満月を明日へと控えた晩。
ルクレティアはソファに仰向けに寝そべり、鼻歌交じりに楽譜帳を掲げていた。
室内を照らすランプの明かりに浮かび上がるのは、シオンが手ずから書き込んだ楽譜。宣言通りにたったの二日で彼は聖歌を完成させてしまった。目の前にあるのは、シオンが初めてルクレティアを歌い手に想定して作ってくれた聖歌。
五線譜を飾る音符と添えられた歌詞を眺めるだけで、自然と笑みが溢れてしまう。
完成した聖歌は、当然の如くルクレティアが得意とする音域で作られていた。
ルクレティアの歌の得意不得意なんて一度も聞かれなかったのに、やっぱりシオンは彼女のことをよくわかってくれている。
明日の晩、この聖歌をルクレティアが歌い上げることさえできればシオンの目的は果たされ、ロゼリアの姉も救うことができる。すべてはルクレティアの肩に掛かっていた。
半身を起こしたルクレティアは楽譜を胸に抱いて、床に座り込んでごそごそと旅仕度をしているシオンを見遣った。彼の背中に、声をかける。
「あのね、魂の竜の問題が解決したらロゼリアに会いに行ってもいい? わたし、ロゼリアにシオンのことできちんとお礼が言えていないの」
シオンと向き合うように背中を押してくれたのは、ロゼリアなのだ。聖歌がこうして完成したのは彼女のおかげとも言える。ありがとう、は伝えたけれど、改めてお礼が言いたかった。
「それは構わないけれど、ロゼリアがどこに住んでいるか訊いたのかい?」
「あ……」
振り返ったシオンは、青ざめたルクレティアに苦笑を滲ませた。ロゼリアと会うときはいつも彼女のほうから訪ねて来てくれていたから、住所を尋ねることをしなかったのだ。
こんな肝心なことをこれまで失念していただなんて。ルクレティアは萎れた花のようにしゅんと肩を落とした。
お昼に市場で買ってきた保存食や野営道具やらを大きなリュックサックに詰めて仕度を進めながら、シオンは背中越しに助言をくれる。
「問題が片付いたらどのみち陛下に報告しないといけないとは思っていたから、そのときに訊いてみるよ。たぶん調べてもらえるだろうから」
一国の王さまに頼みごとをするというのに、シオンは何でもないことのように言う。畏れ多いことだと思うのだけれど、誰もがこうなのか、シオンの神経が外見に反して案外と図太いのかは判断がつかなかった。
問題が片付いたらというのは魂の竜と交渉して、幻竜にこの地を去って貰うことを意味する。そうすれば、ヴェルスーズの安寧は約束されるだろう。ただ、それは表面上のこと。すべての禍根がなくなるわけではないことは想像が付いた。
ソファの上で膝を抱え、ルクレティアはポツリと呟く。
「ヴェルスーズの人たちは、生贄のお話を知ったらどう思うのかしら?」
生贄の制度がなくなっても、贄を捧げた事実は決して消えはしないのだ。
「……陛下はたぶん、市民には真実は公表しないと思うよ」
「知らないまま、過ごしていくの?」
その可能性はルクレティアだって考えた。けれど、果たしてそれでいいのだろうか。
再びこちらを振り返ったシオンは難しい顔で言う。
「ヴェルスーズの平和は生贄になった女性たちの命で成り立っていて、おまけに今までの犠牲はすべて無駄でしたなんてこと、どうしたって言えないだろう?」
「それじゃあ、生贄のことを知っている偉い人たちは? 怒ったりとか」
「事実を知っても何も言えないんじゃないかな。娘の命と引き換えに今の地位に就いてるんだろうし……抗議しようにも、染みついた特権意識を今更捨てられるとも思えないよ。ヴェルスーズは何も変わらずにこのままなんじゃないかな」
「それは、正しいことなの……?」
これから先も、ヴェルスーズは何事もなかったように時を刻んでいくと言う。もしルクレティアが遺族の立場なら納得いかないモヤモヤとしたものが残る気がする。
「正しくはないかもしれないけれど、どうすることもできない問題だってあるよ。知らない方が幸せなことはあると思うから」
世界にはルクレティアの知らないことで溢れ返っていて、そして同じくらいどうにもならない問題がある。納得がいかなくても、じゃあどうすればいいのかと問われてしまえば、ルクレティアは口を噤むことしかできない。
