ぱたん、と。寂しい音を響かせて閉じた扉をじっと見つめて、ルクレティアはため息を零した。
シオンはどうあってもルクレティアに甘えてはくれない。力になりたいのに。悩んでいることがあるのなら、相談して欲しいのに。ルクレティアがどれだけ強くそう願っても、シオンは何も言ってくれないのだ。
シオンはルクレティアの悩みなんて容易く見抜いて優しく導いてくれるのに。ルクレティアには、同じことは到底できない。
これ以上、踏み込むべきではないのだろうか。
責任感の強いシオンのことだから、きっと悩みながらも聖歌を完成させようとするだろう。一人で苦しむシオンを側で見ているだけだなんて、想像するだけで悲しくなってしまう。
どうすればいいのだろう。シオンの心の内を強引に暴いては、彼を傷つけてしまうことになる。
それは、何のために?
神曲聖歌を手に入れるために。それはシオンの目的。ならば、その傷を彼は受け入れるべきなのかもしれない。
しかし、ルクレティアの目的はシオンの力になること。旅を共にするようになってからずっとルクレティアが避けていたシオンの過去に触れるのならば、それは何のためなのだろう。
答えが出なくてソファの上で膝を抱えてぼんやりと扉を見つめていると、コンコン、と。静まり返った室内に乾いたノックの音が響いた。
シオンが帰ってきてくれたのだろうか。弾かれたように立ち上がったルクレティアが取っ手を回すと、廊下に立っていたのはロゼリアだった。三日振りに顔を合わせる人物の訪問に、ルクレティアは目を丸くした。
「ロゼリア? どうしたの?」
廊下の窓から差し込む陽の光を孕んで輝くキャラメル色の髪を指でくるりと弄びながら、ロゼリアはちょっとだけバツの悪そうな顔になる。
「その、せっかく姉さまが助かる方法を見つけてくれたのに、動転していて失礼な態度を取ってしまったから。二人に謝りたくて来たんだ……」
シオンの話を聞いたとき、ロゼリアの様子はどこかおかしかった。しかし長年の生贄に意味がなかったヴェルスーズの歴史を思えば動揺するのは当然のことだろう。ルクレティアは微笑んだ。
「気にしてないわ。でも、ごめんなさい。シオンは今出かけているの。いつ帰って来るかはわからないわ」
「そうなの、か……」
安堵とも落胆とも取れる吐息をこぼしたロゼリアが、ルクレティアを見下ろしてふと、首をかしげた。
「何かあったのか?」
「え、ど、どうして……?」
返事はどもってしまった。こういうとき、ルクレティアは素直な自分にうんざりしてしまう。ロゼリアは口の端を得意げに持ち上げた。
「ルクレティアは、感情がはっきりと顔に出る。しょぼくれているのが丸わかりだ。どうしたんだ?」
聖歌の創作が間に合わないかもしれない、なんて正直に言ってロゼリアを落胆させてしまうのはよくない気がする。シオンが聖歌を完成させることができなければ、ロゼリアの姉が犠牲になるのは避けられないのだ。
そこでルクレティアは気づく。
そうだ。魂の竜を目覚めさせるのは神曲聖歌の一つを手に入れるためだけれど、同時にロゼリアの姉を救うためでもある。
しかし、肝心のロゼリアの姉の人物像を、ルクレティアは何一つとして知らなかった。シオンを傷つけることになっても助けるべき人のことをまったく知らないままでいるのは、よくない気がする。
「あのね、ロゼリアのお姉さんは、どんな人?」
見上げた金緑の瞳が大きく見開かれた。
「姉さまは……」
ロゼリアの視線が彷徨い、沈黙が続いた。
「なぜ急に、姉さまのことを知りたがるんだ?」
今まで尋ねなかったのは、ロゼリアが家族の問題で悩んでいるのが察せられたからだ。踏み込まれたくないことだとわかったから、ルクレティアもシオンもあえて尋ねることはしなかったのだ。しかし。
「シオンが苦しい想いをしても助けないといけない人のことだもの。何も知らないままなのは、ダメだと思うの」
