視界の端でちぎれた雲が高速で流れて行き、銀灰色の翼が太陽の光を浴びて輝いていた。
飛空艇の助手席に座ったシオンは、操縦に集中する隣の男を見やった。
ガリアン・ハーバード。それが男の名前。館があった浮島はサージェント家が所有しているものらしく、この飛空艇も資産の一つ。当主亡き後は執事頭を務めてきたハーバード家が館の管理をしてきたのだと教えてもらった。
ハーバード家といっても残っているのはこのガリアンだけで、ロゼリアとの再会後は彼も空の解放軍に身を置くようになり、サージェント家の屋敷は本家も含めてもう誰も残ってはいないらしい。
ガリアンの見た目は由緒ある一族の使用人という身分からはかけ離れているけれど。
視線に気づいたのか、男がちらりとこちらを見てきた。
「で? どうするつもりだよ、空の調律師サマ?」
マリステラで調律師の仕事をしていたときにはよく使われていた呼び名だけれども、最近では機会が減っていたせいか、むず痒い。苦笑し、
「できれば僕のことは名前で呼んでもらえると嬉しいです。ガリアンさん」
やんわりと訂正してから彼の質問に答える。
「フェリシアはロゼリアがあの体に慣れるまで三日はかかると言っていました。ルクシーレが襲われるまで猶予はありますし、まずは陛下に報告して住民を避難させないと」
主家の娘であるロゼリアを助けたいガリアンとフェリシアを見つけ、ヴェルスーズを守りたいシオンの利害は一致している。だからこうして協力している。
「けどよ、帝国の兵だっていやがる。避難には賛同するだろうが、お嬢を攻撃するかもしれねえぞ……」
戦術如何によっては幻竜を倒すことはできるだろう。余所者のシオンにすべてを託すより自分たちで退治よう、とヴェルスーズの重鎮が決断するのは当然の流れだし、よしんば彼らが納得してくれたとしても、帝国兵が頷かない可能性は高い。
「街に常駐している帝国の責任者は僕が説得できます。ヴェルスーズの出方は読めませんけど、陛下に理解してもらうのは難しくないと思います」
彼女には贄の件で負い目がある。シオンが事態の収拾を引き受けるなら臣下の説得を含めて引き下がってくれる可能性は高いだろう。帝国のことは問題ない。
シオンの意見に、ガリアンの顔から懸念は消えない。その心中は察せる。
問題なのは。
「お嬢を元に戻せるのか……?」
魂の竜の力で変異してしまったロゼリア。彼女の心を救うにしても、まずは肉体を人のものに戻せなければ始まらないのだ。
「断言はできませんけど、魂の竜の原曲さえわかれば、編曲してロゼリアを元の身体に戻せるはず……」
人を幻妖種に変異させるという聖術は今のシオンでは創り出すことはできないし、その逆もしかりだ。人は神の領域に踏み込むことはできない。
しかし、曲さえわかればイメージを掴み、術の効果を反転させるくらいのことであれば、シオンの手に届く。
終末の書から創造の書を完成させたときのように。
――どのみち、魂の竜の編曲すらできなかったら、僕は空の竜との約束を果たせない。
「信じられねえ話だが、空の称号はそれだけすげえってことか。おめえさんを信じるが、肝心の聖歌は誰が歌うんだ? 聖歌を扱える聖術師なんざヴェルスーズにはいやしねえ」
例え聖術師がいたとしても、シオンはその誰かに楽譜を託すことはできない。シオンの曲は、彼女だけのものなのだから。
「ティアに歌ってもらいます」
「あのお人好しのお嬢ちゃんはもういねえだろう。フェリシアが目覚めちまったんだからよ」
眉をひそめたガリアンに、シオンは首を横に振る。
「今のティアはフェリシアの状態と同じですよ。肉体の主導権が切り替わって彼女の意識は眠っているだけです」
「そいつは……首魁の話とは違うな。フェリシアが目覚めたらお嬢ちゃんの自我は完全に消える。それがあの方の見解だったぜ。創造の書ってのはそもそもそーいう術なんだろ?」
