一夜が明け、三人は宿の一階に設けられた食堂で朝食を取っていた。
シオンは食事を終えたらまた図書館に行くつもりみたいだ。何やら彼には閃いたことがあるらしく、進展があったら報せるよ、とロゼリアに告げているのをルクレティアは隣で聞いていた。
朝日の差し込むテーブルに並ぶのはほわりと湯気の立つまん丸の生地にシルヴァリーの蜜をたっぷりとかけた三枚重ねのパンケーキ。焦げ目の付いたソーセージに目玉焼き。シャッキリとしたサラダ。ご機嫌な朝食だった。
ルクレティアはいつものようにテーブルに頬杖をついてふたりの食事を見守るだけ。ロゼリアはルクレティアが食事を取らないことを内心で疑問に思っているだろうに、事情を尋ねてくることはしないので助かっていた。
そんな穏やかな朝の空気を引き裂いたのは、ロゼリアからのシオンへの問いかけだった。
「……そういえば、シオン。昨夜、あなたの寝言で気になったことがあるんだが」
「寝言? 僕が?」
シオンがきょとん、と瞬きをした。
ルクレティアもまた、内心で首を傾げる。当然ながら、昨夜もルクレティアは一睡もしていない。シオンの寝言なんて記憶になかった。ルクレティアはふたりに挟まれる位置で横になっていたのだけれど、聞き逃してしまったのだろうか。
「僕、何か言っていた?」
不思議そうに尋ねるシオンに、ロゼリアは悪戯っぽく瞳を細めた。
「フェリシアというのは、あなたの恋人の名前だったりするのか?」
その瞬間。
シオンの瞳が、凍りついた。穏やかな色を讃えていた翡翠の瞳が大きく見開かれ、ロゼリアへと据えられる。
ルクレティアにとっては聞いたことのない名前だった。
けれど、何だろう。妙に胸がざわめいて、ルクレティアは表現し難い気持ちになる。
もやもやとする胸に戸惑っているとシオンの低い声が耳朶を打った。
「……それ、僕が言ったの?」
「ああ。女性の名だろうし、寝言で口にするくらいだから恋人の名前だったりするんじゃないかと思って」
「…………」
「どうしたんだ? ルクレティアの前だと気まずいとか?」
「わたし?」
いきなり矛先を向けられて、ルクレティアは目を瞬かせる。ちらり、とこちらを見たシオンと目が合う。
「…………ティアは関係ないよ」
長い沈黙の後にそれだけ言って、シオンは止めていた食事の手を再開させた。黄金色のパンケーキを黙々と切り分けるシオンのそっけない返しはロゼリアにとっては納得がいかなかったのか、彼女はあからさまに柳眉をひそめた。
「どうして隠すんだ? 恋人がいるのなら、ルクレティアとふたり旅なんて不味いんじゃないのか?」
ロゼリアはよほど気になるのか、シオンの沈黙を意に介さず追及の手を緩めない。穏やかなシオンの空気がだんだんとひりついて行くのをひしひしと感じたルクレティアは、どうやって話題を変えればいいのかわからなくて、オロオロしてしまう。
「あの、ロゼリア……」
「シオン? フェリシアという人は、あなたの」
ダンッ、と。
グラスをテーブルに叩きつける音が鋭く響いた。ぴちゃん、と跳ねた水がテーブルの木目に染み込んでいく。ざわめいていた食堂がしん、と静まり返り、客からの視線がちらちらと向けられる。
ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がったシオンは、滅多にない厳しい顔でロゼリアを見下ろして、冷ややかな声音で言う。
「その名前、嫌いなんだ。二度と口にしないでくれ」
それだけ告げたシオンは、階段を上がって行ってしまった。彼の姿が見えなくなると、ルクレティアは流石に声を荒げて、ロゼリアを責め立てた。
「ロゼリア! どうしてあんなにしつこく尋ねたりしたのっ?」
ルクレティアの非難に、ロゼリアは心外そうに眉根を寄せる。
「ルクレティアこそ、気にならないのか? シオンに恋人がいるのなら、いくらなんでも不誠実だろう」
フェリシア、というのが誰のことなのかルクレティアはわからないし、シオンにとってどんな存在なのかも、もちろん知らない。けれど。
「シオンには、やらないといけないことがあるの。わたしはそのお手伝いをしているだけよ」