シオンを傷つけてでも救う人のことを、ルクレティアは知っておきたいと思うのだ。
「……私とは、正反対の人だ。聡明で貴族のお嬢様らしい、可愛いらしくて誰からも好かれる人。それに、私が騎士になりたいと言ったら両親を説得してくれた、いつでも私の味方の、自慢の姉だ」
声音には隠しきれない照れが混じっていた。それでもはっきりとした答えに、ルクレティアは目を瞬かせる。
「ロゼリアは、騎士になりたかったの?」
「ほんの子供の頃の話だ。幼心に、姉さまのいるこの国を守りたいと思っていたんだ」
「でも、ロゼリアは騎士にはなっていないでしょう?」
ヴェルスーズの騎士にどうすればなれるのかなんてルクレティアには見当も付かないけれど。ロゼリアがそうでないことはわかる。
「……五年前に、両親が他界して私の世界は一変したんだ。それで……」
ロゼリアの両親がもういない。そんなことまったく気づかなかったから、悲しげな彼女の表情にルクレティアの胸は傷んだ。
しかし、ふと疑問が湧いた。それなら、サージェント家の当主は誰なのだろう。ロゼリアには男の兄弟もいるのか、それとも姉はすでに結婚しているのか。ロゼリアはシオンと同じくらいの年だろうし、その可能性は高いだろう。
ロゼリアの姉に夫がいるのなら、贄の件に意を唱えはしないのだろうか。
「少し、後悔している。私は父とも母とも折り合いが悪かったが、失ってから、もっとよく話し合うべきだったのではないか……と思うことがある」
ぽつりとそう零したロゼリアの儚げな笑みにルクレティアの意識は持っていかれ、生じた疑問は胸の奥底に沈んでしまった。
「ルクレティアが落ち込んでいる理由はわからないが……。もしシオンが関係しているのなら、きちんと話した方がいい。何事も、後悔してからでは遅い」
後悔してからでは、遅い。その言葉は、すとん、とルクレティアの胸に落ちた。
そうだ。このまま聖歌を完成させられなければ、ロゼリアの姉を救うことはできなくなる。シオンはきっとそのことを後悔する。彼を苛む傷が増えてしまうのだ。
ルクレティアの瞳に理解の色が灯ったことに気づいたのか、ロゼリアが笑みを深めた。
「知りたかったのは、それだけだろうか?」
「ええ。嫌なことを聞き出してごめんなさい、ロゼリア。でも、話してくれてありがとう」
「いや。私も同じことをシオンにしたんだ。改めて、軽率だったと思うよ。力になれたのなら、私も嬉しい」
そう言ってはにかむロゼリアの腰にぎゅっと抱きつく。
「ありがとう、ロゼリア」
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
階段を駆け下りて行ったルクレティアの後ろ姿をじっと見送ったロゼリアは。
「上出来じゃねえか、ロゼリア。一字一句に至るまで台本どおりだ。アレンジしてもよかったのによぉ」
通路の陰からかかった男の声に、眉根を寄せた。
にやにやとした笑みを浮かべて歩み寄って来るのは、シオンたちと初めて出会った日。露店でロゼリアと揉めたあの男。
「俺に食って掛かったときの演技といい、意外と役者だよなあ」
からかうような賛辞に、眉間のシワを深める。
「そうだろうか? 空の調律師はとっくに私を疑っているようだが」
「そうなのか……? ま、いいじゃあねえか。ここまで来れたら、仕上げまであと少しだ。多少疑られたからって大したことでもないだろうよ」
楽天的な同志に、ロゼリアは嘆息する。
「こんな些細なことで、本当に魂の竜が目覚めるとは思えないが」
「我らが首魁の示す未来は絶対だ。あの方が必要だと言ったら、真実そうなのさ。ま、空の調律師さまのお手並み拝見といこうぜ。空の竜の加護とやらが、どれほどのものか、な」
くつくつと笑いを漏らす男に一瞥をやり、ロゼリアは沈黙を返すのだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!