ルクシーレの街を全速力で駆けたシオンは、時計塔へと辿り着いた。正六角柱の建物は煉瓦で造られていて、高さは六十メートルはあるだろう。扉を押し開け、内部に入る。螺旋階段を一段飛ばしで駆け上がり、階段の終わりに着くと、時計盤のはめ込まれた踊り場から屋上へと伸びた梯子を登る。
乱れた息を整えると、吹きさらしの屋上の端に立っていた少女――フェリシアが振り返った。下から吹き上げてくる風に乱れる髪を押さえながら、フェリシアは微笑む。
「よくここがわかったわね」
「ある女の子が予言をくれたんだ」
フェリシアは不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑みを浮かべて手を伸ばしてくる。
「行きましょうか。次の神曲聖歌を探しに」
シオンは首を横に振る。
「僕は君とは行けない。それに、その身体は君のものじゃないよ。元の持ち主に返して欲しい」
「それは無理だわ。この身体の持ち主はもう居ないんだもの」
歌い手の魂を壊す。
それが、創造の書の力。あの日の光景がシオンの脳裏に鮮明に映し出された。
悲鳴を上げて倒れた幼馴染。咄嗟に駆け寄った自分。それから――。
「本当にそうかな? 君も気づいているんじゃないかい?」
フェリシアの顔が曇った。青褪めた顔色に、シオンは確信する。
ずっと曖昧だった希望がフェリシアが目を覚ましたことによって確信へと切り替わったのだ。
「何があったの……? どうしてあなたはそんなことを言うの? 空の竜が創った楽譜に、間違いがあるはずないわ」
「そうだね。空の竜が創る楽譜は完璧だ。でも、神さまにだって予想できない事態はあるよ」
楽譜は完璧だった。それは間違いない。だから空の竜はシオンを稀有なる天才と評した。しかし、だ。楽譜が正しくても、歌い手がそうではなかったら?
「フェリシア」
落ち着かなさそうに瞳を揺らすフェリシアに、ゆっくりと尋ねる。
「レンハイムの長女には、君の名前を贈るしきたりがある。その理由は?」
レンハイムの長女は代々フェリシアという名を与えられる。このしきたりには確固とした意味がある。
「そんなの、わかりきったことでしょう? 歌い手が自我を持ちすぎないようにするためよ。創造の書によって壊れる魂に名前を付けてしまったら、万が一、が……」
青空のような瞳がたちまち凍りつく。その顔に理解が及んだのを見計らって、シオンは頷いた。
そう。それが問題だった。歴代のレンハイムの長女にフェリシアと名付けるのは、創造の書を成功させるための条件の一つでもあったのだ。同じ名を与えることで、魂の結びつきを強めるのかもしれない。
悲鳴を上げ、倒れた幼馴染にシオンは呼びかけた。
「儀式の日、僕は無意識に彼女の名前を呼んだ。だから君の意識は覚醒しなかったし、術は不完全なままなんだ」
――ルクレティア、と。
くずおれた彼女にシオンはそう、呼びかけたのだ。
初めて会った日、ある女の子が泣いていた。みんな同じじゃ、名前の意味がない。そう泣きじゃくっていた。フェリシアと呼ばれることを彼女は嫌がっていた。
シオンが誤ってフェリシア、と呼ぶと、その呼ばれ方は好きじゃない、なんて拗ねていた。だから、ふたりきりのときだけは名前で呼ぶようにしていた。
何を以てルクレティアとするのか。そんなものシオンにだってわからない。その人をその人足らしめるモノはなんなのか。記憶か、魂か。わからない。わかるはずもない。
あの日――ルクレティアと再会した日。
シオンの心は迷っていた。
ルクレティアはルクレティアなのか。それとも魂が壊れるという聖歌のとおりシオンの幼馴染はもういなくて、空っぽの器に芽生えた別人なのか。
――だあれ?
その一言がどうしようもなく悲しくて。だから名前を呼んだ。彼女は応えてくれたし、シオンが呼ぶ以前からその名を認識していた。それは偶然なのか、必然なのか。
共に過ごすにつれて、見えてきたこともあった。何気ない表情や仕草に笑い方。それから恥ずかしい台詞をまっすぐに言えてしまう素直さも、シオンの聖歌を全力で愛してくれるところも。
何一つとして変わらない。彼女は間違いなく、シオンの知っているルクレティアだった。
根拠は、己の直感だけ。今のルクレティアのことを、シオンは幼い頃と変わりなく大切に思っている。だから失いたくない。
「この世界の未来のために、わたしは必要なの。ずっとずっと昔から、決まっていたことなのよ。そのための、神曲聖歌なんだから」
ロゼリアにしたことはともかく。この件に関して、フェリシアは何も悪くはない。彼女にとってはひどい話だろう。長いあいだ眠っていて、いきなり必要ないなんて突き放されるのだから。
それでもシオンは、ルクレティアに隣にいて欲しいのだ。神曲聖歌はフェリシアにしか歌えない。彼女がいなくては、幻妖種という脅威はなくならない。だから。
「だから僕が、神曲聖歌を編曲する。君じゃなくて、ティアが歌うべきものに」
そんなことができるのか、わからない。でも、やらないといけないのだ。
見慣れた――けれどまったく異なる色を灯す瑠璃の双眸が見開かれ。小さな唇が震える。
「傲慢だわ、シオン・スタンフォード。それは神の定めた理から逸脱してる……」
「九百年以上も前の理なんて知らないよ。ティアを犠牲になんてさせられない」
――わたしの名前には、どんな意味があるの?
無邪気に尋ねてきたルクレティアからの問いを、シオンは笑って誤魔化した。ティアが調べた方がいいよ、と。本当は、ルクレティアという単語はアステルト語でも、ヴェルセーヌ語でもない。どんな辞書にも載っていないだろう。
魂の竜を目覚めさせるために作った聖歌の最後にルクレティアと綴ったのは、せめてものメッセージだった。
真実を、シオンはどうしても話せなかった。何がきっかけでフェリシアの意識が目覚めるかわからなかったからというのもある。だから創造の書どころか終末の書すら歌わせないようにしてきたし、フェリシアの名前も出さないように気をつけていた。
でも、一番の理由は、怖かったから。
高濃度のエーテルの影響で変わってしまった髪色。成長しない身体。味覚がないから何も食べられないし、痛覚がないから怪我をしても本人は無自覚だ。睡眠を取れないから夜はずっと一人で、シオンは本当は気づいていたけれど。でもルクレティアが彼を気遣って一生懸命隠そうとしているから、知らないふりをしていた。
彼女をこんな風にしてしまったのは他の誰でもないシオン。どうしようもない罪悪感で、目を背けたくなる。真実を知った彼女に憎まれたら。詰られてしまったらと想像するだけで身体は震えそうになるくらい怖いのに。
ルクレティアが居てくれないと、シオンは心が折れそうで、前に進めないのだ。
何より、ルクレティアを、シオンは失いたくなかった。物心ついた頃から側にいた大切な幼馴染。シオンのすべては彼女のためにあるのだから。
今にも泣き出しそうに歪む愛らしい顔。フェリシアに寄り添ってあげられなくて申し訳なく思う。できれば力になってあげたかった。
だが、ルクレティアかフェリシア。そのどちらかを選ばなくてはいけないというのなら。シオンの答えは最初から決まっているのだ。
ごめんね、と心の中だけで呟き。
あの日。狭い地下部屋で再会したときと同じように。少女に向けて手を差し伸べる。万感の想いと愛しさを込めて、
「迎えに来たよ、僕の片翼」
幼馴染の魂へ向けて、呼び掛けた。
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