大陸から大陸へと長距離航界する大型飛行船の甲板に立つ青年は、照りつける太陽の眩しさに翡翠色の瞳を細めた。
すっと伸びた肢体は細身で、風になびく蜂蜜色の髪が被さった顔立ちは中性的で柔和なもの。白のインナーシャツの上に空色のショートジャケットを羽織り、黒のズボンを合わせた出で立ちをしている。
青年が見下ろす世界は一面が真っ白で、陽の光を孕んでキラキラと輝いていた。
一万メートル下にある地上の景色を遮るぶ厚いそれは一見するとただの雲なのだけれど、厳密には違う。水蒸気ではなくエーテルと呼ばれる元素から構成されていて、空の境界と呼ばれるそれは、空気中で自然生成されてさまざまな恩恵を人に与えてくれる。
境界から目線を上げれば、今度は視界いっぱいに青空が広がる。
蒼穹に染まった空の遠くには、いくつもの点が浮かんでいた。陽射しが眩しくて見えづらいけれど面積の大部分が石でできているそれは上部が緑に覆われていて、浮島と呼ばれる人の住んでいない小さな島だ。
空の世界と呼ばれるオルラントの空では、あれらの小さな島と何百万という人口を抱えた大陸が浮遊して構成されている。
島を浮かせるだけの浮力を生み出しているのが空の境界だと誰もが教えを受けるけれど、詳しい原理は明らかになっていない。
空で暮らす天上人は、この大陸の成り立ちや原理なんて気にしない。
人々にとっては大陸が空に浮遊していることはあたりまえのことだし、九百年の間で文明も技術も発達し、繁栄に成功している天上人はこの境界の下にいまだ地上が存在し、取り残された人々が生活しているということすら忘れていそうなくらいだった。
「ねえ、シオン。空の上って空気が薄くてとても寒いのでしょう? どうして人は空の世界で生きていけるの?」
鈴の鳴るような可愛らしい声に、青年――シオン・スタンフォードは視線を隣へと移した。
強風にあおられて流れる長い銀髪が目を惹く、十代半ばごろの綺麗な少女が甲板の手すりから身を乗り出し、飛行船のはるか下に浮かぶ空の境界をまじまじと見つめている。
繊細な睫毛に守られた藍色の瞳に、透けるような白く滑らかな肌を白を基調としたクローク状の外套で包んだ、可憐な少女。
ルクレティアという名の彼女は、九百年以上前に地上で発展し、空では廃れた技術の産物――自立型歌唱人形と呼ばれる機械人形で、人ではない。
けれどルクレティアはその中でも特別性で、他の機械人形みたいに機械然としていない。
肌は機械のパーツを組み合わせた無機質なものではなく、やわらかな質感にぬくもりだってある。くるくると変わる表情は愛らしく、どこからどう見ても人間のそれ。
そしてシオンにとっての彼女は機械人形などではなく、感情豊かなひとりの女の子だった。
好奇心の塊みたいなルクレティアと旅をするようになって一年半が経つけれど、好奇心旺盛な少女の疑問を満たすにはそれだけの年月では足りていないようだ。
顔立ちから来る穏やかな印象を助長させるだろう柔らかな笑みを浮かべたシオンは、ルクレティアの瞳を見下ろす。
「空の境界の話は前にしたよね? 覚えているかい?」
「空気中のエーテルが自然に状態変化してできてる、地上と空を分ける、どこまでも続く雲の境界線のことでしょう?」
空の境界の下には水蒸気でできる本物の雲が存在するし、浮遊大陸の上空にも雲はできるので紛らわしいが、シオンは頷いた。
「うん、そう。境界から上はエーテルの濃度が地上に比べてずっと高くて、下の常識は関係ないんだよ」
空気中のエーテルを歌によって状態変化させ、無から有を生み出す万能の魔法――聖術によって成り立つこの空の世界に、地上の常識なんて通用しないのだ。
「天上人に聖歌を歌える人がいるのも、それが理由なの?」
「うん。地上人に比べて天上人は濃度の高いエーテルに体が慣れているから、聖歌を歌っても害がない人もいるみたいだね」
「それじゃあ、自立型歌唱人形も形なしね」