ルクレティアは、そのためにシオンの側にいるのだ。
「ロゼリアはわたしの心配をしてくれているのよね? でもわたし、シオンが傷つくのは一番嫌だわ」
ロゼリアが執拗に追求したのは、ルクレティアのことを慮ってくれたのだと思う。しかし、それでシオンを傷つけては本末転倒なのだと、どうか理解して欲しかった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
ルクレティアが客室に戻ると、シオンは片膝を立ててぼんやりとソファに座っていた。
音を立てて後ろ手に扉を閉めると、柔らかな金髪が揺れて、その顔がルクレティアへと向けられた。
「……勝手に部屋に戻ったりしてごめん」
こんな時でも自分から謝るのがシオンらしい。
ふるふると首を横に振ってから、ルクレティアは少し悩んだ後にシオンの対面のソファに腰掛けた。
ロゼリアへ向けた刺々しい空気は失われていたけれど、翳った瞳は常のシオンのものとは違う。
彼女の言葉はシオンにとっては心穏やかではいられないものだったかもしれないけれど、悪気がなかったことはわかって欲しかった。
「あのね、悪意と善意のお話をしてくれたでしょう? ロゼリアはね、わたしのことを心配してくれていたの。だからね、シオンのことを傷つけるつもりじゃなくて……あの」
うまく言葉が出てこない。踏み込まれたくないことはきっと誰にでもあって。ロゼリアの行為は善意からのものであっても、シオンの胸の内を無理やり暴こうとしたのだ。
それはきっと、とてもひどいこと。
「……ティア」
「う、うん? なあに?」
沈黙に耐えかねたのか、それとも口ごもるルクレティアを見かねたのか。顔を上げたシオンは、困ったような顔で言う。
「……僕は、君を苦しめているのかな?」
予想もしていなかった問いかけに息を呑んでしまう。
「どうして、そんな風に思うの?」
そっと顔をうつむかせたシオンは、暗い声で続ける。
「話せないことが、多いから。気づいているよね。僕はきみにたくさんの秘密を持ってる」
知ってる。神曲聖歌を集めたい理由や、彼の過去。ルクレティアは知らないことばかり。けれど、それ以上にシオンは何かを隠しているのだ。漠然とそれだけは察していた。だからシオンは時々苦しそうな顔をするのだと。
「苦しくなんてないわ」
「どうして? たいしたことじゃないと、思うから?」
「それは、わからないわ。でもシオンはわたしのことをいつも見てくれているわ。困ってるときは絶対に助けてくれるし、自分が怪我をしてもわたしを守ろうとしてくれるでしょう?」
シオンはお小言を漏らしながらも、いつだってルクレティアに手を差し伸べてくれる。
ルクレティアは人ではない。怪我をしても聖術で簡単に治ってしまう。それでもシオンは幻竜の爪から身を呈して庇ってくれた。彼なりにルクレティアのことを大事にしてくれるのを、いつだって実感している。
「だから、わかるわ。シオンが何かを隠してるのはわたしのためだって。わたしが傷つくようなことは、シオンはしないわ」
シオンの心の中を読むことなんてルクレティアにはできないけれど。その確信だけはあるのだ。
ほんの少しでも彼の心を晴らすことができただろうかと怖々と窺うと、翡翠色の瞳は大きく揺れていた。綺麗な顔が、ひどく苦しそうに歪められる。
あれ、と思った。いま、彼はとても傷ついている。
一体、何を間違えてしまったのだろう。わからなくて、ルクレティアは何も言えなくなる。
シオンがゆっくりと立ち上がった。
おそるおそる彼の顔を見上げると、
覗き込んでくる瞳に色んな感情が灯っている気がした。
まただ、と思う。初めて会ったときからそう。彼はときどき、ルクレティアを通して何かを見ている。とてもとても、悲しそうに。
持ち上がった手のひらがルクレティアの小さな頭を、遠慮がちに撫でてくる。
「シオン……?」
「ごめんね、ティア。それから、ありがとう」
相反する二つの言葉を口にして、シオンは部屋を出て行った。
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