空の世界には無数の浮島が点在していて、それらには国が管理する農場や貴族が所有する領地などがあると、ルクレティアはシオンに教えてもらったことがある。
ふたりが小型の飛空艇で連れて来られたのも、そんな浮島の一つに建てられた館だった。
煉瓦造りの屋敷は直径一キロメートルにも満たないであろう島の中央にぽつんと建っていて、ところどころに緑の木々が生い茂っていた。
魂の竜は奪われてしまったけれど、ルクレティアは拘束もされていなければ暴力を振るわれたわけでもない。ロゼリアに腕を引かれるままに屋敷の一室に案内され、現在は大人しく木椅子に座っていた。
カーテンすら掛かっていない窓から射しこむ朝日に照らされた部屋は、とにかく殺風景だった。絨毯は敷かれておらず床板は剥き出しで、家具と呼べるのはルクレティアが座っている椅子だけだ。手入れが行き届いていないのか空気は少し埃っぽい。
ルクレティアがおずおずと室内を見回している間に、ロゼリアは部屋を出て行こうとしていた。その背中に待ったをかける。
「……っ、待って、ロゼリア! シオンは大丈夫なの……?」
屋敷に隣接する格納庫から先に連れ出されたルクレティアは、飛空艇に取り残されたシオンがどうなったのか知らなかった。仲間らしき男に担がれて水晶谷を後にし、飛空艇に乗せられる間も彼が目を覚ますことはなく。その安否が心配で気が気ではなかった。
右側頭部で一つに括られたキャラメル色の髪がふわりと揺れ、振り返ったロゼリアは無感動に言う。
「……あなたが気にするべきことではない」
短い返事には、どうあってもシオンの置かれた状況は教えてもらえないと悟るのに十分なほどの冷淡さが込められていた。
自分たちがこれからどうなるのか。不安に思いながらも、豹変してしまったロゼリアの態度にルクレティアはひどく戸惑っていた。
麗らかな平和な午後。喫茶店で他愛ない会話を交わしたのはつい先日のこと。あれはすべて演技だったのか。ルクレティアはわからなくて、必死に会話の糸を紡ごうとする。
「ロゼリアのお姉さんがもういないっていうのは……?」
ドアノブに手をかけたロゼリアが、ピクリと反応した。彼女はため息を吐き、そっけなく答える。
「……簡単な話だ。姉さまは亡くなった。五年前に、生贄に捧げられて」
それだけ言って踵を返そうとするロゼリアの背中に、ルクレティアは懸命に訴えかけた。
「ロゼリア。わたし嬉しかったの。女の子とお話しするのなんて、ロゼリアが初めてだったから。だから、本当のあなたが知りたいの。どうしてこんなことをするの……?」
真白いブラウスに包まれた華奢な背中をじっと見つめると、ルクレティアの言葉が届いたのだろうか。ドアノブから手を離したロゼリアはゆっくりと歩み寄ってきた。ぎしり、と床板の軋む音と共に。
「……何を話す? 姉さまはもういない。あの竜に食われたんだ。父さまと母さまは姉さまの存在だけが生き甲斐だった。姉さまと違って不出来な私に両親が目を向けてくれたことは一度もない。だから姉さまが水晶谷に自ら赴いた次の日に、湖に身を投げた」
淡々と語られる身の上話は、ルクレティアの想像を超える重いもの。何を言えばいいのか、何かを言っていいのか。それすらわからなくて返す言葉を失うルクレティアの目の前でぴたりと足を止めたロゼリアが、かくりと首を傾げる。
「聞きたいか、こんな話が?」
「…………」
知りたいと言ったのはルクレティアなのに。何も言えない彼女に失望したのだろうか。ロゼリアの瞳に昏い色が灯った。
「私がどれだけ望んでも、姉さまにはもう会えない。すべてあの傲慢な神を気取る竜のせいだ。長年の風習が勘違いだと? 願ったり叶ったり? ふざけるな……っ!」
平坦だった口調は、堰を切ったように熱を帯び、ギュッと握られた拳は震えていた。
ロゼリアは魂の竜との会話を聞いていたのだと悟る。当事者の彼女にとって、竜の言葉がどれだけ心を引き裂くものだったか。想像してもなお余りある。
犠牲になった命に、竜はちょっとした意地悪だと言い放ったのだから。
「シオン・スタンフォードもあなたも言ったな? 私の力になりたいと。だがあなたたちは姉さまを殺した七神竜の手先だ! あのとき、あの言葉に私がどれほどの怒りを堪えたと思う?」
「違うわ! シオンもわたしも魂の竜の考えは間違ってると思うもの。ひどいって感じたわ!」
シオンは何も言わなかったけれど、魂の竜の物言いに憤りを感じていたのは伝わってきた。ふたりは神曲聖歌を求めているけれど、だからといって竜の手先だなんて、心外だった。
「ロゼリアを傷つけてごめんなさい。でもわたしたちがロゼリアの力になりたかった気持ちは嘘なんかじゃない。本物よ。お姉さんのことは手遅れだったかもしれないけど……でもっ」
ロゼリアが魂の竜を手に入れ、これから何をしようとしているのかは知らない。けれど、話を聞いて、今度こそ彼女の力になることだってできるかもしれない。
ルクレティアはロゼリアの心を救いたいのだ。ほんの少しでもこの想いが伝わって欲しいと、金緑の瞳を見上げると、彼女の双眸に冷ややかな色が宿った。
「その瞳だ」
「え?」
「生贄の話をしてから、あなたは私を哀れむように見る。その瞳がずっと嫌いだった」
