王立図書館の地下を再び訪れたシオンは、水晶谷の伝承に関連する書物を片端から抜き取り、テーブルへと積み上げていた。一つ、気になったことがあったのだ。
山と積まれた本を順番に開き、最後のページを手繰り、発行された初版の年を調べ上げていく。
「一番古いもので奏空歴三〇四年か。ということは、水晶谷の伝承はだいたい六百年前から伝わっていることになるけど……」
魂の竜が最初に眠りについたのは、創世記の通りならば奏空歴〇〇一年。
つまり、三百年と少しの空白期間が存在することになる。それは、なぜだろう。
「聖歌を紛失したのが六百年前、とかなのかな? いや、だとしても、それまでの伝記が一つも残っていないのはおかしいか」
贄の制度がいつから始まったのかは定かではないけれど、幻竜を鎮める行為は九百年以上続く風習のはず。それなのに、伝承として記録されているのは六百年のあいだだけ。
三〇四年という数字をじっと見つめていたシオンは、ふと気づく。既視感のある数字だった。
「奏空歴三〇四年って、ヴェルセーヌ条約の結ばれた年?」
オルラントに住まうものなら誰もが知る条約の締結された年に違いなかった。
偶然だろうか。いや、それで済ませていては事態は好転しない。何か訳があるはず。きちんと考えなくては。
ヴェルセーヌ条約が結ばれたきっかけは、帝国の機械技術が進んだことで空と地上との行き来ができるようになったから。
条約で決められたのは、貿易、兵士の在中。他には?
シオンはピンときた。
「あ、そうか。ヴェルセーヌ語の公用語化か……っ」
浮遊大陸の民とて元は地上人。地域によって当然、使用していた言語は異なる。
ヴェルスーズもヴェルセーヌ語に統一されるまでは別の言語を用いていたはず。もしかすると、現代の書物には書かれていない情報が載っているかもしれない。
シオンはカウンターに座す司書に、水晶谷に関する、三〇四年より以前の資料がないか尋ねてみた。
こういうとき称号持ちの調律師という肩書きは便利なもので、普段なら許可されるはずのない求めにも応じてもらえる。
カウンター奥の倉庫に姿を消した司書が戻ってくると、手渡されたのは薄い冊子。絵本といっても差し支えないものだった。装飾がしっかりと施されていた為か、単に保管方法がよかったのか、埃っぽさはあっても本自体はそこまで傷んではいなかった。
「現代の水晶谷にまつわる伝記は、こちらの原本を複写、あるいは元にしたものだそうです」
司書の説明にお礼を言って受け取ったシオンは、さっそくページを開いてみて、すぐに顔をしかめる。
「う……」
肝心なことを失念していた。ヴェルスーズの古代語なんてシオンは読めない。
誰か代わりの読み手を探す必要があるが、六百年以上も使用されていない言語となると一般人には望めないだろう。専門的な誰かになるけれど。
ヴェルスーズに来て数日しか経っていないシオンにそのような伝手などあるはずもない。
挿絵と共に黄ばんだページに書かれた文字に困り果てていると、司書の女性がふと首を傾げた。
「空の調律師さまは、陛下とのご親交はございませんか?」
尋ねられたシオンは目を瞬かせる。
王族が称号持ちの調律師を重宝するのは当然のこと。しかし、アウレラを信じた結果、辛酸を嘗めることになったのだし、再び顔を合わせることになれば、あちらもシオンにどういった対応をしてくるのか読めない。
揉め事は、できることなら避けたいのだ。
しかし、背に腹は変えられない。
「まったくない、というわけではないですね」
シオンが頷くと、司書はにっこりと微笑む。
「アウレラさまは語学に堪能でいらっしゃいます。ヴェルスーズの古語にもお詳しいはずですよ」
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
無理を言って古代語とヴェルセーヌ語で書かれたそれぞれの本の貸し出しを許可してもらったシオンは、二冊の薄い伝記を鞄にしまい、そうして、再び白亜の宮殿を訪れることになった。
南中の日差しを受けてキラキラと輝く宮殿の門を守るのは、二人の兵士。
常識的に考えて一国の王に面会を求めるのは不可能だ。かなりの無理を通す必要がある。どうするべきか悩んだ末に、結局は自分の肩書きを最大限に利用することに決めた。こんな時のために、教主から称号をもらったのだから。
門兵に声をかけると、返ってきたのは案の定の答えだった。
「約束のない者を、通すわけには参りません」
「では、判断のできる者に取り次いでもらえますか?」
シオンが称号を示す銀の方位磁針を見せると、兵士の一人は慌てて宮殿へと姿を消した。
それから門の前に姿を見せたのは、あの日シオンを迎えに来た騎士の青年だった。
「申し訳ございませんが、陛下はご多忙のためお約束のない方とは面会できかねます」
口調はあいかわらず丁寧なもの。しかし、有無を言わせない雰囲気が孕んでいる。けれど、今回はシオンも引くわけにはいかない。
青年の瞳をじっと見据えて、強気に言う。
「陛下とお話ができないのでしたら、教団を通して正式に抗議させてもらうことになりますよ? ヴェルスーズの女王に殺されかけた、と。この国にアステルト教の敬虔な使徒がいないのなら痛くはないかもしれませんが、そうでないのなら、しばらくは暴動が続くことになるでしょうね」
この青年が幻竜の存在を認知しているかわからないので探りを踏まえて主張してみると、精悍な顔に動揺が走った。
「……陛下にとっても苦渋の選択だったのです」
どうやら彼はすべての事情を知っているらしい。もしかすると、高位の貴族なのかもしれない。
こちらは危うく死にかけたのだから酷い言葉だと思うけれど、ここで怒鳴り散らしても何にもならないし、問題を解決できればすべてが丸く収まる。
シオンは憤りを押し殺して、神妙な面持ちで頷く。
「理解はできますよ。だから穏便に済ませるために、こうして尋ねて来たんです。大ごとにはしないと誓いますし陛下を責めることもしません。ただ、陛下の知恵をお借りしたいだけです。取り次いで頂けませんか?」
シオンの懇願に、騎士の青年は渋々といった風に折れてくれた。
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