「こうしてリッくんとわたしは可哀想な女の子を助けたのです」
話の重さに反した明るい声音で、レトはそう締め括った。
幻竜に生贄を捧げるという行為を数百年のあいだ続けてきたのだ。このような悲劇はきっと、知られていないだけで何度か起きたのかもしれない。
物心ついた頃から離宮で過ごしていたシオンには、家族との思い出はない。だから一般的な感覚がわからないけれど、ロゼリアの絶望はどれほどのものだったのか。いくら長女を溺愛していたとはいえ、同じ娘であるロゼリアを殺そうとするだなんて。シオンには理解できない考えだった。
「ロゼリアの両親はそれからどうなったんだい……?」
「湖に身を投げたって、新聞で読んだわ。ロゼリアを突き落したのは無理心中ってやつだったのね。でも、考えてみれば自然な流れだったのかな?」
レトは若草色の瞳を細め、
「リッくんが後になって調べたところによると、ロゼリアは養子だったみたい。赤ん坊の頃に孤児院から引き取られたらしいから本人は知らないでしょうけど。ねえ、空の人。これが何を意味するか、わかる?」
間近から見上げてくるレトの瞳が冷たく揺らめいた。
「…………」
サージェント家の実子はロゼリアの姉のみ。彼女は身体が弱く、後継者としてロゼリアを引き取った、と考えるのが自然だろうけれども。サージェント家の当主は娘が選ばれる前から贄の制度を知っていたはず。
それなら――。
「リッくんに黙っていろって言われたから話してないんだけど。生贄にされかけたことも、川に突き落とされたのも、予定調和だったのね」
ふう、と嘆息したレトの声音には悼みも同情もない。淡々と事実を語っているだけという感じだった。
「ロゼリアは、何をするつもりなんだい?」
「加護をもたない人が神曲聖歌を歌うとどうなるか……空の人は、知っている?」
――大陸一つがなくなっても不思議じゃないよね。
あっけらかんとした、空の竜の言葉が蘇る。
「まさか」
「ヴェルスーズは、今日で滅びちゃうかも?」
蒼白になるシオンに、レトは天使のように愛らしい笑みで応える。
「そんなことっ! いくらなんでもやり過ぎだッ!」
「ロゼリアの絶望はとっても深かったのね。命を捨てて復讐を成し遂げるなんて、とっても理にかなった命の使い道でしょ?」
「だからって、無関係の人たちまで巻き込んでヴェルスーズを滅ぼすだなんて、どうかしてるっ」
「本当に無関係かしら? 無知は罪って言うじゃない? 犠牲になった命を知らずに安穏と過ごしてきた対価を払う義務があるとは思わない?」
「それは……っ」
シオンは言葉に詰まる。ルクレティアとも何度か話題になったこと。どうするのが正しいのかなんて、シオンにはわからない。けれど。
「知る必要はあるのかもしれない。王家も裁かれるべきなのかも。でも、極端だよ、こんなの」
「綺麗事ね。空の人は無関係だからそんなことが言えるんじゃないかな。当事者からすれば、たまったものじゃないと思うわ」
肩を竦めるレトに、シオンは眉をひそめる。
「君だって当事者じゃないだろう?」
「うん、そう。だからね、どうでもいいの。ヴェルスーズが滅ぼうとどうなろうと、知ったことじゃないわ」
レトに抱いた見ていて和む、なんて感想をシオンは内心で撤回した。暖簾に腕押し。何を言っても彼女には響かないのだと、短いやりとりで察せてきていた。
「……それならロゼリアのことは? 魂の竜を歌ったらロゼリアは無事じゃ済まない。彼女は仲間だろう? 歌えば命を落とすとわかっていて、見殺しにするのかい?」
「仲間……うーん。ロゼリアはたぶんわたしが嫌いだと思うのよね〜。リッくんにもよく、神経を逆なでするなって叱られたわ。それでね、わたしもロゼリアには興味がないの。ロゼリアが死んでも心は動かないわ。向こうもたぶんそう。これって、仲間って言えるのかしら?」
エリックにはあんなに懐いていたのに、レトはどうでもよさそうに言う。
「でも、ロゼリアの命を救ったのは君たちなんだろう? せっかく助けたのに彼女を見殺しにするのは――」
「空の人は勘違いしてるわ。わたしたちがロゼリアを助けたのは、善意からじゃないの。この日のためよ」
「この日?」
何を言われたのかわからずに、間抜けにもおうむ返しをしてしまった。
「リッくんは、空の竜に選ばれたあなたに会いたがっていた。ロゼリアを助けることで、今日の出逢いが実現すると知っていたの」