ルクレティアの感想に、シオンは苦笑する。
聖術は聖歌と呼ばれる歌によって空気に溶けこむエーテルを変化させ、無から有を生み出す力だ。
しかし、聖歌を歌う際に体内に取り込むエーテルの量は人にとっては有害で、それゆえに人に聖術は扱えない。
それが常識で、そのために開発されたのが自立型歌唱人形だ。機械であれば、エーテルの害を受けることはない。
人類の天敵――幻妖種に対抗するための手段として発展した技術なのだが、ここ三十年ほどで空では生身で聖歌を扱えるもの――聖術師が増えてきていた。
シオンとルクレティアは地上で唯一残されている人の住む国――アーランド帝国からやってきた。
なので双方の文化に目で触れてきたのだけれど、機械工学の発展している帝国に比べて、空の国々はエーテルを利用した夢幻機関と呼ばれる永久機関に頼った技術が浸透してきている。
今の時代、地上から空へと移住するものは少ないし、その逆もまたしかりだ。
地上に残っているものは空での生活に不安を持っているし、空で暮らすものは幻妖種とよばれる怪物が生息している危険な地上に降りる理由がない。
そもそも浮遊大陸は幻妖種から逃れるために神が人に与えた大地だと伝えられているのだ。空にも幻妖種が出現することはあるが、地上に比べれば頻度は稀。
現代の人々にとっては、この空の世界こそが安息の地だった。
「ねえ、シオン。あそこ! 何か光が見えるわ」
シオンの説明に不思議そうに境界を眺めていたルクレティアが、突然声を上げた。
彼女が指差す飛行船の遥か下。境界の界面で、眩い光がちかちかとしていた。
「あれって……聖術?」
シオンが眉をひそめたとき、甲高い警報音が船内に響いた。
『乗客のみなさまにお知らせいたします。現在この船は一の大陸ヴェルスーズに向けて航界中ですが、空の境界において帝国の飛空挺が幻妖種と交戦中の模様。非常事態に備え、シートベルトをご着用ください。また、甲板におられますお客様は、速やかに船内へとお戻りください』
帝国兵は空のすべての国に常駐しているし、水や鉄などの資源は空では貴重だ。全ての資源を賄うことは難しく、帝国から運搬されている。
そのため定期的に帝国の飛空挺は空と地上を行き来していて、今境界面を飛行しているのも物資の運搬か航路確保のための偵察隊だろう。
「……だって、ティア。僕らも中に戻ろう」
慌てて船内へ帰っていく客たちを視界の端に、シオンはルクレティアを促す。すると、彼女は不満そうに唇を尖らせた。
「飛行船だって襲われるかもしれないのに、知らんぷりするの?」
ルクレティアの大きな瞳は、シオンの腰にぶら下がった剣の鞘に向けられている。
幻妖種退治は、地上で十八年生きてきたシオンにとっては心得のあるもの。もちろん、飛行船が撃墜されるような事態になれば見て見ぬ振りなんてできない。
――けれど。
「忘れたのかい、ティア。僕らは帝国のお尋ね者なんだよ? 目立つ行動は避けないと」
「あ……」
彼女は澄んだ双眸を瞠る。
ルクレティアは、ある目的のために帝国で造られた特別な存在だった。そんな彼女となぜ共にいるかといえば、シオンが許可なく連れ出した盗人だからに他ならない。
ルクレティアのことは帝国でも極秘扱いだったから一般兵が自分たちを見ても捕まる危険はまずない。この一年半で二人が指名手配されているという情報もなかった。しかし、避けられる面倒ごとは事前に避けるべきだ。
それでも不安そうに遥か下の光の動きを目で追うルクレティアに、シオンは苦笑と共にそっと言葉を付け加えた。
「大丈夫だよ。帝国の飛空挺にもこの船にも、幻妖種の迎撃装置はあるんだし。それに……」
「おい、そこのガキども。さっきの警告が聞こえなかったのか?」
シオンの言葉を遮って、背後から低く野太い男の声が掛かった。
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