狭い地下部屋に、少女は一人幽閉されていた。
目を覚ましてから一番最初に教えられたことは少女は自立型歌唱人形と呼ばれる兵器で、限りなく人に近いけれどこの体は人ではないのだということだった。
聖術と呼ばれる奇跡の御業によって造られた、人間そっくりの特別な体。人のために造られた人形。それが少女の存在理由。
月の光を溶かし込んだかのような長い銀の髪も。くるりとカールした繊細なまつ毛に守られた藍の瞳も、ぬくもりのある柔らかな白磁の肌も。それらすべてが、作りものでしかないのだと教わった。
鏡に映る黒のネグリジェに包まれた少女の姿はどこからどう見ても人のそれで、俄かには信じられなかった。
しかし、周りの大人たちが言うように、確かに少女は人ではなかった。
触覚はあるけれど痛みを感じることはなく、食事を取っていないのに飢えることもない。それでようやく納得した。機械人形というのはいまいちピンとこないけれど、少なくとも人ではないのだと。
少女は特別な役目のために作られた機械人形で、一日中部屋に閉じ込められていた。部屋から出たことは数えるほどしかなくて、少女の世界は天蓋付きの大きなベッドと、ずらりと並べられた本棚だけだった。
ある日の晩、少女の部屋に一人の訪問者が現れた。鉄扉の鍵を開けて入ってきた人物に、ベッドの上にぺたりと座ったまま、首をひねる。
「だあれ?」
薄闇に包まれた廊下の奥からやってきたのは、綺麗な男の子だった。おそらく十代半ばごろ。柔和な印象を受ける優しげな面立ちをしていた。
「ぼくは……」
少女が尋ねると、少年はとても悲しそうな顔になる。それがなんだか申し訳なく感じられて、いつものように疑問に思う。
少女は人形だ。
終末の書と呼ばれる特別な聖歌を歌うためだけに作られた存在。人形に心などあるはずがないのに、どうしてこんなにも感情豊かなのだろう。
「ぼくは、きみに頼みがあって会いに来たんだ。ぼくと一緒に来て欲しい」
「どこに行くの?」
「……空。この国のずっとずっと上にある、空の世界だよ」
空の世界のことは、本で読んだことがあった。真っ白な雲の上にあるという、六つの大陸と小さな浮島からなる空の世界はなんだか幻想的で、一度でいいから直接目にしたいと思ったこともある。
けれど、首を横に振る。
「わたしには、役目があるの。ここから出ることはできないわ」
「それは、終末の書を歌うこと?」
「……どうして、知ってるの?」
少女はびっくりした。この帝国でそのことを知っている人は少ないと教えられていたからだ。
終末の書を歌えば、広範囲の幻妖種を一気に殲滅することができる。
しかし、終末の書はとても難しい曲で、術が成功したことはないらしい。
少年は、少女の疑問には答えてくれなかった。
「この国のことは、よく知ってる。明日、きみが終末の書を成功させるために人格を消されちゃうってことも知ってるよ」
少女が造られてから、一年以上が経過しているらしい。少女の記憶は定期的に削除されていて、古い記憶はひと月前までしか遡れない。
その一年のあいだに終末の書が成功したことは当然なく、この国の皇帝はそれを機械人形にはふさわしくない人格が備わっているからだと考えているらしい。だから明日、少女は特別な処置を受けて自我を消してもらうのだ。
「きみは、それでいいの?」
「機械人形に自我があることがおかしいんだもの」
機械人形は読んで字のごとく、機械だ。感情など本来は持ち合わせてはいないのだ。
「……それは、きみが特別な機械人形だからだよ。きみがきみじゃなくなってしまったら、終末の書は余計に成功しなくなると思う」
「でも、陛下は……」
「自我を消されても、終末の書が成功しなかったら? きっと後悔することになるよ」
少年の言葉にずっと押し込めていた不安の種が芽吹いて、少女はだんだんと怖くなってくる。それでも、初めて目を覚ましたときに教えてもらった言葉を思い出せば、怯むわけにはいかなかった。
「……機械人形は、人の役に立つために造られるものなのでしょう? わたし、誰かの役に立ちたいの」
役に立たなければ廃棄される。それが機械人形の運命だ。少女も終末の書を成功させることができなければ、そうなるだろう。
いらない、と捨てられることは想像するだけでとても怖い。
「それなら、ぼくを助けてくれないかな?」
少年は縋るような眼差しで少女を見つめてくる。
「ぼくは、どうしても空の世界に行かないといけない。でも、ぼく一人じゃ帝国を出られない。きみの力を貸して欲しい」
「でも、役目が……」
「ルクレティア」
少女は息を呑んだ。
――ルクレティア。
それは紛うことなき少女の名で、記憶を削除されてもなお覚えていた唯一の宝物。けれど、どうしてこの少年はそのことまで知っているのか。このひと月のあいだでその名を呼ばれたことは、一度たりともないと言うのに。
「お願い。ぼくと一緒に来て」
差しのべられた手のひらに、少女の心は迷った。自分がいなくなったらこの国はどうなってしまうのだろう。
他にも終末の書を歌うための機械人形は存在するのだろうか。
目の前の少年が心の底から自分を必要としている、ということは確かな気がする。しかし、だからと言って役目を放り出すわけにもいかない。