「どういう……?」
「ロゼリアは空の人の事情に詳しかったでしょう? 不思議に思っていたんじゃない?」
思っていた。フェリシアのこと。シオンを軽蔑すると言い放ったこと。帝国の事情に精通していなければあんな台詞は出てこないはず。その情報源はどこにあるのか。正解を、レトが教えてくれる。
「ロゼリアにあなたのことを教えたのはリッくんよ。七神竜の加護を持つのは、空の人だけじゃないのよ? 神曲聖歌を完成させることは七神竜の悲願。そのための因果を手繰り寄せる力だってあるわ。でも、すべての神竜が空の竜の考えに賛同しているわけでもないの」
神曲聖歌を完成させることは七神竜の総意。そう思っていたけれど、空の竜の意志に従わない神竜だっている可能性に、ようやく気づく。
そして、レトが何を言いたいのかもわかった。
「君たちは、神曲聖歌を持っているのかい?」
「せいか〜い。どうする? 空の人は神曲聖歌が欲しいんでしょ? 力づくで奪ってみる? あ〜でもでも、空の人の剣の腕じゃ、リッくんには逆立ちしても敵わないと思うな」
レトは楽しそうに唇の端を持ち上げた。どの神竜かまではわからないけれど、楽譜と加護を持っているのなら彼女たちが神曲聖歌や帝国の事情に詳しかったことも納得だった。
楽譜を所持しているのなら神竜が側にいるはずだし、加護まで与えられたのならその関係性は良好なはずだからだ。
シオンの目的は神曲聖歌を完成させること。彼女たちが楽譜を所持しているならどうにかして奪う必要がある。
――しかし。
悪戯っぽい笑みとともにシオンの答えを待つレトに向けて、首を横に振った。
「ロゼリアに、会わせてほしい。彼女を止めないと」
レトは大きな目を瞬かせた。
「神曲聖歌はいいの?」
「僕は、一度選択を間違えた。だから今度は間違えたくないんだ。ここで僕がロゼリアを見過ごしたら、ティアに怒られるよ。だってロゼリアは、ティアの友達だから」
ルクレティアは、ロゼリアを見殺しにしたりなんて絶対にしない。彼女にあれだけの信頼を寄せられているシオンが、ルクレティアを悲しませる選択をするわけにはいかないのだ。
「ロゼリアの気持ちがわかるなんて言えないし、どうするべきかなんてわからないけど。ヴェルスーズに住んでいるひとたちを犠牲にするなんてだめだよ、絶対に間違ってる。それだけはわかる」
間違えた道の先には何もない。抜け出せない暗闇が続くだけ。いまならまだ、彼女は戻れる。
嘲笑されるだろうか。レトの反応を待っていると、彼女は冷たい笑みを引っ込めて花が咲いたように微笑んだ。
「そう。なら、空の人があの石頭さんを何とかしてあげて。わたしはロゼリアがどうなっても構わないんだけど。助かるならその方がいいわ」
予想外の反応に虚を突かれているあいだに、レトはソファの下をまさぐった。取り出したのは、銀色の小さな鍵。
シオンを拘束していた手錠に手を伸ばしたレトがかしゃん、と、鍵を回した。冷たい感触がなくなり、自由になった右手首を動かしつつ、シオンはふと気づく。
「今更だけど、エリックさんに逆らったりして大丈夫なの? 君も解放軍のメンバーなら、彼は主人みたいなものなんじゃ?」
「空の人ってばやっさし~い。でもでも、勘違いしてるわ。リッくんは主人じゃないわ。リッくんだけがわたしを守ってくれる、わたしのたった一人の王子さまなの。お姫さまを叱る王子さまなんていないわ。はい、空の人」
よくわからないことを言いつつ、レトはまたソファの下に手を伸ばす。今度差し出されたのは、鞘に収まった片手剣。シオンの武器だった。どうやら水晶谷で回収しておいてくれたらしい。
手に馴染んだ重みを受け取ると、レトがにっこりと笑った。
「空の人。わたし、優しい人は大好きよ。リッくんの次に空の人は好き。だから予言をあげるね。探し人ができたら、ルクシーレの時計塔に登るといいわ。女の子はそこで泣いてるから」
「それって……」
シオンが問い質そうとした瞬間。ぐらり、と床が激しく振動した。
館全体がゆさぶられ、棚に収められていた本が床に散らばり、照明が激しく揺れた。
「……っ」
ソファの背もたれを掴んで揺れが収まるのを待つと、
「あらら。ロゼリアってば。やっぱりタンサイボーさんだったのね」
レトがそう言ってため息を吐いた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!