「避難勧告が出ただろう。さっさと中に行け、邪魔だ」
ふたりを追い払うように乱暴な言葉を掛けてきたのは、三十ほどの大柄な男だった。日に焼けた浅黒い顔に、黒を基調とした旅装の上からでもわかる鍛えられたぶ厚い肉体。その背には長い銃身を持つ黒い銃が括りつけられていた。
「あなたは避難しないの?」
粗野な言葉にシオンは眉をひそめてしまったのだけれど、ルクレティアは気にした様子も見せずに無邪気に首を傾げる。
男はひゅう、と口笛を吹いてルクレティアを見下ろした。声を掛けてから初めて彼女の際立った容貌に気づいたのだろう。男はルクレティアの疑問には応えずに、舐め回すような視線を彼女に注ぐ。
シオンは両者のあいだにさりげなく割って入ると、男の旅装を検分してから、尋ねた。
「もしかして、聖術師ですか?」
「へえ、よくわかったな。まあ、銃の刻印を見りゃ世間知らずのガキでも気づくか」
男は自慢げに背に下げていた銃を手に取り、胸の前で掲げてみせた。持ち手の部分には聖術刻印と呼ばれる、月の紋章を中心にした六芒星の白い紋様が刻まれていた。
刻印武器と呼ばれる、聖術師が扱う武具だ。
聖術師は聖歌を扱う術師もいるが並外れたエーテルへの耐性が必要になるため、その数は極めて少ない。武器に刻まれた刻印を媒介にエーテルを取り込み、擬似的な聖術を扱うものが大半だ。
それでも空気中のエーテルを操る独自の感覚と耐性が必要になるので、その才能を持つ者は空の世界の人口でも千人に一人の割合だと言われている。
男も後者の術者で、おそらく飛行船の護衛で稼いでいる傭兵だろう。飛行船が幻妖種に襲われることは滅多にないが、年に数度は起こると聞くし、略奪目的の空賊が出没することもある。
「ま、そーいうこった。万が一の時は俺が対処するから素人はさっさと逃げな。邪魔だ」
「素人じゃないわ! シオンは……」
「はいはい、ティア。お言葉に甘えて僕らは中に行くよ」
食ってかかりそうになる彼女の背を押して船内に向かおうとしたとき、飛行船が大きく揺れた。
「きゃあ……っ!」
船体は激しく揺さぶられ、甲板が斜めに傾く。シオンは慌てて手近な手すりに掴まり、空の海に放り出されかけたルクレティアの腕を捕まえた。
一般の機械人形であればシオンの筋力では支えるのも難しいけれど、ルクレティアの体重は普通の少女のものと遜色ない。片腕だけの力で何とか彼女を引っ張り上げ、近くの手すりを掴ませる。
「ありがとう、シオン……。死んじゃうかと思ったわ」
機械の彼女に命は宿っていないのだから、第三者が聞けば疑問を抱く発言だろう。けれどシオンはそれには応えずに、薄緑の双眸を細めて眼下を見下ろした。
飛行船の後方でまるで間欠泉のように雲が吹き荒れ、青い空に舞い上がったかと思うと、今度は甲板の右舷前方から雲の飛沫が派手に上がり、黒い影が境界から飛び出してきた。
黒い疾風が飛行船の側方を駆け上がり、上空でふわりと静止する。
太陽の光を浴びて鈍く輝く蝙蝠めいた一対の翼がばさりとはためき、強風に飛行船が再び傾きかけ、ぐらりと揺れた。
黒い光沢を放つ鱗に覆われた巨体に、人どころか小型の飛空挺くらいなら丸呑みできそうな顎と牙。飛行船を見下ろす黒い双眸は目があっただけで腰を抜かしそうな鋭さを孕んでいる。
全長およそ三メートルほどの巨躯を持つ幻妖種は、竜のような見た目をしていた。
思わぬ大物の出現に、シオンは息を呑む。
「おいおい、ありゃあ、並の幻妖種じゃねえな。幻竜だ。なんであんなバケモンがこの界域にいやがるんだ」
手すりから身を乗り出した男の呟きには、強い緊張がにじんでいた。
地上から境界のある高度まで上がってこれる幻妖種というのは個体が限られている。幻竜はそのなかでも遭遇したならばその日航界に出たものは運が悪かったと命を諦めるべき、ばけもの級の幻妖種だ。
おそらく界面で襲われていたであろう帝国の飛空挺はなすすべもなく撃墜されたに違いない。
【此に捧げるは焔の書。賢人たるアナティウムが創りし調べの唄】
飛行船の外装に取り付けられた拡声器から、抑揚に欠ける、無機質な女の声が流れてきた。
それは聖歌と呼ばれる奇跡を紡ぐ歌であり、歌い手はこの飛行船に積まれているであろう機械人形だ。
歌が終わると術が完成し、空に火球が生まれ、それは幻竜に向かって放たれた。
――並の幻妖種ならば十分な威嚇になるのだけれど。
