意図がわからないままルクレティアをひとりにして何かあっては困る。
シオンの躊躇いを察したのか、青年がそっと付け加えた。
「ご心配なさらずとも、お連れの方に礼を失したことは致しません」
相手の態度はどこまでもへりくだったもので柔らかいけれど、結局のところ、シオンたちに選択権はないのだ。
「……わかりました。彼女をお願いします。それじゃあティア、少し話をしてくるから。大人しくしていてよ?」
この場に取り残されることが不安なのか、翳った瑠璃の瞳が物言いたげに見上げてくる。シオンはその小さな頭を軽く撫でて、部屋をあとにした。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
案内されたのは庭園だった。青年はここから先へはおひとりで、と告げて下がってしまい、シオンは生垣でできた小道に沿って歩いていた。
国花というだけあって、宮殿の庭園にもシルヴァリーの花が植えられているのか、薔薇の香りに混じって甘いにおいが漂ってくる。
アーチをくぐると、花壇で飾られた広い芝地の奥に蓮池が見えた。
石橋が掛けられた池の中央には四阿が設けられている。白い大理石で造られた円形の台座を柱がぐるりと囲い、日除けの屋根を支えていた。
小さな丸テーブルと椅子が向かいあうように置かれていて、そのうちの一つに紫色の髪を結いあげた貴婦人が腰かけていた。青いドレスも、身につけた装飾品もすべてが高級品。
橋のたもとまで進んだシオンは、その後どうするべきか迷った。
立ち尽くしていては不敬と取られてしまう。けれど、作法によっては帝国の貴族の出だとバレてしまうかもしれない。天上人は帝国の貴族にいい感情を持たないだろう。面倒事はなるべくなら避けたかった。
迷った末に、結局は女王に敬意を払うことを優先し、シオンはその場にひざまずいて頭を垂れた。それから、声がかけられるのを辛抱強く待つ。
「面をあげてくれ」
降ってきた声は麗くはあるが、男勝りだった。とはいえ、流石に威厳と気品が感じられる。
「初めまして。私がこのヴェルスーズの女王アウレラだ。会えて光栄に思うよ、空の調律師」
「もったいないお言葉、光栄に存じます。ヴェルスーズが太陽、女王陛下」
こういった場は慣れてはいるけれど久しぶりで、かしこまった話し言葉は舌を噛みそうになってしまう。
濃紫の瞳が細まった。
「発音が流暢だし、物腰も洗練されているね。君の素性は知らないけれど、家柄はよさそうだ。だが、性に合ってはいなさそうだね。楽にしてくれて構わないよ」
そう言われても、女王相手に気安い態度など取れるはずもない。ひざまずいたまま、シオンは次の言葉を大人しく待った。
「突然呼びつけてすまなかったね。君をここへ招いたのは、飛行船での経緯を小耳に挟んだからなんだ。幻竜を退けた英雄の顔を、ぜひともこの目で見たいと思ってね」
あの空での攻防は、すでに遠い日のできごとのように思えた。しかし、それだけのことでわざわざ騎士にシオンを探させたのだろうか。不審に思うと、女王は続けた。
「もしも私が君を宮廷付きの調律師として雇いたい、と言ったら……引き受けてくれるかい?」
どうやら、それが本題だったみたいだ。調律師は貴重だし、称号を授与された者はある意味では王族よりも尊い宝。手元に置きたがる為政者は多い。
「身にあまる光栄なお言葉ですが、僕には為さねばならないことがあり、一つどころに留まるわけにはいかないのです」
「この国に来た目的は、何かな?」
「陛下の不利益になるようなことではないかと」
シオンが慎重に言葉を選ぶと、女王はくすりと笑む。それから、ゆるやかに首を横に振った。
「ああ、誤解しないでくれ。君の腹を探りたいわけじゃないんだ。あの飛行船には我が民も多く搭乗していた。君が居合わせなければ、帰らぬ者となっていただろう。私なりに礼をしたいんだよ。何か力になれないかと思っているんだ」
社交辞令に過ぎない言葉だと思うけれど、咎めるつもりがないのであれば別段隠すようなことでもないだろう。
「僕は魂の竜の伝承を求めてこの国に参りました」
「神曲聖歌か。懐かしい響きだ。求めてどうするんだい?」
「調律師が伝説の楽譜を追うことに、理由が必要でしょうか?」
尋ね返すと、アウレラはくすくすと上品な笑みをこぼす。
「なるほど、正論だ。たしかに今のは私が無粋だったね」
す、とシルクの手袋に包まれた指が遠く彼方を示した。反射的に目で追ってしまうけれど、視界に入るのは緑が目に優しい自然と青空にゆったりと流れていく雲だけ。
「ルクシーレの東に、エーテル濃度が極端に濃い水晶谷と呼ばれる洞窟がある。その最奥に魂の竜が眠っている、という伝承が残されているんだ」
いきなり詳細な場所まで知れるとは思わなかったので、シオンは息を呑んだ。
「魂の竜が? 事実なのですか?」
「さあ、どうだろう? 私が知る限りでは実際に見たものはいないから。けれど、水晶谷の伝承が伝わっているのは事実だよ」
九百年ものあいだ謎に包まれている楽譜なのだ。当然と言えば当然の答えなので、シオンは特に落胆はしなかった。すると、女王は眉根を寄せた。
「……ただ、気を付けるといい。磁場が狂っているせいで方向感覚がなくなるのか、それほど深い洞窟でもないのに行方知れずになる者もいる。今は封鎖しているから滅多にないけれどね」
憂いげにそう零したあと、シオンに向けて微笑む。
「もし水晶谷に向かうのなら、私が立ち入りを許可し、兵に足を用意させよう。洞窟まで送らせるよ。大した距離ではないけれど、歩いて行くのを進めるのは忍びないからね」
「そこまでして頂くわけには――」
「言っただろう? 礼をしたい、と。大したものでもないけれど、力になれるのなら光栄だよ。それに、称号を持つ調律師に恩を売るのは悪くない」
シオンが辞退しようとすると、アウレラは朗らかに笑んでそんなことを言う。
何かが引っかかった。けれどそれが何かまでがわからなくて、シオンはもやもやとした気持ちを抱えてしまう。
話がうまく行き過ぎているから不安に思えてしまうのだろうか。
もし魂の竜の力が実在するのならば、それがどのようなものでも女王はシオンの手に渡るのは良しとはしないだろう。しかし、そもそも神曲聖歌の伝説を信じていない可能性のほうが高いし、本気で見つかるとは夢にも思っていないだろう。
シオンとしては別に空振りでも構わないのだから、行くだけ行ってみるのは悪くない。当初の予定では、書物でヴェルスーズの伝承を調べ上げ、片端から当たって行く算段だったのだ。候補が早々に上がるのは、悪い話ではないのだから。
しばし考えた末に、シオンは胸の奥のざわめきを押し殺し、深く頭を垂れ、陛下のお心遣いに感謝致します、とその申し出を受け入れた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!