――ロゼリアを哀れむ。
意識もしていなかったルクレティアは息を呑む。しかし、否定の言葉は喉の奥で凍りついてしまった。自信がなかったからだ。
水晶谷で助けてもらったとき。彼女の姉が生贄になるという話を聞いてから、ルクレティアがその境遇に同情していたのは事実だから。
「なぜ人間ですらないあなたが、私を哀れむ? 聖術で造られた人形が、なぜ私を下に見る? 私の人生はそれほど惨めか? 人ではない人形にすら劣るほどに?」
ロゼリアがなぜルクレティアの事情にこれほど精通しているのか。その疑問は今は湧いてこなかった。
――ただただ、悲しかった。
人形。そう。ルクレティアは人ではない。人の見かけをしているだけですべてが紛い物。それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
ロゼリアの言葉のすべてが痛い。彼女から投げつけられる言葉はまるで刃物のように鋭い。
ルクレティアは心の底からロゼリアの力になりたかった。生贄の問題を解決して、ロゼリアによかったねと言って、そして笑って欲しかったのだ。
けれど、そんな未来はもう来ない。根底が覆ってしまったから。彼女の姉はすでに亡くなっている。死んだ人間を生き返らせることなんてルクレティアにはできない。
帝国の偉い人たちは口を揃えて言った。機械人形は人の役に立つもの。そうでなくなれば、廃棄処分だ、と。役立たない人形など価値がない、と。
要らない、と言われることはとても怖くて。誰からも顧みてもらえないことがとても辛くて。
だからルクレティアは役目を放り出してシオンの手を取ってしまった。彼の優しい眼差しに縋ってしまった。
唐突に気づいてしまう。
ルクレティアが帝国を出たのは、シオンを支えたかったから。それは嘘ではない。けれど、真実でもない。
そうなのだ。
ルクレティアは本心では、逃げ出したかったのだ。たくさんの冷たい眼差しから。廃棄処分という、恐ろしい未来から。
帝国で役目を全うできずに逃げ出したルクレティアが誰かを救うなんてこと、どうしてできるだろうか。
人形が人を友達だなんて、傲慢な考えだった。だからロゼリアを傷つけてしまったのだ。
項垂れるルクレティアの耳朶を憐憫の声が撫でる。
「あなたは可哀想な人形だ。あなたは私に同情するが、私はあなたこそを憐れに思う」
「……わたしが、機械人形なのに人みたいなことを言うから?」
シオンと旅をしてルクレティアは自らをすっかり人と同化してしまっていた。人形が人間になれるはずもないのに。思い上がったルクレティアの勘違いを、ロゼリアは憐れんでいるのだろうか。
しかし、返って来たのは否定の仕草だ。
「違う。シオン・スタンフォードに利用されていることに気づかず、あの男を能天気に慕っているからだ」
ルクレティアは眉根を寄せた。ロゼリアは何が言いたいのだろう。
「ルクレティア。人はあなたが信じるほど優しくはない。みな、他人を利用して生きている。あの男も同じだ。あなたに優しい顔を見せていても、本心は違う」
「シオンが優しいのは、嘘なんかじゃないわ」
――人は自分のために他者を利用する。
シオンにだってそんな一面は確かにあるかもしれない。けれど、そのことと彼の持つ優しさを否定することは同義ではない。
だからルクレティアは毅然と言い返したのだけれど、ロゼリアの瞳に浮かぶ哀れみの情がいっそう深くなった。
「私の話を憶えているか? フェリシアという少女のことだ」
「シオンが話してくれたわ。大事な人だったって。それに……シオンが作った聖歌で殺してしまった……ってことも……」
ロゼリアがあからさまに眉をひそめた。
「……それだけか?」
――それだけ?
ルクレティアは耳を疑った。あの橋の上で打ち明けてもらったシオンの過去は、彼にとっては大きな告白だ。とても勇気のいる行為だったことは想像に難くない。
しかし、ロゼリアは嘲笑を浮かべる。
「やはりそうか……。あの男は肝心なことは何も語らなかったんだな。それも当然か。知られてしまっては、後の障害となる」
くすくすと笑い声を上げたロゼリアは、
「シオン・スタンフォードに代わって私が真実を教えよう。あなたはあの男に騙されているんだ、ルクレティア」
そう断言して、朗々と続ける。
「シオン・スタンフォードは、帝国である役目を負っている」
ルクレティアは目を瞬かせる。シオンが帝国で何をしていたのか、そのことなら知っていたから。
「シオンが終末の書の編曲をしていたのは、知ってるわ」
反発してそう返すと、ロゼリアは緩やかに首を横に振った。
「違う。空の竜から加護を与えられたスタンフォードの長子には、もう一つ重要な役目がある。寧ろ、こちらが本命だろう」
――そして。
「七神竜の寵愛を受ける神曲聖歌の無二の歌い手――フェリシアの魂を定着させる器を完成させること。それが、シオン・スタンフォードが背負う本当の役目。創造の書は歌い手の魂を壊し、空の世界の創世と共に眠りに就いたフェリシアの魂を結びつけるための聖歌だ」
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