幻竜は翼を器用に羽ばたかせて滑空すると、炎の弾丸をことごとくかわしていく。さらにいくつかの火球が生成され再び幻竜を襲うが、黒竜は空の海を泳いで悠然とかわした。
いつのまにか幻竜への照準を合わせていたらしい男が、銃の引き金を引く。放たれた銃弾は一直線に竜の肩を捉え、着弾するとたちまちその巨体が炎に包まれた。
一瞬の制止をついた攻撃は見事だったが――。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ」
炎がかき消え、姿を現した幻竜の鱗にほとんど傷はなく、表面がかすかに焦げているだけだ。
術者の才能にもよるが、歌という工程を省いているがために、刻印を用いた聖術の威力は聖歌と比べて格段に落ちる。強靭な鱗で守られたあの幻妖種にはダメージを与えるには至らなかったようだ。
鉄の塊に意識を向けていた幻妖種が、そこで初めて甲板の一点に意識を向けた。凶暴な瞳がぎろりと男を睨みすえる。
船内からは、悲鳴が聞こえてくる。船室の乗客たちは、いつ死んでもおかしくないこの状況に恐慌状態へ陥っているに違いない。
このまま体当たりでもされたら、飛行船は一撃で落ちかねないのだから。
一連の攻防を息を詰めて見つめていたシオンは、右耳に着けているピアスにそっと指を這わせた。
透明感のある青い水晶を加工して金の台座に据えたそれは、一見ただの装飾品に見えるけれど、帝国の機械技術の粋が注ぎ込まれた、小型の通信機械。
対になるピアスを持つ相手と遠距離での会話が可能になり、この場合のシオンの相手はルクレティアになる。
「ティア、通信機のスイッチ入れておいて」
「シオン?」
驚いたようにこちらを見返してくる藍の瞳に頷いてみせ、シオンは剣を抜いた。両刃の片手剣の刀身には、男の銃と同じく聖術を発動させるための刻印が刻まれていた。
シオンはいまだ放心状態の男に声を掛ける。
「幻竜が近づいてきたら、ギリギリの距離で銃を一発だけ撃ち込んでください。その後は僕が引き受けます」
「はあ? なにバカなこと言ってやがる! さっきの見てなかったのか? あんなばけもの、出会った時点で詰んでるんだよ!」
すでに死を覚悟しているらしい男の態度はいっそ潔いかもしれないけれど、シオンは生憎とこんなところで死にたくはなかった。
だから、頭一つ分ほど上にある男の目を見上げ、強く言う。
「聖術師なら、弱音を吐く前に最後まで生き残る努力をするべきです」
「小賢しいことを言うがな、俺の攻撃は効かねえし、この船の機械人形に組み込まれてる術式は当たらねえ! どうしろってんだ!? そんな小枝みてえな剣でどうにかなるとでも思ってんのかっ?」
怒りで顔を真っ赤にした男に、シオンは目線でルクレティアを示す。
「彼女は聖歌を扱える聖術師です」
機械人形だと説明すると面倒なことになるので、シオンはいつも第三者にはルクレティアを聖術師だと紹介していた。驚いたように目を見開く男に、続ける。
「そして僕は調律師です。幻竜に対抗できる楽譜は持っています。戦術次第ではやつを退けられるはず」
落ち着きを取り戻し始めたらしき男に、シオンはさらに畳み掛けた。
「彼女が聖歌を歌うあいだ、僕が幻竜の足止めをします。銃を撃ったらあなたは操縦室まで行って飛行船が離れすぎないように指示を……」
「シオン! 竜がっ!!」
ルクレティアの叫びに、シオンは上空を見上げた。太陽を背にした幻竜が翼をたたみ、甲板めがけて急下降してくるところだった。
まだ説明の途中だったけれど最低限言いたいことは伝わったはずで、シオンは剣を手にして手すりに飛び乗った。
幻竜の体がみるみる迫り、烈風に手すりから振り落とされそうになる。片膝をついて手すりを掴み、体を支えることで何とか耐える。竜の腕が振り上がり、その爪が船体に叩きつけられる直前に、シオンは叫んだ。
「いまだ! 撃って!!」
火線が竜の顔面を正確に捉え、炎をまともに喰らった竜はたじろぎ、その巨体がふらりと揺れる。反射の行動か、竜の翼が態勢を整えるために羽ばたくと豪風に船体が激しく揺れた。
「ティア、足場をお願いッ!」
振り返ることもせずに右耳のピアスに向けて叫んだシオンは手すりを蹴り、空の海へと体を投げ出した。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!