一の大陸ヴェルスーズは温暖気候に属し、空の六カ国のなかで最も過ごしやすい国と謳われている。
雨量が少なく、一年を通して春めいた気候が続くヴェルスーズは自然豊かな国で、西の大地に広がる麦畑はとりわけ有名だ。金色の穂がどこまでも続くその様は、飛行船の窓から見下ろすと壮観の一言。
ヴェルスーズには、大陸の南東に位置するルクシーレ以外に街はない。敷地が限られているため、建物は必然と天高く積み上げられ、遠くからだと塔が密集しているような街並みをしている。
街を北に抜けるとヴェルスーズの女王――アウレラ・ヴェルスーズが座す白亜の宮殿がある。
シオンとルクレティアがヴェルスーズへ到着したのは、太陽が高く昇った真昼のことだった。乗客でごった返す空港を後にしてルクシーレの南門へと続く大通りに出ると、照りつける陽射しは存外に強く、長袖の衣服では汗ばみそうなくらいだった。
「空の上なのは同じなのに、なんだか足が地に着いてる気がするわ!」
石畳の敷かれた道の端で立ち止まったルクレティアは、はしゃいだ声を上げる。
うん、と両手を広げて大きく伸びをした彼女は、清涼な空気をめいっぱい吸い込めて満足そうだ。
「ずっと飛行船の中だったから風が気持ちいいよね。でも、荷物はちゃんと自分で持ってくれないと」
シオンが両手に下げていた革のトランクケースの一つを差し出すと、はあい、なんて可愛らしくも間延びした返事が返ってくる。慣れない初めての土地に来たというのに、緊張が削がれてしまいそうだ。
荷物を受け取ったルクレティアが、ふと首を傾げた。
「……何だか、甘いにおいがするわ」
ルクレティアの言うとおり、風には何かの果実のような、甘やかなにおいが混じっていた。心当たりがあったシオンは、門までの道を挟むレンガの壁の前にずらりと並んだ花壇を目で示した。
植えられているのは、草丈の高い変わった花だった。青々と伸びた茎はルクレティアの膝下ほどまでありそうなくらい。茎の先にはふわふわとした花びらがたくさん連なっていて、にぎやかな印象を受ける。淡いオレンジや薄紫に染まった可憐な花弁は彩りに富んでいて、春めいた気候によく馴染んでいた。
花壇に近寄ったルクレティアが、花の香りを確かめるようにくん、とにおいを嗅ぎ、ぱちくりと目を瞬かせた。
「初めて見るお花だわ。それに、すごく甘いにおいがする」
「シルヴァリーって名前の花みたいだよ。ヴェルスーズの国花で街中に咲いているんだって」
ヴェルスーズの温暖な気候でしか育たない珍しい花らしい。本で仕入れた知識を披露すると、ルクレティアは感心したように笑う。
「シオンはなんでも知っているのね。それに、シルヴァリーだなんて素敵な名前だわ」
ルクレティアの笑顔はご機嫌そのもの。その理由はすぐに思い至って、シオンもくすりと微笑む。
「ああ、確かに。君にとってはそうだよね」
シルヴァリーは、オルラントの公用語であるヴェルセーヌ語ではない。聖歌の詩に用いられるアステルト語で、意味はそのまま聖歌、となる。ルクレティアにとっては嬉しい名前だろう。
鼻歌を歌いながら浮き浮きとした足取りで歩き出したルクレティアの向かう先には、街をぐるりと囲む城塞のような防壁がそびえ立っている。
銀髪のなびく背を追いかけようとしたシオンは、湧き上がってきた疑問に再び足を止めた。
視界の先には、無骨な石壁がある。
空の世界は常に強風にさらされていると思われがちだが、オルラントの空は例外だ。もちろん、時折強風が吹き付けることはあるけれど、浮遊大陸に吹く風は優しい。地上に比べて少し風が強いかな、程度。空の海では神のいたずらそのままに天候が荒れることもあるけれど、浮遊大陸にはそれすらもない。
なので、九百年ものあいだ大陸に地盤の問題が起きたことは一度としてなく、天上人はそれを七神竜の加護によるものだと信じている。
強風に備える必要などないと思うのだけれど、では、なぜあれほど大仰な防壁が設けられているのか。
「どうしたの、シオン?」
シオンの様子に気づいたルクレティアが戻ってきて、不思議そうにこちらを覗きこんでくる。
「……いや、なんでもないよ。ただ、帝国兵が多いなあって」
口をついて出た言葉は決して嘘ではない。通りを見張るように立つ重苦しい甲冑に兜を被った兵士の姿は、地上で見慣れたもの。ヴェルスーズの兵士でないことは一目瞭然だった。
「どの国にも帝国の兵士さんがいるってお話は、本当だったのね」
「徹底しているからね、帝国は」
条約を守り、密かに地上に仇なす行為を働いていないかどうかを見張るための、監視。それが彼らの務めだ。
防壁に設けられた門を見張る役人にふたり分の入国許可証を提示して街の中に入ると、シオンはようやくヴェルスーズに着いたという実感が湧いた。
人口の少ないマリステラとは違い、ルクシーレの人波は熱気がある。建物の造りも活気もすべてが異なり、空気が騒がしく感じられるくらい。
物珍しそうに視線をさまよわせるルクレティアに気づいて、シオンは一応声をかけた。
「ティア。目立つ行動は厳禁だからね」
念のために釘を刺すと、ルクレティアは不満そうに頰を膨らませる。
「シオンったら、なんだかわたしのお母さんみたいだわ」
「……保護者って意味ではあっているんじゃないかな。ティアの好奇心がいい方向に向いた試しがないだろう?」
マリステラで焜炉の使い方を誤って仮住まいの家を燃やしかけたり、飛行船の甲板で近寄ってきた鳥に夢中になって空の海に落ちかけたり――などなど。ルクレティアのやらかしは数え出したらキリがないのだ。
「……いいわ。それじゃあわたしの保護者さん? まずはどこに行くの?」
「宿に行って、荷物が届いているか確認しないと」
ふたりの旅の荷は事前にマリステラから定期便で送ってある。だから荷物はそれぞれトランクケース一つの軽装で済んでいるのだ。
「宿屋さんはどこかしら?」
塔のような建物はどれも似たように見えて、住居なのか何かの店なのかすら見分けがつかない。闇雲に探すよりも誰かに尋ねた方が早そうかな、とシオンが考えていると。
「見てみて、シオン。あそこ、人がたくさん集まってるわ。何かあるのかしら?」
服の袖を引かれてルクレティアの指し示すほうを見やると、人だかりの奥からちょこんと突き出た白いテントが目に入った。好奇心旺盛なルクレティアの探究心は早々に刺激されてしまったらしい。
「見に行ってみましょう?」
降り注ぐ太陽の日差しによって輝きを増す銀色の髪を軽やかに舞わせて、ルクレティアはシオンの返事も聞かずに小走りに通りを渡っていく。
「まったく……人の話を全然聞いていないんだから」
小言を漏らつつも、つい頬を緩めてしまう。楽しそうなルクレティアを見ていると、救われる気持ちになるのも事実だった。
そんな自分に罪悪感を抱く前に、シオンは人混みをかき分けて、野次馬の最前列にいるルクレティアの隣に並んだ。
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