不満を露わにするのは簡単でも、問題を解決するのはとても難しいのだ。
「シオンにも、知りたくなかったって思った経験があるの?」
彼の言葉には実感が伴っているような気がしたのだ。
「沢山あるよ」
「例えば、なあに?」
小首を傾げると、シオンはやんわりとした笑みを浮かべた。
「そうだな……ティアが旅仕度を僕一人に押し付けて、ソファでくつろいでいる怠け者だってこと、とかかな?」
心外な物言いに、ルクレティアはめいっぱい抗議の声を上げる。
「そんな言い方ひどいわ! 腕のリハビリ代わりに一人で準備するって言ったのはシオンじゃないっ」
荷物を広げ始めたシオンに、ルクレティアも手伝いを申し出たのだ。それに対して、明日に備えてずっと庇っていた左腕を動かしたいからいい、なんて断ったのは彼なのに。
ルクレティアが憤慨すると、シオンはクスクスと笑みを溢した。からかわれたことを察したルクレティアが頰を膨らませると、やり過ぎたと反省したのだろうか、シオンは困ったように眉根を寄せる。
そうすると、彼のこの表情に弱いルクレティアは簡単に絆されてしまって、幻竜によって負傷した左腕をつい見つめてしまった。寝間着の下の素肌にはもう包帯は巻かれておらず、傷はかさぶたになっている。
「左腕は大丈夫?」
「出血の割に傷は浅かったし、問題なさそうかな。利き腕じゃないから剣も持たずに済むし、痛める不安もないしね」
ちらり、とシオンが視線を向けた先には鞘に収まった剣が立てかけられている。夕方、彼は入念に剣の手入れをしていた。壁に立てかけられた愛用の武器をじっと見つめるその眼差しは真剣で、明日が正念場なのだという実感が否が応でも湧いてくる。
成功すれば、魂の竜とも対峙することになる。七神竜はルクレティアからすれば物語の中の遠い存在だけれど、シオンにとっては違う。
「シオンは、空の竜に会ったことがあるのでしょう?」
「夢の中で数える程度に、だけどね」
「どんな神さまなの? やっぱり凄く威厳があったりするのかしら?」
こちらを向いた翡翠の瞳に思案の色が灯る。
「威厳、は……ないかな? 見た目は人間とそんなに変わらないし、話し方とかも人を小馬鹿にしてるというか」
何だかルクレティアのイメージとはまったく異なる神さま像が返ってきてしまった。戸惑うルクレティアの鼓膜を、仄暗さが滲むシオンの声音が刺激する。
「オルラントの為に色々と考えてはいるんだろうけどね……僕は嫌いだな」
「どうして?」
シオンがこんな風にはっきりと他人に嫌悪を示すところを、ルクレティアは初めて見る。
「……僕が大事に想っていたものを同じように想ってはくれなかったから、かな?」
「それは、フェリシアさんのこと?」
シオンの大事なものは聖歌以外にはそのくらいしか浮かんでこなかった。ルクレティアの確認に、彼ははっきりと首を横に振る。
「いや、フェリシアのことは空の竜は大事に想っているよ。そうじゃなければ、僕は今ここにはいない」
「それじゃあ……なあに?」
「さあ、なんだろうね」
「秘密なの?」
以前なら追求することは憚られたけれど、あの日以来ルクレティアはシオンに遠慮するのをやめてみた。そうすると、ルクレティアが懸念していたほどにはシオンは彼女を拒絶していないとわかった。
シオンは澄んだ瞳を瞬かせた後に首を捻る。
「秘密というか……僕は散々口に出してきたのに、気づいていないのはティアの方だよ?」
「うん?」
そう言われても、ルクレティアには見当もつかなかった。
「ええと……聖歌?」
聖歌を魂とも認める七神竜の一柱がまさかとは思うけれど、他に候補が思いつかなかったのだ。案の定、シオンは否定の仕草を取る。
「残念、ハズレだね」
「え、と……それじゃあ……」
うんうんと唸りながら何とか答えをひねり出そうとしている間に、立ち上がったシオンがぽん、と頭を撫でてきた。
「僕はそろそろ寝るよ。ティアも楽譜を眺めてばかりいないでちゃんと休むんだよ?」
「うん」
素直に返事をしてから、
「……あ、ずるいわ、シオンっ」
上手く逃げられたと気づいた時にはすでに彼の姿は寝室へと消えてしまっていた。
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