「前提が違うんですよ。あの身体は元からフェリシアの器には適していないんです。だからフェリシアの意識は帝国で覚醒しませんでしたし、今だってティアの自我は消えたりしていない」
シオンの否定にガリアンは訝しげな面持ちだったが、理解することは諦めたのかもう何も言わなかった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
ヴェルスーズに到着したのは、日が沈みかけた暮れ方のこと。ルクシーレの港に飛空艇を預け、身分証明を終えて街に入ると、ガリアンは安価な宿に泊まると言って早々に雑踏の中に姿を消してしまった。
ぽつぽつと明かりの灯り始めた広い通りを、シオンは一人で歩く。隣に馴染んだ体温はなく、無邪気な女の子の声も聞こえない。
ガリアンにはああ言ったけれど、シオンだって不安だ。ルクレティアの意識はまだ残って居るはず。それは半分は根拠があっての言い分だけれど、もう半分はシオンの願望に過ぎない。
一つの肉体に宿せる魂は一つだけ。
だからフェリシアの魂の定着と共に器となった少女の魂は失われる。フェリシアが目覚めなかったから、空っぽの人形を動かすためにルクレティアという自我が生まれた。
それが帝国で儀式に立ち会ったものたちの見解だし、推察するに、エリックたちに助言をしているだろう神竜も同じ結論だったようだ。
けれど。
――だあれ?
今となっては懐かしさすらあるルクレティアからの問いかけが、耳の奥で響く。
あの日の自分が感じた感情だけがシオンの寄る辺。この広い世界でシオンを先導してくれる人はいない。シオンが自分で何とかするしかないのだ。だから迷ってなんていられない。叶えたい望みがあるのなら、自らの力で手繰り寄せるしかないのだから。
遥かに延びた公道の両脇には屋台と出店がずらりと並んでいて、喧騒と一緒に食べ物の匂いが運ばれてくる。この中にあっては街を彩るシルヴァリーの香りは遠い。
花屋や占星術、アクセサリや衣服に至るまでの様々な店が呼び込みをしていて、群がる客で街は昼と変わらず賑やか。
明るい街並みに、シオンは複雑だ。
この人たちは何も知らない。この街並みを、ロゼリアはどんな想いで見ていたのだろう。彼女の苦しみを思うとやるせなくて、世界は平等じゃないのだと痛感する。
胸を重くする切なさは、ふと感じた気配で霧散した。張り付くような視線を感じたのだ。
――付けられてる?
少し考えてから、人通りの少ない道を選び、入り組んだ路地をいくつか曲がってみた。気配は離れない。歩調を早め、道を曲がった先でシオンは剣の柄に手をかけ、背後を振り返った。
足音が近づき、人影が姿を見せる。
シオンは驚いた。女王の差し金かなと見当を付けていたのだけれど、現れたのは何てことはない少女。いや、女性という表現の方が適当か。
年はたぶんシオンと同じくらい。フリルで飾られた白のブラウスに紺のマーメイドスカートという、珍しくもない格好。明るい赤毛が後頭部で一つに結われ、ボリュームのある髪は背中をふんわりと覆っていた。
顔立ちは凛としていて、可愛らしいというより美しいという形容がふさわしい、なかなかの美人。
「僕に何か用かい?」
琥珀色の瞳と目が合うと、シオンは困惑と共に首を傾げた。形のいい桜色の唇が何かを言いかけ、ハッと息を呑む。シオンも気づいた。
慌てて背後に飛び退ると、一瞬前まで立っていた空間を、真上から降ってきた何かが斬り裂いた。風を切る音が響き、
「へえ。調律師なんて戦えないもやし野郎ばっかりだと思ってたが。結構やりそうじゃん」
ひゅん、と槍を振るい、襲撃者の青年が口の端を持ち上げた。
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