距離が離れてもルクレティアと意思の疎通ができるように、シオンは右耳の通信機のスイッチを入れた。
まずはあの幻竜にどの程度の術が効くのか、その見極めからだ。
ルクレティアにこの空間から出て通路に隠れているよう指で合図を送りつつ、シオン自身は幻竜の目の前に躍り出る。
気配に気づいた竜が、手慰みのように尾を上から叩きつけてくる。辛くも転がってかわしたシオンは、立ち上がりざまに前脚を狙い、剣を下から上へ斬り上げた。返ってきたのは、まるで岩を叩いたような感覚。思わず舌を打つ。
強靭な鱗に阻まれて、刃が通らないのだ。
「流石に硬いな……っ!」
並みの幻妖種ならばバターのように滑らかに斬り裂けるのだけれど。数百年の歳月を生き、人を喰らってきた幻竜の手強さは格が違う。
手のひらにじん、と痺れるような感覚が走り、舌を巻く。すると、周囲の気温ががくん、と下がった。
【――顕現せしは、幾千の氷刄】
ルクレティアが歌い終えた瞬間、幻竜を取り囲むように拳ほどの大きさの氷柱が出現した。冷気をまとった数十にも及ぶ鋭利な切っ先が、一斉に竜へと牙を剥く。
背後から迫った氷柱を、尾がまとめてはたき落とした。薙ぎ払われた氷塊はあっけなく砕かれて、無数の破片となり、ハラハラと落下する。
更に翼がばさりと羽ばたくと、生み出された烈風に照準を狂わされた氷柱は枯れ枝のような軽さで吹き飛ばされ、地面に落ちて音を立てて砕け散った。
その様を見送ったシオンは、ルクレティアが歌える膨大な量の楽譜から取捨選択をし、戦術を組み立てていく。
空で戦ったときに使用した投網は崩落の危険性があるし、範囲の広い術はこの場では最適ではない。威力と範囲を絞りつつ、幻竜の強固な鱗を崩せる聖術となると――。
「ティア、『酸雨』を」
それは、シオンが創作した対幻妖種用の楽譜だ。すかさず、ルクレティアの甘やかな歌声が通信機越しに鼓膜を震わせた。
【此に捧げるは天地の書。空の竜に選ばれし守人が創りし呪いの唄】
周囲のエーテルが変化する感覚を幻竜も捉えているのだろう。警戒しているのか、滑空したまま仕掛けては来ない。
【豊穣の竜が恵みし天水を断ち切るは業と呪いが混じりし泡沫の雨】
歌が進むに連れて大穴から吹き込んでくる風が湿りを帯びるのを、シオンは肌で感じ取った。乾いた土の匂いに混じって独特の雨の香りが鼻腔を掠める。
【降り注ぐは、異形を裁く神の恵み】
雲一つない夜空から、目視するのがやっとなほどの細かい水滴がしとしとと降り始めた。それは自然の恵みなどでは決してなく、ルクレティアの聖術による現象だ。
霧雨のような雨粒が突きだした水晶に触れると、表面がどろりと溶けだした。そしてそれは、エーテルの結晶だけには留まらなかった。幻竜の表皮に触れると、じゅわり、と何かが焼けるような音と共に白い煙が立ち上る。
グルゥ、と不気味な唸り声を上げた竜がイヤイヤをするように身をよじって、徐々に高度を落としていく。
『酸雨』はエーテルでできた物質だけを融解する聖術だ。
専門家の一説によると、幻妖種は肉体構成の七割をエーテルが占めているらしい。とはいえ、幻竜の表皮の構成物質に含まれたエーテルは微弱。なので、ダメージは今ひとつと言ったところ。実際、身体の至る所から煙を上げつつも、竜は無傷に見えた。
むずがった幻竜が後ろ足を地に付けるほんの数十秒ほどの間で、霧雨は止んでしまう。
よほど不快だったのか、殺気はますます膨れ上がり、地に降り立った竜の牙がぐわりとシオンに襲いかかってきた。
横っ飛びで顎をかわしざま、着地と同時に強く右足を踏み込み、竜の右頬を斬りつける。雨で柔くなった鱗は裂け、今度は傷がついた。
しかし、分厚い筋肉に止められてしまい、神経までは達しない。出血すらないため、幻竜からすれば大した痛みも感じてはいないだろう。
だが、刃自体は肉に達している。
――これなら問題ない、かな。