少年の頼みを引き受けることも突っぱねることもできずにいた少女は、おずおずと尋ねた。
「どうして空の世界に行きたいの?」
こんなに必死になって少女を連れて行こうとする理由は何なのだろう。
「ぼくには、どうしても叶えたい願いがあるんだ。そのために空の世界にある神曲聖歌を見つけないといけない」
空の大陸を創造するために神が創ったとされる神曲聖歌は七つあって、それらすべてを集めて一つの曲にすると何でも願いが叶うという伝承がある。
けれどそれはおとぎ話の類で、九百年のときの経過で帝国以外の神曲聖歌は失われてしまったと、本で読んだことがあった。
「神曲聖歌は、ただの伝説だわ」
少女が冷静に指摘すると、少年は首を横に振る。
「帝国には残ってるんだ。他の国だってきっとある。幻なんかじゃないよ」
「そうかもしれないけど……やっぱりだめよ。一緒には行けないわ」
少女もまた、首を横に振る。少年の叶えたい願いが何かは知らないけれど、そんなあやふやなことのためにこの国を出ることはできない。
申し訳なさからつい俯いてしまった少女の視界に、ぱたり、と。毛足の長いよもぎ色の絨毯に染みができるのが映った。顔を上げて、息を呑む。
目の前に立つ少年が、泣いていたからだ。
自分はそんなにひどいことを言ってしまっただろうか。予想外のことにオロオロしていると、伝い落ちた涙に少年もまた、驚いた顔になる。そろそろと自身の目元に手を伸ばし、
「ごめん、びっくりしたよね」
こぼれ落ちた涙に少年の方がびっくりしているようだった。彼は手の甲でぐい、と涙の雫を拭う。
「どうして泣くの……? わたしが、あなたの頼みを断ったから?」
「これは、その、違うんだ。そうじゃなくて……」
少年自身もよくわかっていないようだった。
すでに涙は引っ込んでいて、擦った頰がわずかに赤くなっているだけ。しばらく悩むような間を置いた後、少年はぽつりと零す。
「ぼくは……不安なんだ、すごく。これからやらないといけないことを考えると……怖くて、どうしていいのかわからなくなる。いっそ全部投げ出してしまえたらって思うくらい。……そんなの、許されるわけないのに」
囁くように吐き出された言葉はひどく苦しげだった。少年の事情がよくわからないので、少女は素直に尋ねてみる。
「そうまでして叶えたいお願いって、なあに?」
「……どうしても、取り戻したいものがあるんだ」
まっすぐに見下ろしてくる翡翠色の瞳は真摯で、真剣そのもの。
「どうしてわたしを誘うの?」
「……きみが隣にいてくれたら、最後まで投げ出さずにいられるって、思うから」
「わたしが? どうして? わたしのことをどうして知っていたの?」
「……きみのことは、最初から知ってるよ」
答えになっているようで、まったくなっていない。少女が困惑から眉をひそめてしまうと、少年は微かに表情を和らげて言う。
「きみの歌おうとしている終末の書は、ぼくが作った聖歌なんだ」
びっくりしすぎて、深く考えないままに尋ねてしまう。
「あなたは、神さまなの?」
目を丸くした少年は、途端に声を上げて笑い出す。無邪気で、年相応な明るい笑みだった。
「違うよ。ぼくは他の人よりちょっと聖歌を作るのが得意なだけの、ふつうの人間。ええと、どう説明すればいいのかな。きみの知ってる終末の書は確かにラグナロクなんだけど、神曲聖歌の創造の書とは違って……つまり、名前が同じなだけで本物の神曲聖歌ではないってこと」
そうだったのか。何となく納得した少女は、すぐに申し訳なさからしょんぼりと肩を落とした。
「あの、ごめんなさい。わたし、あなたの作った曲をうまく歌えなくて」
「……きみが謝ることは何もないよ。陛下や宰相たちはムキになって色々試しているみたいだけど、あの曲はきみが歌うべき聖歌じゃないから」
「どう言う意味?」
少年はためらうように一度口を噤んだ。それから、意を決したように答えをくれる。
「……きみの知っている終末の書は、ある人のために書いたんだ。だからその人じゃないと歌えない。想定している歌い手が違うから、誰が歌っても術式が成立しないんだよ」
どうして最初にそれを言ってくれないのかと思ったけれど、感じたのは腹立たしさよりも強い落胆の気持ちだった。
「それじゃあ、わたしはこの先もずっと終末の書を成功させることはできないのね」
それはつまり、少女の存在には何の意味もない、ということだ。
ショックで何も言えない少女をじっと見つめていた少年は、
「……ぼくと、取引する?」
顔を上げると、少年は硬い面持ちで続けた。
「きみがぼくと一緒に来てくれるのなら、ぼくは終末の書の楽譜を書き直すよ。時間はかかると思うけど、きみが歌えるようにする。ぼくとの旅が終わったら、ここに帰ってきて新しい聖歌を歌えばいい」
一息にそう言った後、少年は申し訳なさそうに続けた。
「ごめんね。すごくずるいことを言ってるのはわかってる。でも、今のぼくにはこれが精一杯なんだ。どうする、ルクレティア?」
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