剣を引き戻し、一度距離を取ろうとしたところで、風切り音が響いた。鞭のようにしなった尾が横から迫る。咄嗟に剣の腹を立てて受け止めるが、流石に相手の膂力が違う。受けきることができずに、シオンは派手に飛ばされる形になった。
岩壁に激突するが、ギリギリのところで衝撃の瞬間に背後に跳んで勢いを殺していた為、大したダメージにはならない。
軽く咳き込んだ後に、シオンは次の一手をルクレティアへと伝えた。
「ティア、次で仕留めるよ。天地の書の一の三をお願い」
今度は独創楽譜ではなく、教団が公表している楽譜の一つ。
『どこを狙えばいいの……?』
入り口の陰から心配そうに攻防を見つめているルクレティアをちらりと見やり、首を横に振る。
「範囲の指定はいらないよ。自然に当たるから」
ルクレティアは一瞬怪訝な面持ちになるが、何も聞かずにシオンを信じてくれるらしい。すう、と息を吸い込んだ小さな唇から音がこぼれ落ちた。
【此に捧げるは天地の書。名もなき詩人が創りし裁きの唄】
彼女の術で詰められるかどうかは、シオンの力量にかかっている。
シオンの筋力も限界だ。左腕にあまり力が入らないし、片手で竜の圧倒的な膂力に抗うのはそう長い時間は保たない。チャンスは二度はない。
ルクレティアの歌に耳を傾けてタイミングを図りつつ、シオンは連なった水晶のあいだを三角跳びの要領で駆け上がり、比較的高度の高い岩の一つへと飛び乗った。幻竜の尾がすかさず岩を直撃し、足場を崩してくる。
しかし、その一撃を読んでいたシオンは岩が破砕される前に跳躍し、ふわりと幻竜の頭上に身を投げた。柄を両手で握り直し、剣の切っ先を下に向けて。落下の勢いそのままに、無防備な後ろ首に力一杯、剣を突き刺した。
これでも神経までは達しないが、筋肉に刃が食い込み、剣が突き立つ。振り落とされる前にシオンは柄に足をかけ、体重を乗せて跳躍。手近な岩へと着地し、
「ティアっ!」
両耳を塞いだシオンの合図とほとんど同時に、ルクレティアの術が完成した。
『――仇敵に、裁きの落雷をっ!』
天から降り注いだ一条の稲妻が、避雷針のごときシオンの剣に向かって一直線に落ちた。手のひらで遮断してもなお、轟音が鼓膜をビリビリと攻め立てる。剣に落ちた雷は雷撃となり、容赦なく幻竜の体内を灼きつけた。
肉の焼ける嫌な臭いと白煙が立ち上る。
いくら幻竜の鱗が強固でも、シオンの剣を通して体内に流し込まれた電流によって直接内臓を灼き払われてしまえば、防ぐ術はない。聖術によって生み出された雷撃は、筋肉はおろか神経までもを無慈悲に灼き尽くす。
巨体がびくり、と痙攣し、竜は断末魔を上げる暇すらなく絶命した。
「は……っ、……」
流石に、しんどい。頰を伝う汗を拭い、肩で息をするシオンの体力は限界寸前。野営の用意はしてあるとはいえ街までの道程を思うと気が重く、今すぐに宿のベッドで横になりたいくらいにヘトヘトだった。
「シオン、大丈夫っ?」
駆け寄ってきたルクレティアに何とか頷きを返し、竜の骸へ視線を移す。
幻妖種は絶命すると死体は空気に還元される。焼け焦げた肉体がぼんやりと輝きを放ち始めたかと思うと、次第に光の粒へと変わり、夜空へと消えていった。
――のだけれど。
骸が消え去ると、カシャン、と金属音を立ててシオンの剣が落ちた。それから、コロン、と。でこぼこの地面に転がり落ちたものがあった。
こつん、とブーツのつま先を撫でたそれを拾い上げる。
半透明な赤い石。内部で緋色の粒子が螺旋を描いて踊るその石は、色は異なるけれど譜面石に見えた。シオンの手元を覗き込んだルクレティアが、小首を傾げる。
「譜面石?」
「失礼だなあ〜。オイラの心臓と石ころを同列に扱わないでおくれよ」
どこからともなく聞こえてきた甲高い子供のような声に、シオンとルクレティアは顔を見合わせた。
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